2018年10月19日

小説について

本を読むのは大好きです。しかし小説を読むのは少し労力が要ります。入り込めるといいのだけど入り込めないと時間がかかる。

小説は読みきるというのが大切です。読み終えたあとの余韻を知る。別の世界の物語りを追体験して読み終えてまた現実に戻ってくる。みたいな。なんとしてでも読み終える。何年かかっても読み切る。それが大切。

その小説を読む前と読み終えたあとでは、世界が確かに変化している。人間がたぶん、成長しているのだと思う。心がひとつ違う世界を知り、豊かになったとでも言うべきか。

小説を読んでいるあいだにあらゆることを感じて、色んなことを思って、様々なことを考えて。それが心を耕して大らかに奥行き深く柔らかくしてくれるのだと思います。

そうして、読み終えた瞬間に何かがすっと心に落ちる。本を閉じた瞬間の達成感は経験したものにしかわからない。

エベレスト登頂の達成感は体験したものにしかわからないように。なんつって知らないけど。

最近はヘリコプターに乗って上まで行って、そんで「登頂。」いうて帰ってくる人がいるらしいですがそれでいいのか?いいのか。人の勝手。

さて、しかし本ばかり読むのも考えものなのです。「書を捨てて町に出よう。」という言葉がありますが、頭で感じた知識だけではなく疑似体験でもなく、実際にからだで感じた経験も大切なのだよ。という寺山修司さんの問いかけなのだと思います。五感をフル稼動させてこの身で感じる体験と経験も大切なのだよ。

二次元の本で心を耕して、町を歩いて三次元で体の感覚を研ぎ澄ます。四次元でそれを展開していく。そんなバランスなのかな。

そういえば、顔のすぐそばに五次元てのはあるらしいです。そんで噂によると17次元?まであるらしいです。おもろ!
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麿さんは、五次元のこと「隣。」いうてた。Illustration by Kumotaro Mukai.
posted by Mukai Kumotaro at 17:25| 日記

2018年10月18日

小林ハル

ギリアーク尼崎さんを人間国宝に!!

何でこんなことを言い出すかと申しますと、先日あるテレビ番組を観たからです。

いつものように、ビールと柿ピーで機内モードセット。腰を落ち着けテレビをつけたら女性が早口で喋っていました。よく聴いていると、その人は皆んなもっと孤独を愛さないといけない。とか言っています。もっとよく聴いていると一人のお婆さんの話しをしているようです。

それは最後の瞽女、小林ハルさんのお話しでした。生まれた時から盲目で蔑まされ馬鹿にされて生きてきたハルさん。家の奥の土蔵に閉じ込められて生きてきたハルさん。厳しい母親に育てられ瞽女に修業に出される。そんな境遇の彼女の再現ドラマがはじまりました。

瞽女の厳しすぎる世界。しかしそこで行きていくしか道のない身の上。

「いい人と歩けば祭り。悪い人と歩けば修業。」そう語る小林ハルさんは年老いて瞽女をやめ老人ホームに入って過ごしていた。

そんなある日、高名な学者が老人ホームに歌の上手なお婆さんがいると噂を聞きつけて取材にやってきた。学者はそのお婆さんの歌声に驚愕しすぐさまチームを組みお婆さんのことを調べる

これは大変な人だぞ。と偉い学者が沢山出てきて、時の総理大臣に報告。「へえ。そんなお婆さんがいるのですね。では陛下に今度、お話ししてみましょう。」と。

総理が陛下に議事の報告をしたあと、そういえば陛下とお婆さんのことを話した。

「そうですか。そのような方が。では手厚く保護してあげないといけませんね。」と仰ったかどうかだかわからないが、なんと老人ホームのお婆さん、小林ハル人間国宝に指定!

路上の芸者、ギリアーク尼崎さんもどうぞ人間国宝にして保護してあげてください。絶対にその価値がある路上の芸術だと思います。よろしくお願い致します。

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最後の瞽女、小林ハル。
posted by Mukai Kumotaro at 17:29| 日記

2018年10月17日

きずな?

『絆』という言葉が何故か好きではありません。なんだか人間の偽善性みたいなものが見え隠れするからかな。

たぶん2011.3/11からなのか、頻繁に見かけるようになったのは。人と人とのつながりを大切にしたい。それを応援したい。その心は素敵でとっても良いと思います。

けれどそれを一言でいいあらわしてまるでスローガンのように掲げる安易さが嫌らしい。これいいでしょ。みたいな押し付けも嫌味ったらしい。

まわりにあんな言葉を軽々しく口にする人は一人もいないので良かった。自分が口にすることを想像しただけでもゾッとする。

そんなおり、新聞で高校生がおばあちゃんの呟きを投稿しているのを見かけた。

おばあちゃん曰く、「もともと絆という言葉は、牛を木に繋いで逃げられなくすることを言いあらわした漢字。そんなものをありがたがって拝むように使うなんて変な時代だなあ。」と。

それを人間に使ってしまった人がいたんだな。そしてイイじゃんいいじゃんと真似をする人が出てきて。漢字だけが独り歩きしていく。

言葉というのは呪文だから気をつけて使わないと、間違いが起こってしまいます。

1人の安易なもの言いが、世界を変えてしまうことになるのかもしれません。それだけに新聞やテレビなどという巨大メディアに従事する人々は、責任を自覚しつつ気をつけなくてはならないのだと思います。

それは誰かの気持ちや感情に忖度するようなものではなくて、もっと大きな人類の未来のことを見据えたような気の使い方でなくてはならないのだと思います。

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こんなイメージか?Illutration by Kumotaro Mukai.
posted by Mukai Kumotaro at 20:00| 日記

2018年10月16日

Rebel Music

「ピラミッドの上 打ち上がる 花火を君と 見ていたい スフィンクスと 盗賊が踊る」

いまは、京都中華そば“みみお”の佐藤ユミコさんに教えてもらったサニーデイ・サービスに夢中です。

“Popcorn Ballads”という二枚組のアルバムで聞き応え充分、これでメキシコまで20時間の軟禁フライトを凌ぎます。

若い頃に大好きだったフィッシュマンズに似てるけど、もう少しポップなのかな。大滝詠一を彷彿とさせるけど、もう少し変てこな感じで。

しかし音楽は、いまだにボブマーリー&ザ・ウェイラーズの“コンクリートジャングル”が1番のヘビーローテションです。もう20年以上聴いているけど全然飽きない。何故だろう。

最初のギターのリフから、バスドラムが潜り込むように入ってきてそんでベースが重低音で入ってきてワクワクする。

スーパースター・ボブマーリーの歌に合わせて歌うザ・ウェイラーズのソプラノバックコーラスは、ジャジューカ村で聞いたチャルメラの音を彷彿とさせて痺れます。ギターソロの入るタイミング(2枚目のほうは、ソロなし。)の刹那さ。ラストのピアニカの余韻まで寸分の隙がない。

サウンドエンジニアが素晴らしいのだろうなあ。イギリスか。愛があるのだな。絶対に音をよくするのだ。という気概のようなものを感じる。

ジャマイカの原始的なラスタミュージックと当時の最先端SEテクニックの運命的な出会いと奇跡的な融合。

再生回数ブッチギリは、“キャットナッパー”という睡眠導入ミュージックです。

「キャットナッパーです。30分間リラックスして休息してください。いまから30分後に起こさせていただきます。」

女房に誕生日プレゼントでもらってから毎日の昼寝で、お世話になっています。見事に30分だけ深く眠ってそしてスッキリパッキリと目覚めてリフレッシュ。生まれ変わったようになりますよ。

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コンクリートジャングル収録アルバム"Cach a fire"。ジャケットは2種類あってこちらデラックスエディション版。
posted by Mukai Kumotaro at 07:59| 日記

2018年10月15日

高速バス

ばすがすばくはつぱすがすばくはつ。

東京での稽古を終えまして、今日は関西に戻ります。移動はいつもJRバス関東の昼特急三列シートです。

新幹線だと15,000円近くかかるのが、5,000円です。その分もちろん時間はかかりますが、飛行機のビジネスクラス並みに広々楽チンです。

御用とお急ぎでない方ならお勧めですよ。贅沢に交通費が出る仕事なら構いませんが、自主公演なら経費はなるべく抑えたいところなのでありがたい。

長い乗車時間を利用して本を読んだり読み疲れたら眠ったり、大好きな音楽を聴いたりそのままぼーっと景色を眺めたりまた眠って。8時間なんてあっという間です。考えごとをするのにも適しています。wifiも飛んでるのでうごくオフィスにもなります。

昔の話しですが、新幹線での移動の時にグリーン車に乗ったことがあって、その楽チンさにびっくりして。しかもそんなに高くないのを知って。

それから何回か偉そうにグリーン車に乗って、しかも文句をつけたりしたりしてた時があった。奢ってたな俺。

そんな折、またグリーンに乗ったら4人しか乗客がいなくて。1人はどう見ても成功してる社長さんという感じのおじさん。もう1人は子どもが招待してくれて東京に向かってる。てな感じのお婆さんで正座して駅弁を食べてて可愛かった。そしてもう1人がなんと里見浩太朗さんだった。

それ以来、グリーン車に乗るのはやめました。たった数千円だけどやってはいけないことがあって身の程というのがあるのだと感じた。

それはさておき。移動距離と疲労は正比例するらしいけれど、あまりに速い移動は心と身体がついていけないように思います。

その移動距離をじっくりと感じて楽しんで味わうのが正しいのだと思う。メキシコへも本当は船で行くのが一番いいのだろうなあ。到着した時の感動は飛行機でピュッと行ってしまうのの比ではないのだろう。

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パーキングで湯山とバッタリ。「新幹線で帰ります。」言うてたけどあまりに安いのでバスにしたそう。更に安い4列シート。4列はさすがに若くないと無理だな。
posted by Mukai Kumotaro at 16:09| 日記

2018年10月14日

夢?

海で釣りをしている。皆んな、巨大なユニコーンを釣り上げる。俺も釣り上げる。プールのような浅瀬に上がってくる巨大魚。

プールの水は半分しか入ってなくて中で得体のしれないものが蠢いている。怖くて名人に相談する。「わかった。」名人の運転する船が動きはじめる。すごいスピード。細い路地を両サイドの家、ギリギリで走っていく。

船内ではパーティーがはじまっている。俺は名人の横に座っている。「ありがとうございました。」しっかりと握手をする。「ちょっと行ってくる。」

あっ、夢の話です。

夢といえば学校の夢もよく見る。

学校へと行こうとするが、授業の用意をしていない。用意をしようとするが教科書がない。時間がどんどん迫ってくる。行くだけ行くことにする。電車に乗るため駅に行くが切符がどうしても買えない。

モタモタとしていると高校生がやってくる。「オッさん、そんなことも知らねえのか。」馬鹿にされたので怒って高校生に向かって全力で怒鳴る。パッと態度を変える。そして帰る。

明日はちゃんと準備をしておこう。しかし久しぶりすぎて、学校に俺の席は果たしてあるのだろうか。

学校の夢は大体が廊下をウロウロしている。自分のクラスがわからない。というのが多い。勉強も全然していないのでついていけるかどうか不安でいっぱい。そもそも俺は学生なのだろうか。

そういえば、このあいだ山形で奥村君が高校3年の時に一回しか学校に行かなかった話しをしてくれた。

久しぶりに本当に久しぶりに学校に行くのだけど、久しぶりすぎてクラスがどこだかわからない。保険の先生だったかに聞いたら教えてくれて。

そのクラスに行ってドアをゆっくりと開けるとすでに授業は始まっていて、皆んなが一斉に奥村君の方を見る。一瞬誰やねん?みたいな間があって戸惑いながらもお互い「おっ。おう。」みたいな感じで。先生もどうしていいかわからんみたいな。

「へー。こういうクラスになったんや。」てな感じで、教室を見回すがどれが自分の席かわからない。空いてる席があるから「たぶんあれかな。」と思うのだけどそのままゆっくりと教室のドアを閉めて。

こちら夢ではないのだけど、限りなく夢に近いお話しでした。

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夢ってモノクロらしい。だからか白黒の映画を観てると夢っぽい。
posted by Mukai Kumotaro at 18:55| 日記

2018年10月13日

お金について

この世は全て“お金”。お金が全て。夢も希望もお金で買える。お金。人類の大発明品。

縄文の頃は自給自足。だからお金はもちろん存在しない。弥生になって食料を必要以上につくる輩がでてきて物々交換がはじまる。価値が等しいと思われるもの同士の交換。

それが交換するものが、美しい石だったり希少な貝だったりになって。美しい石、ひとつと牛1匹とか。石に価値を感じる人。ちょいと価値観が多様になってくるんだな。

そのうちに“金・Gold”があらわれる。美しさとか希少性なんていう移ろいやすい価値も要素として持ちつつ、絶対的な共通した価値『重さ』の取引になる。金1kg / 牛一頭。

命をかけて、死に物狂いで金を探す人々。金を巡っての壮絶な人類の歴史が始まる。金を制するものは世界を制する時代が、やってくる。

この時代は世界中で結構長い。日本は明治が来るまで続いたのか。江戸時代の小判は有名。それが変化するのはイギリスで。

沢山、金を手にした者は安全のため金庫に預けて、代わりに証文をもらう。「この証文と金庫に所持している金は等価です。」と。

そのうちに証文対証文という信用取引がはじまり。さらに現物の金は金庫にあるのにそれを持っています。という証文で買い物ができるようになった。この証文がお金へと変化していく。金庫にある現物と等価である。金の重さから人類は逃れた。

そしていつの間にか、金庫に現物としての“金”がないのに“証文”が、大手を振って世界中を闊歩し始める。金の代わりに証文を金庫へ保管するという変な時代の幕開け。

そしてイギリスの銀行家が人から預かった証文を勝手に人に貸し始める。気持ちはわからないでもない。金庫に眠っている証文=金をなんとか運用したい。

これ最初は違法でした。当たり前です。人から預かったものを、勝手に他人に貸すのだから駄目なのは子どもでもわかること。このやってはいけないことをイギリスの政治家が銀行家から頼まれて、合法にしてしまった。

だから今も世界中で人から預かったお金を、勝手に他人に貸して利益を得るという、やってはいけないことが常識としてまかり通っている。

それ自体には何の価値もない紙切れや鉄の塊を巡って命を懸けるヘンテコな時代の幕開け。そして最近、その偽物のお金さえ要らない数字だけの世界へと人類は足を踏み入れようとしているとNHKでやってた。

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以前も紹介したバンクシアブックス『みんなを幸せにするおカネの話』公には言えない話も。
posted by Mukai Kumotaro at 12:51| 日記

2018年10月12日

タイトル

1997年1月4日
【anarchy】乱世、無秩序、混乱
【radical】急進的、過激 (radical party:過激派)
【illegal】非合法

死について考え死をめぐる舞台は、去年で一応の完結をみた。『ヒトは死にながら生きているのか 生きながら死んでいるのか』にはじまり『死者の書'96』公演に到る一年にわたる死についての問いかけ。そして永遠に出ることのない答え。

「ここが、この現実こそが地獄なのだ。死後の地獄などない。」そして「ヒトは死ねば終わり。死後の世界も天国もないのだ。だから、この現実をこそ天国と思え。」はい。

タイトルを先につけてしまうことからくる決めつけの固さ。タイトルに引きずられて内容も制限をうけてどんどんと萎縮していく。にもかかわらず出来上がった作品は意に反した、タイトルとは似ても似つかないものになる中途半端。

思い入れたっぷりにつけたタイトルが、結局は自分の首を絞めて自分の敵になってしまうことがある。ので慎重にタイトルはつける。でもたまに「はっ。」と思い出すようについてしまう題名もある。

タイトルは最後の冠。結果の冠、意味の栓であり、舞台の蓋である。

そういえば『千秒の孤独』という大駱駝艦本拠地吉祥寺『壺中天』の柿落とし公演の題名は我ながら「いいなあ。」と思う。

らくだの若手男性ダンサーが20分間はじめてソロを踊る企画。20分というのがちょうど千秒で。ソロだから孤独。だけど、その話しはまだか。

しっかし32歳の俺、毎日毎日めちゃめちゃ勉強してるのが日記を見てるとわかる。毎日本を読んで公演も毎日行って、映画もしょっちゅう観て。情報は主に立ち読みで得て。買うと安心して読まないから週刊誌やコンビニにあるような情報誌は、立ち読みに限ります。

あとは立ち聞き。イメージが悪いですが、音楽の話しです。昔は吉祥寺のタワーレコードやディスクユニオンで毎日、長時間試聴してた。これは趣味にも生かされるので一挙両得。

1日24時間365日、いい作品を創りたい。その思いを燃料にして。すべては作品のためだった。何もかもが作品のためにあった。それは言い過ぎか。

長時間の立ち読み立ち聞きは、足腰が丈夫じゃないとできないな。最近楽してるのか。でもまあいつ死ぬかわからない年齢に差し掛かってるからいいか。楽しよう!

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『千秒の孤独』チラシ撮影より。大駱駝艦旗揚げ時のめちゃくちゃ格好いい集合写真がある。それをイメージして臨んだ写真撮影の一コマ。ラーメンのCMにどうでしょう。こいつら、飲みながらやっとんねんな。
posted by Mukai Kumotaro at 12:24| 日記

2018年10月11日

南朋

師・麿赤兒の次男坊、大森南朋と知り合ったのは1995年ぐらいなのかな。

当時はまだ大学生で、吉祥寺のいせやで呑んでたら挨拶に来て。俺は初対面だったけど大駱駝艦のイベントにアルバイトで来たりしてたので村松君と透は知り合いで。少し一緒に飲んだのかな。当時の彼女、バレリーナだとかいう子も一緒だった。

そのあと映画でも一緒に踊ったりして。

あの頃、ラクダのメンバーの中で舞踏家たるもの、反社会的な悪いことをしなければならない。みたいな雰囲気があってよくつるんで悪いことをしてた。

でも南朋は、一緒にいるのだけど決して悪いことはしない透明感のある清潔ないい男で。一緒にいると見透かされてるというか悪いことしてるんだな。という気にさせられるのだった。

そのそこはかとない高貴さのようなものが評価されたのか、しばらくしたら段々と売れはじめ。

全然タイプと違う主役を見事にこなした(ごめん、見てない。)『殺し屋-1-』でブレイクしてあれよあれよという間に売れっ子になった。

その頃は、まだキャメルアーツという大駱駝艦の芸能プロダクションに所属してたけど独立。

一緒に独立したのが南場尚さんといって、ナチュラルボーンマネージャーみたいな人で、南場さんがいたから南朋は売れた。といっても過言ではない人で。

「あれは売れるよ。どこの現場に行っても南場がいるんだからよー。」と兄貴で映画監督の大森立嗣が言っていた。伝手のある色んな現場に顔を出して南朋を売り込み続ける。

しかし、そのあと熾烈な芸能界の軋轢のせいなのか病気になって南場さんは故郷に帰ってしまった。

だけどいまは、復帰してまたマネージャー業に精を出しています。よかった。

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だんだん親父さんに似てきてるわー。怖い。
copyright apache
posted by Mukai Kumotaro at 21:34| 日記

2018年10月10日

ラジオ

今日は、FM87.6MHz渋谷のラジオ『渋谷の鉄割』出演のために渋谷へ。

ラジオは子どもの頃からずーっと笑福亭鶴光のオールナイトニッポンを聞いていた。高校生になってからは、ダウンタウンをいつも聞いていた。ダウンタウンは毎日テープに録音してたのだけど、あのテープたちは何処へ行ったかな。

いまテレビでやっているフリートークというスタイルは、あのラジオで形づくられたのだろう。面白かったもんなあ。毎日笑かされてた。

ラジオは映像がないから想像力が掻き立てられます。声だけで構成されるから情景や風景はリスナーに任せられる。まだまだ使える可能性びんびんのメディアやと思います。

朝9時から10時までだから、渋谷近辺の子どもを送り出した奥さんやそろそろ仕事を始める商店の方なんてのがリスナーなのかな。と思っていたけど、なんと、アプリをダウンロードすればインターネット環境がありさえすれば日本全国どこでも聞けるんだって!さらなる可能性。

今回のラジオはスポンサーが少ないらしく、たぶんその分自由にやれるのだと思う。忖度や遠慮、気を使ったりしなくていい。放送コードギリギリを攻めていける。のかな。

ラジオ番組の金字塔『小沢昭一の小沢昭一的こころ』は、構成作家がいたとか。口演:小沢昭一、お囃子:山本直純、筋書き:ほにゃらら、と毎日放送してたもんな。

今後フリートークだけだとしんどい時も出てくるかもしれないので、先達の真似をして構成を入れてもいいと思う。

今後、『渋谷の鉄割』がどう展開されていくのか自分なりに妄想しているのだけど、鉄割の演目をやるとより面白いのじゃないかな。演目暗転、ト、音楽。

アーカイブする時には著作権の問題で、音楽が使えないらしいのでそこは雑談で。楽屋話しのようなフリートークがあってまた演目。ト、暗転みたいな。

予算的に難しいか。。何処かビッグスポンサーがいるようなラジオから依頼が来たら可能なのかな。スポンサーがいるとアレがダメ、コレがダメと煩いからそれも難しいか。

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向雲太郎が達磨面壁八年の話しをしているところ。実況解説:戌井昭人、渡部真一。左、総合司会の朝倉美佳さん。
posted by Mukai Kumotaro at 17:51| 日記

2018年10月09日

天才?

今日は、東洋大学国際哲学研究センター主催の第2回舞踏?ワークショップ開催のため河本英夫先生との打ち合わせへ。

先生には去年の仙台石巻市で行われたReborn-Art festivalではじめてお会いしました。アートウォークのプロジェクトで身体ワークショップを担当しましたが、推薦をしてくれたのが河本先生でした。

東京大学卒業の哲学者。日本の頭脳。言っていることがいちいち舞踏的でとっても興味深いです。考え方が身体的なんだな。そして発想がずば抜けている。スーパー柔らか頭。いま続けているのは毎日、何もかも忘れしまうことだって。

「だって、新しいものが入ってこないじゃないですか。」はい。

鳥取出身で高校の時は、1年の時しか勉強しなかったらしい。2年3年はうちの農業の手伝いをしていた。1年時に全国で100番以内だったのでもう大丈夫と勉強はしなかったとか。

先生と喋っていると10分のうち8分は先生が喋っている。 話しが止まらない。その話す内容が博学な知識の中から出てくるから説得力を持って訴えかけてくる。聞いてるこちらの脳が刺激される。

今日の打ち合わせは1時間ぐらいかと思っていたら、結局3時間も喋っていた。

口癖は「難しい。」

専門は”オートポイエーシス”。これは本を読んでもいまいち実感として理解できなかったけれど、著作『哲学、脳を揺さぶる』は、なるほどなるほどと読み進んだ。

内容をいくつか書き留めたのだけどノートを淡路に置いてきてしまった。とにかく柔らかく見方をかえたり疑って常識を信じるな。というような内容だった。たぶん。

4年間大学で哲学を勉強した生徒に卒業式の時、「今日で哲学は、すべて忘れてください。」と言うのだそうです。みんな困惑するらしいけれど、一度リセットしてそこからまた新しく始めてください。と言う励ましが込められているのだと思う。

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哲学する猿。
posted by Mukai Kumotaro at 21:45| 日記

2018年10月08日

エコノミー

あと一週間後に関西へ移動です。淡路島で湯山と合宿をして伊丹空港から出発です。24時間かけてメキシコシティへ。考えただけで憂鬱になります。はあ〜。

およそ20時間近く、エコノミークラスの窮屈な機内で三角座り。ご飯を食べるのも何をするのも両隣に気を使いながら肩身狭くじっとして過ごします。修行のつもりで参ろう。機内での映画鑑賞が唯一の楽しみです。『万引き家族』やってるかな。

そういえば、大駱駝艦海外ツアーの時、どこだっけな。乗り換えがあったからメキシコツアーか、イスラエルツアーか。確かニューヨークでのトランジットだったかな。
 
煙草を皆んなで吸ってたら、坂本龍一さんがやってきて「おー、龍一君。」って感じで。坂本さんにはラクダの名作『海印の馬』の音楽を担当してもらっている。談笑してた。と思う。一緒にいたはずなのに覚えてないな。

「麿さん、そろそろ時間なのでまた。」ってな感じでわかれて坂本さんは颯爽とファーストクラスへ。一方の師匠は堂々とエコノミークラスへ。

ファーストっていまはなくなったみたいですが100万するんですよ。100万!しかし麿さんが引き連れているのはスタッフ含めて総勢30人だから一人10万としても。。まあいいか。二人ともそれがどうしたって感じなのが格好よかった。単なる立場の違い。

しかし飛行機に乗ると、特にアメリカの航空会社はスマイル有料というのが如実に感じられて面白い。ビジネスクラスから満面の笑みで出てきてカーテンを閉めた瞬間に能面に変化するCA。

まずはビジネスクラスを通って狭い狭いエコノミーへと入るのも、平等ということについて考えるいい機会。格差をわざと感じさせてもっとお前ら頑張れよと。そしたらこんなに広いところで快適に過ごせるぞ。と。ちなみに飛行機が不時着するときは尻から地面に着くので最初に死ぬのはエコノミー。

それはさておき。シティで一泊してそこから8時間だかバスで移動です。東京から大阪ぐらいですね。めでたく48時間後、地球の裏側、メキシコミチョアカン州の田舎町パツクアロに到着です。

二週間滞在制作してパツクアロの劇場で公演。その後シティの大劇場に移動して公演。1300人!?入れるらしいです。頑張ろう。

歯痛とキンタ◯の猛烈な痒みが心配ですがまあ、何とかなるでしょう!

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今回もお世話になるCENTRO DRAMATICO DE MICHOACAN.
posted by Mukai Kumotaro at 20:41| 日記

2018年10月07日

からだ?2

人のからだを、野口体操では“柔らかい皮膚という膜に包まれた水が一杯に入った皮袋”なのだといいます。これは事実です。

人のからだは生まれた時は、90%でほぼ水。子どもで80%ぐらいで歳をとればとるほど減っていく。高齢者だと50%。0%はミイラ。

師匠の麿さんは人のからだのことを大聖堂とか大伽藍と言ったりします。空っぽなもの。麿さんの師匠、土方さんは器だといいます。やはり空っぽなもの。

その空っぽな中に色々なイメージを入れてうごかしてあげる。そう。この“うごかしてあげる”というのが大事なところで。

空っぽな柔らかいからだというものをうごかしてあげる。うごかしてもらうとも言えます。師匠は、「うごかして頂く。」といいます。

からだのまわりが実体だ。という話しがありましたが、からだのまわりがうごくから、からだもうごく。

操り人形は普段は空っぽな人がたですが、糸をつけることでうごく。誰かにうごかしてもらう。これと同じです。空っぽなからだを何かにうごかしてもらう。何かは、糸であったりイメージであったり目に見えない何かであったり。

いちばんポピュラーなのは音楽です。曲に踊らせてもらう。いちばん安易だとも言えますが。

うごくのではなく、うごかして頂く。何故そんなことをするのか?

その方が嫌味がないからだと思います。自分が自分が、という押し付けがましさがない。この自分というものをなくすというのも舞踏の大事な基本だったりします。

例えば浄瑠璃で人形が人の手によってうごかされる時、観るものは感情移入がしやすいのだと思います。そこには私が私が、という押し付けがましさが皆無だから。

同じことが能にもあてはまって、面を着けることによって過剰な表現という押し付けがましさが激減するから、引き込まれるのだと思います。

押せば引くのが人情。引けば引くほど観るものは惹きつけられるものです。しかしこの引くというのがなかなかに難しくやっぱりうごき過ぎてしまったり出し過ぎてしまったりしてしまうのです。

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人のからだの器官でふたつあるものは、ひとつは予備らしいです。次男以降は予備なのと同じ。illustration by Kumotaro Mukai.
posted by Mukai Kumotaro at 06:51| 日記

2018年10月06日

からだ?

「教科書に書いてあることを、決して信じるな。」by 本庶佑(2018年ノーベル医学生理学賞受賞)

まずは“疑う”というところからはじまる舞踏のワークショップで、そこまで全否定したらうごけなくなってしまうのではないですか?と問われて考えるのですが、やはり「からだがあればいいんだよ。」にいき着きます。からだをうごかすという、ひとつの答え。からだをうごかして何かをやる。というひとつの真理。

では、からだとは何か?

骨があって筋肉があって血管があって内臓があって皮膚に包まれたもの。はい。そう習いました。でもそれはカラダの構造の話であって、カラダのことを言いあらわしているのではありません。

からだとは何か?

腕が二本で足が二本あって、肩があって頭がのってるもの。それもカラダのカタチの特徴を言いあらわしているだけで、カラダそのもののことを言いあらわしているのではありません。

本当か?からだとは本当にそんなものなのか?

ここで、問題をひとつ。何故、人のカラダにはふたつある器官が多いのか?

閑話休題、からだとは何か?

魂の乗る自動車みたいなもの?アムロの乗るガンダムみたいなもの?

キムさんがいつもワークショップで「からだは空だ。」と言ってました。駄洒落ではなく本当の話しです。

師・麿赤兒は、カラダは外にあるのだという。意味がわからない。

色即是空 空即是色

だ。と。余計に訳がわからない。でも大真面目に師は言うのです。

想像してみましょう。自分の回りが実体である。カラダの外側に実体がある。カラダの中身は空っぽなのだ。と。

舞踏では、最初に徹底的にカラダの中を空っぽにします。入念にカラダとアタマも空っぽにします。本来のかたちにチューニングしてあげる。からだとあたまをリフレッシュ、揺さぶって空っぽにして綺麗にする。からだとあたまの断捨離。

地球とは巨大なカラダみたいなものですが、いま台風が多いのは地球が人間でいうと風邪を治そうとしてるらしいです。

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色即是空、空即是色。色とはかたちのこと。かたち即ち、空っぽなり。空っぽ即ち、かたちなり。illustration by Kumotaro Mukai.
posted by Mukai Kumotaro at 19:11| 日記

2018年10月05日

変態

「自分のアタマ、いますぐ引っこ抜いてそれであなたとバスケがしたい。」by 米津玄師

昨日に引き続き、平和祈念展示資料館のお話しを。

ソビエト兵の殺人、略奪は当たり前でついでに強姦される。極悪非道かと思えば食べ物をくれたりするソ連兵もいたりと、悪い奴もいればいい人もいるのはどこでもいつの時代も同じ。だけどやはり異常な極限状態にあると人間の本性がよくあらわれるのだと思う。

そんな展示をみていると、ふと「しかし、第二次世界大戦でドイツと日本が勝たなくてよかった。」と心の底から思いました。

『踏み絵』という人類史上に残る異常な洗脳外しの拷問を発明した国。何人もの敬虔なキリシタンを棄教させた精神的に痛めつける意地悪の極地の拷問『踏み絵』を考えた日本という変態的な民族の国。恐ろしい。

ちなみに遠藤周作さんの小説『沈黙』はそんな踏み絵のお話らしいです。読みます。

かたやホロコーストという大虐殺の地獄を発明し約600万人を殺した国。弱いものいじめが大好物で超差別主義で全体主義で軍服に制帽が大好き。そして全世界の独裁主義者たちの永遠のアイドル、アドルフ・ヒトラーを生み出したドイツという変態的な民族の国。怖い。

スティーヴ・エリクソンの小説『黒い時計の旅』はヒトラーが戦争に負けなかったというお話です。ちなみにオリンピックで聖火リレーを行なったのは、1936年ナチスドイツ主催のオリンピックからだって

オリンピックかあ。拝金主義の怪物。ナショナリズムの権化。オリンピックを見て高揚して「ニッポン!ニッポン!」叫ぶ輩は戦争で高揚してナショナリズムを叫ぶ輩と紙一重ですよ。お気をつけて。

しかし、戦争って何なんだろう。戦争をなくすには国をなくすしかないです。戦争は国に認められた合法的な外交手段だから。人間でいうと、いちコミュニケーションの手段か。色んなコミュニケーションの手段があるから別にいいか。いいのか?

ついでに民族という考え方もやめればいいのに。大坂なおみさんとかを見ていると、何が日本人でどこが日本人じゃないとか本当にもうどうでもいい。と思う。

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平和祈念展示資料館に展示してあった、太平洋戦争の宣戦布告書。この紙切れによって約310万人が死んだ。(2001年8月28日受領答弁第15号.第152回国会)
posted by Mukai Kumotaro at 18:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年10月04日

飢餓

今日は、新宿にパスポートの更新に行きました。偽造が多いからだろうけど、受け渡しで係官が偽造ありきで写真と実物の顔を何回も見比べているのがいたたまれないような、申し訳ないような気分になり、思わず目を伏せた。

嘘つきで汚くて平気で人を騙す、人類を代表して目を伏せました。ごめんなさい。

帰り道の新宿は、人が多くて目が回ってグルグルと同じところを回っていると、なんだか気になるポスター。

平和祈念展示資料館だって。むむっ。まあでも今度にしよう。今度?それっていつ?とか考えながらもう既に足はそちらへと向かっていた。出会いと勉強です。

三井ビルの33階にそれはありました。昭和天皇の宣戦布告文書があったり、8月15日の終戦詔書などの貴重な書類が展示してあったり充実の内容。何と言うか、グイグイと引き込まれる展示で。広島の平和記念資料館とはスケールが全然違うのだけど、内容は負けるとも劣らず。

千人針の実物が展示してあり、その丁寧な刺繍から「とにかく無事に帰ってきて欲しい。」という思いが伝わってきてグッとくる。戦場で弾に当たらないための手作りのチョッキも、思いが伝わってきて胸に迫るものがあった。

シベリア抑留の展示は極寒の凄惨な現状がわかり易く展示してある。とにかく飢えなんだな。辛いのは。腕を売って食べものを得るみたいな世界。凍傷で腕がなくなるよりも飢えのほうがつらいのだそう。

展示中での圧巻は、その飢えを表していた立体的な人形の展示でした。それまでの2次元の展示とは明らかに一線を画す展示。資料や遺品から想像するのも良いが、よりわかり易く立体的だった。

やせ細り飢えに飢えて目だけギョロギョロとした、人形の迫力には言いようのない迫力と説得力があった。

広島平和記念館の人形は撤去になったそうです。記念館の一番の目玉展示を撤去するという愚かな決定は誰がしたのだろう。リアルでグロテスクで怖いというのなら、もう少しスタイリッシュな人形にするとか。やめてしまう。というのは、一番つまらなく残念な選択です。

しかし、場所が悪いのではないのか。と思った。国の管轄ならば、せめて都庁の中にあれば来館しやすいのに。都庁からのアクセスも悪いし、わざわざ三井ビルの33階まで訪れるのはよっぽどのことです。

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すべて見るには結構時間がかかります。
posted by Mukai Kumotaro at 08:49| 日記

2018年10月03日

スティーブ蛇

電車の中でiPhoneをいじってる姿はなぜ格好悪く見えるのかな。戌井君が「小鳥を絞め殺してるみたいで気持ち悪いですよね。」と言ってたけど流石で独特の形容。

ちまちまとした世界を無防備に覗き込んでる姿がみっともなく見えるのかな。同じ自分だけの世界に入ってる姿でも本を読んでるのは風情がある。何故か。

わたくしは、こんなものはなくてもまったく平気。持ってないと清々するだろうなあ。とも感じるのだけど必要があって持ってしまってる。本当に必要なのか?本当か?

確かに便利。だけど便利なお陰で失ったものも多いのだと思う。 コンビニが出来て失ったものが多いように。

便利だが豊かではなく。

手軽だが温かくなく。

溢れているが飢えている。

無防備になるのが嫌でなるべく電車の中では弄らないように気をつけてるけれど、必要があって触ってしまう。でも本当に必要なのか?LINEを見るのが本当に必要?

iPhoneを発明した、とうのスティーブ・ジョブスは「自分の子どもにはあんなものは絶対に持たせない。」と言っていたらしいけれど酷い人間だな。

人にリンゴを食べさせた蛇みたいな存在なのだと思う。人間はiPhoneという禁断の実を蛇に食べさせられてしまった。人類はこれなくしてはもう生きられないのだ。

とか記してる自分がまさにiPhoneを使って『ブログ?』を更新したりしてるのだけど。自分の姿を見てるみたいだから嫌なのかな。

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それを手にするイブとそれを見つめるアダムとスティーブ蛇。
posted by Mukai Kumotaro at 20:55| 日記

2018年10月02日

なぞり?

一昨日から、オペラシアターこんにゃく座公演『おぐりとてるて』の稽古に振付で入っています。

今回は群馬県と千葉県、鹿児島県、演出の立山ひろみさんの故郷、宮崎県での公演です。

一度、振り付けたのだから通常はそれで終わりなのかも知れませんが、いつも忙しいこんにゃく座なのでキャストが変わるごとに呼んで頂いて。

前任者の役を引き継いでさあ本番。と簡単に行けば問題ないのだけど、そうは問屋が卸さない。下手をすると前任者のやっていたことをなぞってしまい、つまらなくなってしまうので細かく丁寧に稽古します。

なぞりとは、真似・コピーですね。本質ではなく上部だけ、格好だけのコピーはオリジナルを永遠に超えられない宿命を持っている。そしてコピーを続けていると、エッジが甘くなってだんだんとなんだかわからない別のものになってしまうので気をつけないといけません。

しかしそこは、底力のあるグループ。引き継いだ人も魅力のある人ばかりだから、その面白さを探して見つけて伸ばすだけで良かったりするので楽しい。

そういう意味では、このキャスト変更は、役の幅を広げるチャンスでもあったりするのかもしれない。

「人物を持ってくるのは役者。」そう立山さんが言うように、やはり答えはその人自身の中にあるのだと思う。
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立山さんは、宮崎県立芸術劇場の演劇ディレクターで今度、戌井君と仕事をされるようです。写真左から劇作:戌井昭人氏、舞台美術:土岐研一さん、演出:立山ひろみさん。
posted by Mukai Kumotaro at 18:37| 日記

2018年10月01日

“間”は”魔”に通じる

「愛されたいなら、そう言おうぜ。思ってるだけじゃ伝わらないぜ。聞こえてんなら、声出してこうぜ!」by Kenshi Yonezu

山形で奥村君に教えてもらった、米津玄師に夢中です。『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』主題歌も歌ってますね。

こちらアニメですが、原作というかもともとはテレビドラマです。監督は俊英・岩井俊二 。深夜にやってたらしいのですが兄弟子、村松卓矢が偶然観てたみたいで。

「こんな深夜のドラマで真剣に使ってる人がいるんだなあ。と思った。」と珍しく褒めていたのを覚えてる。村松君が褒めるなんて珍しくてびっくりした。

ケチをつけるのの天才で本当のことを黙っていられない性分で、その上クソ度胸があるもんだからタチが悪い。麿さんの逆鱗に触れるのも得意で。わざとではないのだけど大爆発させる。

村松君には、俺は一度だけ叱られたことがあるぐらいで仲が良くて、いつも一緒にいたなあ。あまりにも頭が切れるから、ずっと一緒にいるとだんだん腹が立ってくるのだけど。

長野白馬村合宿の初回かな。男で川に行って。結構な激流で2メートルぐらいの岩の上から下へ激しく流れ込んでた。滝壺みたいにうねってて。

みんなで見下ろしてすげーなとか口々に言ってたら、合宿長の村松君が本当にすっと自然に飛び込んだ。

岩の上から激流を流れて下へ潜り込んでって。「えーっ!?」てびっくりして見てたら、ずーっと向こうの方で浮き上がってきて。笑顔で手を振っていた。

格好良かったなあ。向こう見ずなんだけど自然で、怖いからこそ飛び込んでいくみたいな。あとで聞いたら、見て大丈夫だな。と思ってたんだって。一瞬で判断したんだな。判断力の確かさと決断の早さ。

それ以来、激流への飛び込みは長野白馬合宿のちょっとしたイベントになってた。まだ死人は出てないから合宿長の判断は正しかったのか。それとも最近は危ないからやってないのかな。

閑話休題。歌・音楽・お芝居・をどり、すべて大切なのは、“間” だと思います。米津くんは間の取り方がいいんだよなあ。奥村君のお芝居の間の取り方もえげつないです。をどりでいえば兄弟子の間の取り方は、それはもう絶品でありますが、やはり師・麿赤兒の“間”の取り方のほうが圧倒的なのであります。

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米津玄師くんのアルバム“BOOTLEG”がいまのヘビーローテションです。
posted by Mukai Kumotaro at 11:37| 日記

2018年09月30日

メキシコで『ふたつの太陽』をやることについて

日本とメキシコのつながりは、400年前にさかのぼり、仙台藩の伊達政宗によって派遣された支倉常長のメキシコへの初渡航によって始まります。

それから400年間さまざまな交流が繰り広げられ、横尾咲子とメキシコの交流から向雲太郎とエスパルタコ・マルチネスの交流につながり、そこから広島県とグナファト市の交流へとつながっています。

ここで『ふたつの太陽』創作中のお話しをひとつ。

稽古のまだ最初の頃に被爆して亡くなった人達の鎮魂のために、広島の神楽を作品中でやりたいと思っていました。

しかしそうしたクリエイション初期のアイデアは往往にして忘れてしまいます。その時もそうで記憶の片隅へといっていました。

創作も佳境に入っていたある日のこと広島県文化芸術課の松岡さんという方から電話がありました。「むかいさんはメキシコへ行っておられますよね。このたび広島県の神楽を姉妹都市であるメキシコのグナファト市でやることになり、ついては人を紹介してもらいたい」という内容でした。

ふたつ返事で横尾さんの連絡先を伝えたそのあとの稽古で、ふとそういえば広島の神楽を作品中でやりたかったのだと思い出し、松岡さんに連絡して神楽の映像を送って頂き、そうして作品のまさにクライマックスで広島の神楽を行うというアイデアを実現させることが出来たのでした。

「神はサイコロを振らない」とアインシュタインは言っていますが、私も最近この世に偶然はないのだと思っています。

この逸話も単なる偶然ではなく、400年前に支倉常長がメキシコへと向かったその時から運命づけられていたのではないか。そう思ったり。

現在、メキシコの社会状況は日本に比べて比較にならないぐらい悪く、そのことがメキシコの若者に舞踏を求めさせているのだと感じています。

舞踏の反時代性、反社会的な側面がメキシコの抑圧され危機感を常に持っている若者の希望となり拠り所となっているのだと思います。

今回の『ふたつの太陽』メキシコ公演は、そんな彼ら彼女らの問題意識を刺激して、まるで波紋のように必ずや世界へと広がって行くのだと確信しています。

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舞踏家集団デュ社旗揚げ公演『ふたつの太陽』於: 吉祥寺シアター 2014年12月 photo by bozzo
posted by Mukai Kumotaro at 11:06| 日記