2018年08月20日

ギリヤーク、アマガーサキ!

大駱駝艦に入ってすぐに大須大道町人祭の金粉ショウがあったけれど、私的な用事で行くことができなかった。大須の金粉ショウは登竜門的な修行の場で、毎年新人が派遣される伝統だったのだが。

お客さんから直接お金を頂くというのが金粉・大道芸の醍醐味で、頑張ればその分お金という評価としてかえってくるのでやり甲斐は半端ない。

大勢の観客の真ん前でツンイチで踊り、その場で投げ銭を頂く。まさに裸一貫の勝負で踊りがまずければ一銭ももらえない。スリリングなやりとりの現場で新人にとってはたいへん貴重な鍛錬の場。

大須から帰ってきた村松卓矢や大友透が興奮気味に思い出話しをするのを羨ましく聞いた。初っ端に行けなかったからかそこから大須の大道芸とは縁がなかった。

「金粉に行くと変な癖がついてしまうからな。」と自分を慰めていた。けど悔しかったんだな。

初めて大須に行ったのは、結構経ってからだった。1997年10月、麿さんのソロ公演『トナリは何をする人ぞ』の神戸公演の帰りだった。

その時にギリヤーク尼崎さんを初めて目撃した。気の狂ったお婆さんが踊り狂って走り回って水をかぶって。おそらくあの時に大道芸の真髄を観たのだと思う。

中国雑技団のような神技ではなく、パントマイムのエレガンスでもない、からだひとつを投げ出しその身を観客に晒し人間のエネルギーとパワーと狂気を放出する。

はじめてギリヤークさんが大須に登場した時、パフォーマンスが終わって、投げ銭を入れてもらうために置いていた竹筒が一杯になり、どんどん溢れて山になって数えたら100万あった。という伝説が伝わる。

金額は大袈裟だと思うが、決して嘘ではないと思える圧倒的に凄まじいパフォーマンスであった。

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2017年10月9日、新宿のパフォーマンスには、1000人の観衆が集まったとか。ギリヤークさん、87歳!
posted by Mukai Kumotaro at 10:03| 日記

2018年08月19日

京都金粉

2018年8月25日(土)京都吉田東通り夜市にて金粉ショウを行います。

東京で祇園の芸妓の子孫たちと遊んで芸を磨いた、向雲太郎と湯山大一郎が京都で踊りを披露します。

鉄割千秋楽後、連日その稽古に入っています。今日、淡路に帰り、金粉、銀粉、衣裳他、荷物をピックアップして明日、京都 in。

京都に移住する湯山と京都の元合宿生の小藪由奈さんと大阪のヘルプの女性1人と合流して稽古を積んで行きます。

関西には白虎社系伝統の金粉ショウの振付があるようで、今回はそれを取り入れさせて頂きます。

もちろん大駱駝艦で長年培った金粉の技も披露しますよ。乞うご期待!

金粉ショウは、舞踏家の裏芸ともいうべきもので、土方巽さんがお家芸としていました。

若手の登竜門でもあって、若き麿さんや室伏さん、天児さん、大須賀さんもやっていました。唐十郎さんも経験していて、そのことを書いた文章がありますがめっちゃ面白いです。

いまおそらく金粉ショウチームでは、大駱駝艦所属の“ゴールデンズ”が随一だと思いますが、わたくしたちもこれから関西で頑張って参ります。

どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

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Goldens @Ueno park photo by Junichi Matsuda
posted by Mukai Kumotaro at 18:19| 日記

2018年08月18日

たべもの

夏といえばカレーですが、子供の頃のわたくしの大好物もカレーでした。誕生日に好きなものを作ってやると言われると「カレー。」たいへんに簡単で安上がりな子どもでした。

最近は贅沢になって晩酌をしたりするものですから、好みもうるさいです。

まずは機内モードと称してビールと軽いおつまみではじめて、そこからもろきゅうとかちーちくなんていう前菜をつまみにして2本目を頂きます。

その後、カニクリームコロッケだのカキフライなんてので酎ハイを飲んだりして。

ひと仕事終えてギャラが入ってたりするといい大吟醸と高いお刺身なんていう贅沢をして。

もうこの頃になると前後不覚に陥って、うどんやたこ焼きなんていう炭水化物を無意識に食べたりするので本番前は要注意。

そういえば、最近この食事制限がきつくてつらくなってきています。ボクサーだったら引退があるのでいいですが、舞踏家には引退がないので死ぬまで食事に気をつけなくてはなりません。

1時間強のソロ公演ならば、本番前2週間は米飯・麺類・パン類をまったく口にしません。

ビールも糖質オフで。メインは焼酎で日本酒は一切口にせず。

本番前は、だんだんと酒も抜いて禁酒します。

あるとき天賦典式とかいってそのままでいいとかいうのに、体型というか外見というか痩せているほうがいいみたいなのっておかしいのではないか。

そう思って減量をしなかったことがあったけれど、研ぎ澄ますというか余分なものを落として行くという作業は、やはり必要なのだと実感した。

土方さんみたいにキリストほどガリガリになる必要はないと思うけれど、人前に立つ以上は何かしらを犠牲にして舞台に向かわないと嘘なのだと思う。

舞台上というのは本当に怖いところで、その人の生きてきた全て、毎日の生き方の姿が嘘偽りなく曝け出されて見え透いてしまったりする場所なのだ。

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メキシコパツクアロにてルームメートのホルヘと晩酌。それにしてもホルヘ、村上君に似てるなあ。

posted by Mukai Kumotaro at 10:18| 日記

2018年08月17日

1945年8月15日

ラジオの前に座って真裕は、神の声を聞きながら不思議と涙が出ない自分を冷静に見つめていた。

女房の正子は4女の衣子を抱きながら泣いているが、安堵の涙だとわかった。

母は怒ったような顔をしていた。三郎と俊夫はわかったのかわかっていないのかわからないが、神妙にしている。

長女の陽子が照子と春子の面倒を見てくれている。まだ6歳だがここ半年の間に急に大人びたようだった。

最近、彼は夜眠れないでいた。3日前に広島で目撃したこの世のものとは思えない光景がまだ頭から離れないのだった。

未だに路上に放置されて荼毘に付されない死体の山。噂では朝鮮人だということだった。

こんな状況でもまだ死体にまで差別する。人間というのは本当に差別が大好きなのだ。と心の底から思った。腹が立って、情けなかった。同じ人間ではないか。

そもそも日本人などと言っているが、元々は大陸から渡ってきた人がほとんどだ。日本列島にもともといた人間は縄文人で、いまは北海道と沖縄に追いやられているのだ。そんな当たり前のことが何故わからないのだろう。

高校の教師でもあった真裕は戦時中も、教養と知識が豊富にあったので日本軍の論法には矛盾と嘘を感じていた。

軍港があるのに空襲がほとんどない広島を知り合いの軍人達は誇っていたが、信じずに移住したのも何かがおかしいと感じたからだった。

そのお陰でいまこうして生きている。長生きしよう。死んでいった人たちの分まで長生きするのだ。そう真裕は、心に誓っていた。

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左:木谷真裕 真ん中:長女、陽子 右:五女、恒子。
posted by Mukai Kumotaro at 17:25| 日記

2018年08月16日

敗戦

「明日僕は、名も知らぬ街で名もしれぬ人を、銃で撃つのさ。明日僕は、君を守るためと自分に言い聞かせて、人を撃っちまうのさ。」by サンボマスター

昨日は、終戦記念日。敗戦記念日とも言います。

第二次世界大戦における日本の戦没者の数は死亡・行方不明者合わせて約310万人(1963年5月14日、日本政府発表。)

多大で甚大な犠牲を払って何を得たのか?あの戦争は一体なんの為だったのか?

誰のために皆んなが死んだんですか?誰が一番の責任者なのですか?その責任者は罰を受けたのですか?

少なくともヒロシマとナガサキへの原爆投下の責任はいまだに取られておらず、死者たちはあの瞬間に永遠に閉じ込められて彷徨っているのだと思います。

原爆を投下した国の現大統領が核ミサイルの発車ボタンを小脇に抱えて広島を訪れて、被爆した死者達に哀悼の意を述べた。

謝りの言葉を一言も述べず。それでめでたしめでたし?

原爆を投下したすぐ後に原子力発電所を日本に作る計画がアメリカ議会で動きはじめる。原爆の平和利用という名目で日本の為で罪滅ぼしのつもりだって。

大きなお世話はフクシマへとつながり、今だに故郷を追われて永遠に帰れないで犠牲になった人々が大勢いる。

「沖縄では住民の“敵”はしばしば日本軍だった。避難壕から住民を追い出し、ときに自ら命を絶つように迫った。軍が住民に集団自決を強制したという教科書の記載を政府が削除させた07年、事実を知る県民は激しく抗議した。」「敗戦直後責任追及を恐れた政府の命令によって大量の書類が処分された。」朝日新聞2018年8月16日社説

“首相「加害と反省」触れずに未来志向際立つ”
「安倍晋三首相は15日の全国戦没者追悼式での式辞でアジア諸国への加害責任に触れず、反省や謝罪の言葉もなかった。過去に区切りを付けて未来を志向する傾向が際立っていた。」東京新聞2018年8月16日

「あーあ、嫌な渡世だなあ。」by 座頭市

“戦時下の「犬猫供出」”
国は「家庭で飼育している犬と猫を差し出せ」と命令を出しました。寒冷地で戦う兵士用に防寒コートを作る為、犬と猫は殺されて毛皮にされたそうです。〜東京新聞編集部だより

うーむ、ずいぶんと些末な話題だが、身に詰まされるなあ。それは辛い。

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『お言葉』か。東京新聞2018年8月16日の一面より。
posted by Mukai Kumotaro at 09:15| 日記

2018年08月15日

1945年8月13日

真裕は、尾道から汽車で広島駅の一つ手前の矢賀の駅まで行くと、そこから同じように家族や知人の安否を確認するために広島市内へと入る人々とともに線路を歩いた。

広島駅の北にある東練兵場あたりまで来た時、眼の前に広がる光景をみて彼は思わず絶句してしまった。

「なんなんじゃ、これは!!」

悲鳴をあげると地面に崩れ落ちていつまでも号泣し続けた。

広島が完全に無くなっていた。

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爆心地『島病院』を中心に撮影された写真。左:原爆投下前の広島 右:原爆投下後の広島 撮影:米軍

真裕は、うずくまって10分ほど泣き続けた。その横を当たり前のように人々が通り過ぎていった。

しばらく放心状態でいたが、ひとしきり泣くと気分が落ち着いてきた。もしかしたら父はどこかに避難していて無事かもしれない。そんな淡い期待もこころに浮かんできた。

気を取り直して立ち上がると、再び歩きはじめた。

お浅庭の前を通ると無数の死体が焼かれて煙を上げていた。同じようにあちこちで死体を焼く煙が上がっていた。真裕はハンカチで口を抑えながら店のあった辺りへと向かった。

その後の彼の足取りは分かっていない。誰かに真一の最後について話しを聞いたのだと思うけれど詳しくはわからない。

親戚一同皆んなが集まり、淡路に帰ってきた真裕から話しを聞いた。「大人があんなに泣くのをはじめて見た。」当時5歳だったわたくしの母・陽子が言っていた。

大黒柱を失って暗く沈む木谷家だったが、真一の孫である五人姉妹は、焼け野原に咲く花のように美しく朗らかに成長していくのだった。
posted by Mukai Kumotaro at 14:22| 日記

2018年08月14日

余韻

鉄割終わりましたが、しばらくは後遺症が続きます。演目のフレーズが頭の中で流れて。

「こーの、ずべためーい。こーの、ずべためーい。」

余韻に浸りながらもう少し鉄割のお話しを。

随分と前にも書きましたが、主宰の戌井昭人君の祖父・戌井市郎さんは演劇界の東大、文学座の創立メンバーで代表も務めてらっしゃいました。

奥村勲君も文学座出身ですが、優秀で戌井市郎さんのお気に入りだったらしいです。

戌井市郎さんの祖父は、初代・喜多村緑郎(人間国宝)です。祖母は祇園の芸者だったとか。

奥村君のお婆さんも祇園の芸者だったとか。二人はどこかで会っていたりして。不思議な縁です。時を超えて子孫が一緒にお芝居をやっている。

まだアゴのしゃくれた大根田雄一君がいた頃に、二人のお芝居を見て「あの二人がやってるのをみると上手すぎてやる気なくしますよね。」と言っていたけど同感です。

しかしわたくしは、役者ではないので気が楽ですが。鉄割をやっている時には、上手くやろうという心は捨てるようにしています。そもそも舞踏の時も上手くやろうという心は全く要らないのですが。

桜庭勉蔵がまだいた頃に「むかいさんは、舞踏をやっててお芝居をやるというのが独特の強みですよね。」と言っていたけどそう思います。

演技論とか発声法とかは知らないけれど、全く違う舞台での存在の仕方を知っている。

そういえば、今回は出ていませんでしたが、文学座出身で鉄割メンバー・小林滋央君の姪っ子が、わたくしの娘の大親友です。これまた不思議な縁です。

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台湾リスと犬  illustration by Reiko Tada
posted by Mukai Kumotaro at 16:12| 日記

2018年08月13日

お疲れ様でした

ザ・スズナリ公演、終わりました。

ご来場いただいた、お客さまありがとうございました。今回は、巡礼をめぐるお話しでした。のかな。

ほんの少しでも面白くなるように、骨身を削ってその日その日を生きました。からだをいじめて精神を研ぎ澄まし、そこまでやってはじめて閃き思いつくアイデアがあるのです。

今回は、「絶対に初日に最高の状態になるように。」と頑張りましたが、自分が出る演目全てで、初日が出たのは3日目でした。ひとつ悔いを残してまた次へと向かいます。

そして今日は、鉄割が公演をやるときに有数の大変な日、荷下ろしです。

トラックから下ろした公演で使った舞台セット、大道具、小道具、衣裳、その他諸々の大量の荷物を千歳烏山の鴨志田ビルの5階まで荷上げします。

エレベーターはありません。階段です。。重力に逆らうというのは大変な労力が要ります。

汗だくで荷揚げしたらば、そのあとは恒例の高級焼肉店での出演者とスタッフだけでの慰労会です。一年に一度のご褒美です。店の肉がなくなるまで食べて飲んで騒ぎます。

今回は、残念ながら動員が1000人行かなかったのかな。

連日超満員でスズナリの爆笑記録を更新するほど盛り上がったけれどギャラを頂いて鉄割は、もっと頑張らばければならないんだなあ。としみじみ思いました。

ギャラを10倍にするべく、わたくしももっともっと頑張ります。

「お疲れさまでした。」

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昨日の打ち上げにて。左からりんさん、渡部、池間さん、どいちゃん、わたくし、野嵜さん。
posted by Mukai Kumotaro at 18:19| 日記

2018年08月12日

無題です。

鉄割アルバトロスケット『無題です。』

“無題” ではなくて“無題です。”
ここがミソなんだよなあ。今、ほんとうにノリに乗る男、天才・戌井昭人が座長の鉄割アルバトロスケットの公演がはじまってるぞーい。そして終わるぞーい。

ますます演技に磨きがかかる、鉄割・看板俳優で平成の喜劇王・奥村勲。

独自の演技論を持っているのかいないのか知りませんが、異様なスタイルで大注目、ガリガリ俳優・中島朋人。

ミュージシャンでありながら、その強烈なパフォーマンスで他を圧倒する犬男・村上陽一。

精子を通常成人男性の100倍持つと噂の、踊る弾痕・渡部真一。

タイに行ったら売れそうなのになあ。アクション俳優・南辻史人。

売れっ子劇団に出演し、NHK朝の連続テレビ小説にも出演していました、俳優・古澤裕介。

自身の舞踏グループを持ち“渋さ知らズ”のメンバーでもある、舞踏家・松原東洋。

初出演、デュ社の副社長・湯山大一郎。

少年の頃のイカ臭さを、いまも持ち続けるロマンチスト漫画家・東洋片岡。東洋さんを見ていると自分の少年の頃を見ているような不思議な感覚になる。

創設メンバーで伝説の裸俳優、おかえり・山内英彦。

ファミマのコマーシャルに出演中、女優・山本ロザ。

そしてデュ社の『ぴちがい裁判』にも出演してくれた平成のコメディエンヌ・野嵜好美さんも出ますよ。

素敵な座組みの出来上がり。乞うご期待!! あっ、わたくし向雲太郎も恥ずかしながら出ていますよ。 どうぞよろしくお願いします!!

歌、曲 池間由布子

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鉄割始めた頃。20年ぐらい前か。勉蔵がいて中座君がいて弟が出始めた頃でもある。鉄割の本拠地根津、宮永会館にて。楽しそう。
posted by Mukai Kumotaro at 14:51| 日記

2018年08月11日

一週間後

アメリカの戦略核兵器、原子力爆弾が広島へと実戦投下されて一週間が過ぎていた。

わたくしの祖父、木谷真裕は真一の安否を確認するため皆んなの反対を押し切り、広島へと向かった。

家族に見送られ朝早く洲本の家を出ると、岩屋から船に乗り神戸へと向かった。船中も広島に落ちたという新型爆弾のことで持ちきりだった。そしてどうやら長崎にも落ちたとの噂だった。

噂は混沌として判断に苦しむが、どうやら広島が壊滅的被害を受けたことは確からしい。

しかし自分の眼で確かめるまでは信じたくはなかった。

大阪から広島行きの電車を探した。人で混雑する駅の構内に、広島への電車が完全に不通になっていることが、頻りにアナウンスされていた。

なんとか尾道まで行く電車を探し、ぎゅうぎゅうの車内に身をこじ入れる。途中、何度か空襲警報が鳴り電車が止まったが何もなかった。

そろそろ昼だからか車内は静かで、皆んな騒ぎ疲れたかのようだった。尾道で汽車を乗り換えると、一路、広島市内を目指す。途中、軍のトラックが市内へと向けて何台も走って行った。

今日は小雨交じりの空で涼しいぐらいだった。噂では広島に黒い雨が降ったとか。

その雨に当たると髪の毛が抜けてしまうとか。

「そんなことがあるのだろうか。」真裕には、わからなかった。

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ヒロシマを描いた井伏鱒二の名作『黒い雨』。この小説を原作に撮られた今村昌平の映画は、ホラー映画のようで観ていられなかった。
posted by Mukai Kumotaro at 10:56| 日記

2018年08月10日

2018年8月10日

「何故いまヒロシマなのか?フクシマのことがあったから?憲法が改正されそうだから?北朝鮮が核開発をしているから?イランが実戦核兵器使用をしそうだから?

色々な問いにYesと答えます。 いまそこにある危機。そして人間がある限り最もやってはいけないことのひとつがこのことであると思います。

人間がおなじ人間の上に太陽ふたつ分の熱をつくり一瞬で焼き殺す。その後の全てを焼き尽くす大火災で人を焼き殺す。

その上、放射線による被曝によって細胞レベルで人間を破壊してじわじわと殺し、わずかに生き残った人々から生まれた子供も・・・ここまで徹底して人を殺す為の兵器を誰がこの世に生み出したのか?

その出発点ともいうべき数式を導きだした天才は、平和主義者で博愛主義者であったかもしれない。その兵器をヒロシマに落としたパイロットは、熱心なクリスチャンで飛行機には母の名前を付けていた。

これは俯瞰すれば誰が悪いとか誰に責任があるとかいう単純なことではなくて、科学というものを生み出してしまった人間の、人が生きる限りの原罪、存在の矛盾にまで行き着くのだと思います。

終末時計というものがあるそうです。アインシュタン等が提唱して作られたもので核兵器保有とその実用の危機にあわせてうごいていて、いまその時計は人類滅亡の時間、夜12時の2分前で止まっているそうです。(2018年1月26日現在)

原爆被害者の子孫として、一人のものを創る人間として、この世にいま生きる人間として、このこととは無縁ではいられないのだと思います。

たとえそれが微力で無力だとしても 手をかえ 品をかえ 切り口をかえ アプローチの仕方をかえながら 一生取り組んで行くのだと思っています。」

2018年8月10日 下北沢にて
木谷 研治 Kenji Kidani
芸名:向 雲太郎 Kumotaro Mukai

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デュ社旗揚げ公演『ふたつの太陽』最終日挨拶。 @吉祥寺シアター photo by bozzo
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posted by Mukai Kumotaro at 07:36| 日記

2018年08月09日

1945年8月9日

広島への原爆投下は戦争を終わらせるために必要だったという意見がいまだに大多数を占めるが、長崎に関しては疑問を感じる人がアメリカ人の中にも多いようです。

闘っている相手が完全に倒れてノックアウトされているのに、上から更にまた殴る蹴るみたいな。
「おいおい、不正だろ〜!!しかもバレバレだし〜。」

広島の方が通称 "Little boy" 日本語で『ポコチン』。長崎に投下されたのは通称 ”Fat boy" 日本語で『デブ男』。この最悪のネーミングセンスの醜さこそが、人類の手によって産み出された“あたらしい生きもの”の存在をよく表していると思う。

さて何故、もうほとんど降参している日本に対して、その決断を迫るために二回も実戦原爆投下が行われたのか?

ヒロシマに落とされたのが、Mk1型原子爆弾"ウラン235"。ナガサキに落とされたのが、mk3型原子爆弾"プルトニウム239"。種類が全く違う核物質が使われていた。もうお解りですね。

博士「だって、試してみたかったんだもーん。」
大統領「莫大な税金を使って二つも原子爆弾をつくった以上、使わないと次回の予算案を決めるときに予算を減らされてしまうからなあ。。」

ヒロシマが初めての原爆実戦投下をされた都市ならば、ナガサキは最後の原爆実戦投下をされた都市だと思います。人類にとって、このことはとても大切なことであり。

二度の受難を経たからこそ、パパさまが我々のもとにやって来て祝福してくれた。長崎のキリスト教ではいまもそう信じられています。

江戸時代、世界的に見ても異様な宗教弾圧を受け、1945年8月9日11時02分に原子爆弾が投下されて。

死者 73,884人 重軽傷者 74,909 合計148,793人 罹災人員120,820人(半径4キロ以内の全焼全壊家屋の世帯員数)罹災戸数18,409戸(半径4キロ以内の全戸数。市内総戸数の約36%)全焼11,574戸(半径4キロ以内。市内の約3分の1に当る)全壊1,326戸(半径1キロ以内を全壊と見なしたもの)半壊5,509戸(全焼全壊を除く半径4キロ以内を半壊と見なしたもの)この数字は長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告によったものだが、これが今日の通説となっている。

ちなみに、ヒロシマよりも罹災人員が少ないのは、当日長崎の雲が多くて、より多く死者が出る予定だった投下目標を外したからです。威力は長崎の方が上だった。

プルトニウム239の核分裂反応によって初期瞬間温度は摂氏500万度となり、火の玉(fire ball)は直径280mに。約10秒間の閃光のあいだに約30000人が即死。約28万人が被曝。

そこまで犠牲を払わないとパパさま(ローマ法王)は来ないのか?

長崎ではいまだに、あの原爆はナガサキではなく、浦上天主堂という教会に罰で落ちたものなのだという思い込みが根強く残っている。

『鉄割アルバトロスケット』の長崎ツアーの時にそう知りました。

そして、世界有数のキリスト教国、アメリカは自らが落とした原爆の爆心地("Ground zero")がキリスト教会のお堂だったとは、口が裂けても言わない。

裁判長「愛と自由と平等なんていう理想をかかげながら、戦争や人殺しを何よりも好む奴ら。」
二人「はいはい、我々でーす。」
裁判長「化学実験につかわれるモルモットやウサギの命まで心配するくせに、毎日豚や牛や鶏を好む奴ら。」
二人「はいはい、我々でーす。」
裁判長「害虫という勝手な名のもとに自然のいろんな生物を大量虐殺し、
人間の虐殺には目くじらたてる奴ら」
二人「はいはい、我々でーす。」
裁判長「映画やテレビの差別には涙して怒るくせに、そのあと平気でKKKの集会に参加する奴ら。」
二人「はいはい、我々でーす。」
マリー「キレイゴトを口にしながら裏では平気でおならをする。」
裁判長「死刑!」
所長「自分のことは棚に上げて相手が同じことをすると怒る。」
裁判長「死刑!」
マリー「良いことも悪いことも全て他人任せ自分の頭で考えない。」
裁判長「死刑!」
所長「差別反対と口にするけれど、裏腹に死体にまで差別する。」
裁判長「死刑!」
マリー「全ては自分の利益のため、自分のことしか考えていない。」
裁判長「死刑!」
所長「嘘を嘘で塗り固め、また嘘をつきそして永遠に嘘をつく。」
裁判長「死刑!死刑!死刑!」
二人「はいはい、我々でーす。はいはい、我々でーす。」
それが、我々でーす。それが、にんげんでーす。」
〜『ぴちがい裁判』

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posted by Mukai Kumotaro at 06:30| 日記

2018年08月08日

音楽1

「戦争の はじまりを 知らせる 放送も。」by Utada Hikaru

初めて聞いた音楽は何だったんだろう。

小学生の時はテレビの『ベストテン』から歌を録音して聞いていた。テレビの前にラジカセを置いて録音する。

家族の会話とかも勿論、入るのだけど気にしてなかった。あんまりうるさいと「しーっ」とか言ってたような。

"When I was young
I"d listen to the radio
Wating' for my favorite songs
When they played
I'd sing along it made me smile"
by Karen Ann Carpenter

兄貴がビリー・ジョエルのアルバムを買って来て。それがはじめて洋楽を意識した瞬間だった。

真似をして川西能勢口の駅前に一軒だけあったレコード屋に小遣いを握りしめ買いに行って。大瀧詠一さんの"A LONG VACATION"のLPを買った。

はじめて針を落とした時のあのプチプチ感と、そのあとの透明でどこまでも澄み渡るピアノの音は、いまだに忘れられない。音楽の魔力に魅入られた瞬間だな。

「風景画を描いて来い。」という夏休みの宿題をやってなくて。仕方なしに8月末にジャケットを正確にコピーして宿題で出したら、激賞されて校長室に飾られてしまった。というあの恥ずかしい思い出のアルバムですね。先生達知らなかったのかな。

大瀧詠一からロックを知りRainbow、Deep Purpleへ行ってジャズ、ブルースを聴きはじめて。東京に出てきてレゲエを覚えてからは雑食であらゆる音楽を聞いてます。

ある時期、“DUB,DUB,DUB,DUB” 言って五月蝿いわたくしに、CANやNEU!,The Velvet Underground を教えてくれたのは戌井くんだった。

いまは村上くんに教えてもらった、宇多田ヒカルちゃんのニューアルバム『初恋』に夢中です。母親になって歌がかわりましたねハートなんて偉そうですが、自分より大切な存在が出来たんだな。

「悲しい 話しは もう 沢山。」by Hikaru Utada

そういえば、兄貴が実家に置いていったアルバムは全てわたくしの手元にある。

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"Colors"のPVで共演した時はまだお母さまは、ご存命だったのかな。
コピーライトマーク Sony Music Labels Inc. All Right Reserved. http://www.utadahikaru.jp
posted by Mukai Kumotaro at 08:07| 日記

2018年08月07日

合宿3

大駱駝艦特別体験舞踏合宿、終わりましたね。終わった後は盛大な打ち上げがあります。らくだのメンバーは給仕にお酌にとまだまだ頑張ります。

一度、打ち上げでお客そっちのけな感じで自分たちだけで、楽しんでいたら麿さんにもの凄い剣幕で怒鳴られた。「お前ら、芸者だろ。酌しろ!!」

今回は、違いましたが日程によっては、8月6日が入ることがあります。

夜の授業で合宿生を踊らせながら「あつい、あつい。。」「いたい、いたい。。」「くるしい、くるしい。。」と麿さんが言いはじめて。正確には忘れてしまったが、電気を消して暗い中、擬音で色々と描写するのがすごく怖かった。

あとで考えたらその日は8月6日だった。そうか8時15分とか言って朝、追悼するからそれで終わりという気になってしまうが、夜ってのもあるのだと当たり前のことに、そのとき気付かされた。

明るくてまわりが見える間はまだマシだが、電気はもちろんないから真っ暗な中で自分がどうなっているかもわからなくて。

まわりからは「あつい。いたい。くるしい。」と呻き声しか聞こえてこなくて。不安だったろうなあ。蝉も鳩も雀も生けるものすべてが死に絶えているから完全なる静寂で。あっ、蝿は凄まじく大量発生していたのか。放射能の影響か巨大化していたとか。

そういえば、その日の野外での稽古で、照明に無数の虫が集まって来ていて皆んなビックリしていた。14万匹はいたかもしれない。本当に。

あと宿舎の玄関が自動ドアだったのだけど、誰も通っていないのにずーっと開いたり閉まったり一晩中していた。ちょうどお盆だったし霊が遊びに来ていたのかもしれない。

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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にて。
@Hiroshima National Peace Memorial Hall for the Atomic Bomb Victims.
posted by Mukai Kumotaro at 04:46| 日記

2018年08月06日

Two suns

1945.8/6
In the summer blue sky of Hiroshima, two suns of 12000 degrees centigrade, which Hisashi Inoue wrote in his work "living with my father", appeared.

The surface temperature of the sun is 6000 degrees. The two suns of madness was released by the hands of human beings.

Every person who was there and all the lives that lead to him or her were cut off by   that light, wind and heat.

100,000 people of Shinichi Kidani passed away that day.

First of all was a ‘light’. People who disappeared instantly with that light described as "light collected a thousand suns", was a lot.

Then people who burned out in a blink of an instant with a high temperature blast, was infinite.

A person who survived unexpectedly inflated the whole body in black with a burn, the skin was turned into slither, arms were torn , the belly were split, the internal organs spilling, the eyeball popped out.

People far from the hypocenter have been pierced with thousands broken pieces of glass And there were the fire that occur one after another and no places to escape even trying.
People falling for river seeking salvation and drown one after another

A tornado rolls up, people were raised up high in the sky and struck on the ground for death.

Suddenly, children crying can not move because they are caught in the house. Watching closely it was a acquaintance's kid. The fire was approaching there immediately.

Even though most of his body was out, one leg was crushed between the pillars and it could not be pulled out.

I tried to help but could not do anything. Even if I looked around there were only black people who walk like crazy in naked.

"I'm sorry I can not help you." "It will be easier soon." Shinichi apologized saying so, and  put his hands together and leave like escaping from the place.

He also had a serious burn injury himself. There were barely half of the trousers left in the clothes. The shoes were missing out before long. There were swollen and black faces even not recognized who they were.

“I guess me too”. While idly thinking about such things and being swept away by the escaping crowd as it is being thrown by the fire, Shinichi tried to ask the safety of acquaintances.

He kept walking until evening while detouring far away where he could not get through because of burning up. He continued walking on the mountain of dead bodies. It often happened that he slipped on the torn skins.

All corpses began to rot in the afternoon. The sky was cloudy with black smoke.

Every time to meet someone, he asked their name, but he could not recognize who they were at all. Everybody were looking for somebody. Where did they go?

"I want to drink water, I want to drink water .."

Shinichi already became to think about only that.

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Shinichi Kidani; passed away at 70 years old on August 6th evening in 1952.

1945.8/6 08:15
広島の夏の青空に、井上ひさしさんがその著作『父と暮らして』で書き記した、摂氏12000度の”ふたつの太陽”があらわれた。

太陽の表面温度が6000度。太陽、ふたつ分の狂気が人類の手によって解き放たれた。

そこにいた一人一人。そしてその人につながる全ての命を絶つ光と風と熱。

10万人の木谷真一がその日、亡くなった。

まずは光。”千の太陽を集めた光”と形容されるその光で一瞬に消え去った人、多数。

そのあとの高温の爆風で一瞬で燃え尽きた人、無数。

いまだに死者の数の誤差が、+−1万人と言われる所以である。

不幸にも生き延びてしまった人は 火傷で全身を真っ黒に膨らませ 皮膚がベロベロにめくれ 腕が千切れ 腹が裂け 内臓がこぼれ落ち 目玉が飛び出て 

爆心地から離れていた人には 無数にガラスの破片が突き刺さる

そして あちこちで次々と起こる火事 逃げようにも逃げるところがない

川に救いを求めてなだれ込む人々は 次から次へと溺れ死に

竜巻が巻き起こり 人々は天高く舞い上げられ 地面に叩きつけられて死に

ふと気付くと、泣きわめく子どもが家に挟まって動けない。よく見るとそれは知り合いの子だった。火はすぐそこまで迫っていた。

からだは殆ど外に出ているのに、片足が柱と柱に押しつぶされて引き出せなかった。

助けようとするがどうにもならなかった。周りを見ても全裸で狂ったように歩く真っ黒な人々ばかり。

「助けて上げられなくてごめんな。」「もうすぐ楽になるからな。」真一は、そう言って謝るように手を合わせ、その場を立ち去った。

流れる涙を拭うこともなく歩き続けた。自分自身も全身大火傷を負っていた。服はズボンがかろうじて半分残っていた。靴はいつの間にかなくなっていた。腫れ上がり真っ黒で、ぶつかっても誰だかわからない顔。顔。

自分もそうなのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら真一は、火の手に流されるようになりながら逃げ惑う群衆に流されながらも、いろんな知り合いの安否を訪ねて回る。

燃え上がって通れないところは遠く迂回しながら夕方まで歩き続けた。死体の山の上を歩き続けた。皮膚が破けずるりとすべりこけてしまうこともしばしばだった。

会う人会う人に名前を聞くが、誰だか全くわからない。全員が全員、誰かを探している。みんな何処へ行ってしまった?わからない。

何もかもわけがわからないが、ひとつ確かなのは誰かに「死ね。」と思われたということ。ぼやけた頭でそんなふうに思った。

空は黒煙でどんよりと曇っていた。午後には全ての死体が腐りはじめていた。日が落ちてくると広島の空は炎で夕焼けのように真っ赤になった。

真一は歩き続けた。喉が乾いて仕方なかった。

「水が飲みたい。水が飲みたい。。水。水。水をください。」

もうそれしか考えられなくなっていた。

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木谷真一 享年70歳
没:昭和20年8月6日夕刻
posted by Mukai Kumotaro at 07:27| 日記

2018年08月05日

8月6日朝2

広島を離れるのは寂しいが家族に会えるのはやはり嬉しい。少し気分が明るくなった真一は、9時まで散歩をすることにした。

手に入るものなどないに等しいが、淡路島にはないものをお土産にしてやろう。何がいいだろうか。そんなことを考えながら相生橋の上へと入った。

相生橋は本川と元安川をまたいでかかる、まるで猿股のような橋である。「アメリカならあ、さしずめ“ T ”じゃ。T-backじゃ。」戦争が始まるまで、外国語大学で英語を専攻していた真一は、独りほくそ笑んだ。

「まあ、ええか。」戦争で一切の財産も何もかも失いつつある。しかし、人生もこの川のようなもの。流れていって海へとかえり、終わる。それでいいのかもしれない。流れにただ身を任せれば。

水を満々とたたえて雄大に流れる元安川の流れを、橋の上から飽きるともなく見ていた。

ここ広島は水の都である。太田川はよこがわの北側で六つの支流に別れる。満々と水をたたえ休むことなく流れ続ける六つの川。ぼんやりと川面を見ていたが、蝉の声で「はっ」と我にかえる。

「もう8時か。」そろそろ店に帰って用意を始めるか。懐中時計で時間を確認するとそう考えた。

中洲から木橋を渡り、広島県産業奨励館を右に見ながら歩き続ける。

幟町のおせんていまで来た時だった。盛大に鳴く蝉の声に混ざってかすかに飛行機の飛ぶ音が聞こえた気がした。

雲ひとつない夏の空を見上げる。

三機のB29が飛んでいるのが目に入った。爆撃にしては結構、高度が高かった。「偵察か」呟いた時だった。

「あっ、何か落とした!」隣にいた子ども達が口々に叫んだ。

キラリと光るものが見えた。

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提供:広島平和記念資料館/撮影:米軍
posted by Mukai Kumotaro at 09:14| 日記

2018年08月03日

8月6日朝1

私は、残務整理のため広島に一人残っていた。その日は早朝に空襲警報が鳴ったが、空襲があるわけでなく。

「またか。」布団の中でそう呟いた。最近誤報が多い。敗け続きで軍部も混乱しているのだろう。

目が覚めてしまい、しばらく布団の中で輾転としたが、もう夢の中へと戻ることはできなかった。

仕方なく起きると、灯火規制の黒幕を開ける。外は薄日が差しているがまだ太陽は照りつけていない。朝曇りのカンパチというが、今日はそうなりそうだ。

トイレに行き用を足して顔を洗う。誰もいない家はガランとして急に老け込んでしまったようだった。台所へ行き簡単に朝ごはんを作る。昨日の夜にお手伝いさんが作ってくれた残り物をそのまま食べた。

「男の一人暮らしは、何かと不便でいけんのう。」そう思いながら、寝室へ戻りシャツとズボンに着替え蝶ネクタイをつけステッキを持つと、日課である護国神社へのお参りに出かけた。

道中、やはり雲間から太陽があらわれはじめた。蝉はまだ鳴いていないし、それほどは暑くない。人もまばらである。

お参りを終え、護国神社を7時半に出た。始業の9時までにはまだ間があった。今日はお手伝いの人が二人来てくれる。そろそろ残務整理も終わりすっかりと片付いて来ていた。

一週間後には、私も淡路島へと旅立ち家族に会えるのだ。そう考えると自然に足取りも軽くなるのだった。

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曽祖父、真一は呉服屋にも関わらず普段は背広で通したとか。「とにかくお洒落さんだったのよ」by 次女・直子
posted by Mukai Kumotaro at 08:16| 日記

木谷家

今年も、わたくしの曽祖父・木谷真一の命日が近付いてきた。戸籍上は祖父である。

木谷家は呉服屋を営んでいた。木谷家四代・ 木谷實平が大成功。淡路・津志本店と大阪、北海道、広島に店を出していた。

広島では市内の大手町付近にて、木谷真一が『丸さ呉服店』を任されていた。商売は戦争が始まるまで順調で、結構手広くやっていたと聞く。

当時の広島は静かな城下町で川が豊かに流れる、本当に住み心地の良い町だった。東京や大阪が大空襲を受けるなか、何故か広島だけは大した空襲はなかった。

長女・正子の婿・真裕が軍港のある広島は危ないから早く淡路へ来るように。という手紙を淡路島に住む高校生の甥から受けとり、躊躇を感じながらも移住を決断。

真一の妻文子と正子、長男三郎、次男俊夫、次女の直子は、真裕の生まれ故郷である淡路島洲本へと残務整理のため残る真一を残し、1945年3月下旬に引っ越していた。

家族の出発のとき、長いあいだ親しくつきあった人たちが大勢、お別れを惜しんで広島駅まで見送ってくれたが、その人たちは皆んな8月6日に亡くなった。
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木谷家 1935年頃 市内の写真館にて 後列左より正子、真一、三郎。前列左より直子、文子、俊夫。次女・直子さんだけが、まだご存命である。
posted by Mukai Kumotaro at 07:25| 日記

2018年08月02日

合宿2

大駱駝艦特別体験合宿は、最終日に作品発表があります。

踊りをつくるという目的がある。ここは結構ミソで、単なるワークショップと違って学べることの量が桁違い。本番に勝る稽古なし。

そして作品を一緒につくるというのは濃密に付き合いをするということで、さらに寝食を共にするとなるとぶつかることも多々あり。

わたくしがいた頃もしょっちゅう揉め事が起こっていたなあ。それがまた面白いのだけど。要するにお祭りですね。鍋が沸騰するように全てのことが本番の一瞬に向かっていく。

毎日、40人分の食事を作るのはたいへんな重労働で任務も重大。料理というのは美味いか不味いかというわかりやすい結果も伴うからだ。反応もわかりやすい。

また食事当番は前の日に仕込みをしたり、早く起きたり皆んなが休んでいる時に食事を作ったりと大童(大わらわ)。本番前はどんどん人が増えて50人前以上を作るなんてこともあるのだ〜。

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皆んなで献立を決めるのも楽しみのひとつ。しかし凝った料理と麺類は大変だぞ〜。

仏教の禅宗では、食事を作るのは“典座”といってとても重要な役職。大変で辛いからこそ重要なのだろう。そして口に入るものを扱うということは、食べる人の命を扱うということでもあるからだ。

「舞踏の中に舞踏はない」というのは師・麿赤兒の言葉だがまるで禅問答のよう。では一体どこにあるというのか?それを考えるのも合宿の醍醐味。

いま白馬にいる合宿生、大駱駝艦メンバーはそのことを体現して体験しているのだと思う。
posted by Mukai Kumotaro at 12:25| 日記

2018年08月01日

合宿1

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はじまったか。

世界から30人限定で参加者を募り行われる『大駱駝艦特別体験舞踏合宿』

在家舞踏家にとっては、麿赤兒と24時間一緒にいられる貴重な時間。天才と同じ空気を吸い同じ飯を食い同じ時間を共有する。

一般の方々にとっては、たった一週間だが普段は見ることのできない秘密の片鱗を垣間見れるまさに特別で強烈な体験。

わたくしは1995年8月の伊豆合宿から参加していました。募集チラシのデザインも1996年から2012年の独立まで担当。いまは弟弟子・松田篤史が担当してる。

一週間、朝から晩まで共に生活しながら濃密に天賦典式を学ぶ。半分ぐらいが海外からの参加者で、現在はデュ社のメンバー・湯山大一郎が長く通訳を務めていました。

「本気で舞踏を学びたいなら、まずは日本語を勉強してきてください」挨拶で湯山が言っていた言葉は通訳を務めているからこそ出てきたものだろう。

かくいうわたくしも、大切なことを沢山学ばせて頂きました。

麿さんに独立したい旨を伝えたのも合宿だった。

そういえば『2001年壺中の旅』という処女作のタイトルを思いついたのも合宿の帰りだった。
posted by Mukai Kumotaro at 06:26| 日記