2020年08月11日

長崎の被爆者、谷口すみてるさんの証言

「私は1945年8月9日、爆心地から1.8キロの所を自転車で走っていて被爆しました・・・

9月になって、大学病院が治療をしているとのことで送られました。

そこではじめて医学的な治療を受けました。まず輸血です。

でも、私の血管に輸血の血液が入っていかないのです。内臓が侵されていたのでしょう。貧血が激しくて、焼けた肉が腐りはじめました。

腐ったものがドブドブと、体内から流れ、からだの下に溜まるのです。下にボロ布を敷き、それに体内から流れ出る汚物を溜めては、一日に何回も捨てなければなりませんでした。

その当時、火傷や怪我をした被爆者のからだに、ウジ虫がわいて、傷の肉を食べていました。

私には一年過ぎてから、ウジ虫がわきました。私は身うごきひとつできず、ましてや、座ることも横になることもできません。

腹這いのままで、痛みと苦しみの中で殺してくれと叫んでいました。誰一人として、私が生きられると予想する人はいませんでした。医者や看護婦さんが、毎朝来ては"今日も生きてる、今日も生きてる"とささやいておられました。

家の方では、何時死んでも葬儀ができるよう準備していたそうです。私は死の地獄をさ迷い、滅び損ねて、生かされてきたのです。身うごきひとつできなかったので、胸が床ずれで骨まで腐りました。

いまでも、胸はえぐり取ったようになり、肋骨の間から、心臓がうごいているのが見えます。

1年9ヶ月たって、ようやくうごけるようになり、3年7ヶ月たって、全治しないまま病院を退院しました。その後も、入退院を繰り返し、1960年まで治療をつづけてきました。

1982年頃から、ケロイドの所に腫瘍ができて手術を受けました。

その後も医学的にも解明できない、石のような硬い物が出来て手術を繰り返しています。皮膚が焼け、肉が焼けているため、人間が生きていくために一番大切な皮下細胞、皮下脂肪がないため、石のようなものができるのだそうです。

『平和』がよみがえって、半世紀が過ぎました。

私は奇跡的に生き延びることができましたが、いまなお、私たち被爆者の全身には、原爆の呪うべき爪跡があります。

核兵器と人類は共存できない。

私が歩んできたようなこんな苦しみは、もう私たちだけで沢山です。世界の人類は平和に豊かに生きてほしいのです。そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつくりましょう。

人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません。

私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死んでいけません。

長崎を最後の被爆地とするため。

私を最後の被爆者とするため。

核兵器廃絶の声を全世界に。」

2010年8月8日、アメリカン大学と立命館大学の学生への谷口稜曄さんの証言を転載。

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谷口さんは、最後までじぶんのからだを原爆の証として公にさらしつづけた。photo by AP通信社「条約の 締結祈る語り部の 背中の傷は 未だに癒えず」伊藤史織、静岡県立藤枝東高校3年
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2020年08月10日

8月9日、長崎にて

谷口稜曄(たにぐちすみてる)さんは長崎で被爆した。

谷口さんは1945年8月9日、当時16歳の時に郵便配達のため長崎の爆心地から1.8キロの所を自転車で走っていた。

4000度ともいわれる石や鉄をも溶かす熱線と、目には見えない放射線によって背後から焼かれた。

次の瞬間、建ものを吹き飛ばし鉄骨をも曲げる秒速300メートルの爆風によって、自転車ごと4メートル近く飛ばされ道路に叩きつけられた。

しばらくして起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっている。

背中に手をやってみると、ヌルヌルと焼けただれ手に黒い物がベットリついてきた。

それまで乗っていた自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっている。近くの家はつぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていた。

谷口さんは苦しみ助けを求めている人たちを見ながら何もしてあげられなかったことを、今でも悔やんでいる。 多くの被爆者は、黒焦げになり、水を求め死んでいった。

彼は夢遊病者のように歩いて、近くのトンネル工場にたどり着いた。台に腰を下ろし女の人に頼んで、手に下がっている皮膚を切り取ってもらう。

そして、焼け残っていたシャツを切り裂いて、機械油で手のところだけ拭いてもらった。

工場の人たちは、工場を目標に攻撃されたと思っている。また攻撃されるかわからないので、他の所に避難するように言われた。

力をふりしぼって立ち上がろうとしたが、立つことも歩くことも出来ない。元気な人に背負われて山の上に運ばれて木の陰の草むらに、背中が焼けただれているためうつぶせで寝かしてもらう。

周りに居る人たちは、家族に伝えて欲しいと自分の名前と住所をいい「水を、水を」と、水を求めながら死んでいく。

夜になると方々が燃えていて明るいので、人のうごきを見てアメリカ軍の飛行機が機銃掃射して来た。その流れ弾が谷口さんの横の岩に当たって、草むらに落ちる。

地獄の苦しみの中にいるじぶんたちにアメリカは、なお爆撃をしてくるのだ。

夜中に雨がシトシト降り、木の葉から落ちるしずくを飲みながら一夜を過ごした。

夜が明けてみると、谷口さんの周りはみんな死んでいて生きている人は見当たらなかった。そこで2晩過ごし、3日目の朝、救護隊の人達に発見され27キロ離れた隣の市に送られた。

病院は満員で収容できず、小学校に収容される。

被爆してから6日目に傷から血がしたたり出るようになり、それと共に痛みがジワジワと襲ってきた。

1ヶ月以上治療らしき治療はなく、新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけ・・・

けれども谷口さんは生き延びる。

そこから2017年8月30日に88歳でがんにより亡くなるまで、壮絶な原爆後遺症との闘いの日々を送るのでした。

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被爆半年後の自分の写真を掲げながら演説する谷口稜曄さん。2010年5月7日、ニューヨークの国連本部にて。

参照・引用:2017年8月29日 Peace Philosophy Centrebased in Vancouver, Canada『Nagasaki A-bomb Survivor Taniguchi Sumiteru dies』
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2020年08月09日

繰り返された地獄

1945年8月9日11時02分、2発目の原子爆弾が長崎に実戦投下されました。

アメリカでは、広島への原爆投下は「戦争を終わらせるために必要だった」という意見がいまだに大多数を占める。

けれど、長崎に関しては疑問を感じるひとがアメリカ人の中にも多いようです。

長崎へ投下された“ファットマン”は、広島へ投下された“リトルボーイ”よりも威力は強大であった。

にもかかわらず被害が広島よりも少なかったのは、当時の長崎上空が曇っていて本来の投下目標だった市街地から外れたからでした。

最初の目標都市は小倉だった。

ところが小倉が曇っていたため原爆投下を断念、急遽長崎へと投下場所を変更した。

原爆搭載機ボックス・カーが長崎上空へ到達したとき長崎の市街も、小倉と同じく雲におおわれていた。

すでに燃料は基地へ戻れるぎりぎりだった。機長チャールス・スウィーニー少佐、25歳はレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。

爆弾投下まであと25秒。

そのとき、爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。

爆弾の投下は目視爆撃でおこなえということが重要命令だった。そこで、ここが急遽投弾目標となった。高度9,600メートルの上空から原子爆弾を長崎に投下。

まるで宿命に導かれるように、浦上天主堂のうえで炸裂。

プルトニウム239の核分裂反応によって初期瞬間温度は摂氏500万度となり、火の玉は直径280mになった。

原爆投下に随行したジャーナリスト、ウィリアムローレンス記者は当時を回想して語る。

「巨大な火の玉がまるで地球の奥深くから湧き上がってくるような光景を目撃した。

つぎに巨大な紫の炎の柱が地球から飛び出した流星のように上空へと駆けのぼるさまを、私たちは畏怖の念に打たれて見つめていた。それはまるで生きもののようだった。」

非人道的な戦略核兵器、原子爆弾の二度目の投下により死者 73,884人 重軽傷者 74,909人 合計148,793人が被爆した。

「悲劇の谷、浦上は世紀の大暴風が去った三日月の下にひらく死の砂漠であった。死者のすべてが虚空をつかんだ幽霊のすがたで焼けている。火の海の塗炭の苦しみをなめたあらわれであろう。

もはやこの惨状に対してあらゆる語彙が、今日かぎり私にとっては無力となった。」

陸軍報道部の撮影に同行し原爆投下後に長崎へと入った東潤は記している。

ヒロシマが最初の原爆実戦投下をされた都市ならば、ナガサキは最後の原爆実戦投下をされた都市です。

人類にとってこのことは非常に重要なことなのです。

広島につづき長崎へと原子爆弾を落とされても、まだ大日本帝国は敗北を認めようとしなかった。

テニアン島では3発目の原子爆弾の投下準備が進んでいた。

3発目の投下目標は東京の皇居だった。

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『ナガサキのキリスト』

参照・引用:長崎原爆資料館ウェブサイト | 2020年8月6日『証言と映像でつづる原爆投下・全記録』NHKスペシャル
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2020年08月08日

8月6日、夜のこと

舞踏家集団『デュ社』の夏季舞踏合宿は中止にしました。

舞踏合宿は海外からの参加者がとても多いけれど、まだ海外からの入国が大幅に制限されている。

そして共同生活による感染のリスクもあるので、いまはまだ合宿というもの自体がなかなかにむずかしい。なによりもじぶんの移動が厳しく制限されているし、残念だけどしかがない。

大駱駝艦の特別体験舞踏合宿も、今年は中止か。そう思って調べてみたらなんと開催されたようです。底力のちがいか、環境のちがいか・・・

古巣、らくだかんの合宿には1994年から2012年まで18年間、従事しました。

合宿は朝の授業と昼の授業と夜の授業がありまして、夜は大駱駝艦主宰、麿赤兒の特別講義。

麿さんがいろいろと喋って、そのあと合宿生がじっさいに踊るのです。

あれはいつの合宿だったのか忘れてしまったけれど、合宿生を踊らせながら「あつい、あつい・・・」「いたい、いたい・・・」「くるしい、くるしい・・・」と麿さんがことばで誘導しはじめた。

電気を消して暗い中、師匠が擬音で色々と描写するのがすごく怖かったのを覚えている。

あとで考えたらその日は8月6日だった。らくだの合宿は8月の第1週におこなわれるので、8月6日が入るのです。

「そうか8時15分とかいって朝に追悼するからそれで終わりという気になってしまうが、8月6日の夜ってのもあるのだ」という当たり前のことに、そのときに思い至ったのでした。

電気はもちろんないから真っ暗な中で被爆者たちは、自分がどうなっているかもわからない。

まわりからは「あつい・・・いたい・・・くるしい・・・」という呻き声しか聞こえてこない。想像しただけで恐ろしいし、不安だったろうなあ。

蝉も鳩も雀もこおろぎも生けるものすべてが死に絶えているから完全なる静寂。あっ、蝿は凄まじく大量発生していたのか。放射能の影響か巨大化していたとか。

夜、山のほうへ避難していく被爆者の行列が通っていくとき、道沿いの家の門戸は固く閉ざされていたという。関わりあいになりたくないという残酷な心理・・・

麿赤兒講義のあとの野外稽古で、照明に無数の虫が集まってきていて皆んなビックリしていた。冗談ではなく、14万匹はいたかもしれない。

そしてその夜、宿舎の玄関の自動ドアが、誰も通っていないのに開いたり閉まったり一晩中していた。

ちょうどお盆だったし、霊が遊びに来ていたのかもしれません。

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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にて。
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2020年08月07日

1945年8月6日、夕刻

木谷真一は、原爆の落ちた広島の街を歩きつづけた。

泣きわめく声が聞こえるのであたりを見回すと、子どもが家に挟まってうごけなくなっていた。

よく見るとそれは知り合いの子だった。火はすぐそこまで迫っている。

からだはほとんど外に出ているのに、片足が柱と柱にはさまって引き出せないのだ。助けようとするがどうにもならなかった。周りを見ても全裸で狂ったように歩く真っ黒な人、人ばかり。

「もうすぐ楽になるからな」真一は、謝るように手を合わせ逃げるようにその場を立ち去った。

「助けてあげられなくてごめんな」

流れる涙を拭うこともなく歩きつづけた。自分自身も全身大火傷を負っていた。服はズボンがかろうじて半分残っていた。

真夏だというのにぞくぞくとするぐらいに寒い。

震えながら歩いていると、とつぜんはげしく雨が降りはじめた。真っ黒な雨だ。どろりと泥のように重たかった。

黒い雨を浴びながら歩く。靴はいつの間にかなくなっている。腫れ上がり真っ黒で、ぶつかっても誰だかわからない顔・・・顔・・・

「自分もそうなのだろう」

そんなことをぼんやりと考えながら真一は、火の手に流されるようになり逃げ惑う群衆に流されながらも、いろんな知り合いの安否を訪ねて回る。

声を限りに叫んでいる男、悲鳴をあげながら走る女性や子ども、苦痛を訴えるひと、道端に坐りこんで、助けをもとめるように空に向けて差し出した両手を振っているひと。

崩れ落ちた家のわきで、合掌瞑目して一心に祈っているおばあさん。四つん這いになって鳴き声をあげながら、わずかずつ進んでいる男。

いろんなひととすれ違う。

燃え上がって通れないところは遠く迂回しながら、夕方まで歩きつづけ死体の山の上を歩きつづける。

皮膚が破けずるりとすべり、こけてしまうこともしばしばだ。

会う人会う人に名前を聞くが、誰だかまったくわからない。全員が全員、誰かを探している。みんな何処へ行ってしまったのか?わからない。

何もかもわけがわからないが、ひとつ確かなのは、誰かに「死ねばいい」と思われたということ。ぼやけた頭でそんなふうに思う。

空は黒煙でどんよりと曇っている。午後にはすべての死体が腐りはじめていた。

日が落ちてくると広島の空は、炎で夕焼けのように真っ赤になっていた。

真一は歩きつづける。何度もなんども嘔吐して喉が乾いて仕方がない。

「正子、もう会えんかもしれん・・・真裕君、みんなのことをよろしく頼む・・・文子、文子・・・水を・・・水をくれんか・・・水を・・・みず・・・みずがのみたい・・・みず・・・」

もうそれしか考えられなくなっていた。

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夕方、変わり果てた姿で丸さ呉服店に帰ってきた曽祖父。声でしか本人だとわからなかったという。
木谷真一、享年70歳。没:1945年8月6日、夜「合掌」

参照:『夕凪の街 桜の国』こうの史代 双葉社、『この世界の片隅に』こうの史代 双葉社、『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫、図録『原爆の絵』広島平和記念資料館編 岩波書店、『原爆詩集』峠三吉 平和文庫 日本ブックエース発行、『夏の花』原民喜 集英社文庫、『ヒロシマ・ノート』大江健三郎 岩波新書
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2020年08月06日

ふたつの太陽_2020

1945年8月6日 8時15分

広島の青空に、摂氏12000度の“ふたつの太陽”があらわれた。

太陽の表面温度が6000度。

太陽、ふたつ分の狂気が人類の手によって解き放たれた。

そこにいた一人一人。そしてその人につながるすべての命を永遠に絶つ光と熱と風。

10万人の木谷真一がその日、亡くなった。

まずは光。

“千の太陽を集めたよう”と形容されるその光で一瞬に消え去った人、多数。コンクリートの建ものには人間の影だけが残った。

そのあとの高温の爆風で一瞬で燃え尽きた人、無数。爆心地周辺の地表の温度は摂氏4000度にも達した。

いまだに死者の数の誤差が、+−1万人といわれる所以である。

不幸にも生き延びてしまったひとは 火傷で全身を真っ黒に膨らませ 皮膚がベロベロにめくれ 腕が千切れ 腹が裂け 内臓がこぼれ落ち 目玉が飛び出る 

爆心地から離れていたひとには 無数にガラスの破片が突き刺さる

そして あちこちで次々と起こる火事 逃げようにも逃げるところがない 川に救いを求めてなだれ込む人々は 次から次へと溺れ死ぬ

竜巻が巻き起こり 人々は天高く舞い上げられ 地面に叩きつけられて死ぬ・・・

その瞬間、まるで巨大なフラッシュをたいたように目の前が真っ白になった。

真っ白なのだけれどそのふちは、赤や緑や紫やいろんな色が気味悪く縁取っていた。

と、耳をつんざくような音がして真一は吹き飛ばされた。耳が聴こえなくなって無音になった。ゆっくりと起き上がるとあたりは真っ暗で何も見えなかった。

耳のつかえがとれた瞬間に、人々の叫び声が聞こえてきた。

そばにいた子どもたちは吹き飛ばされて、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で死んでいた。

じぶんはどうなっているのか?顔を触ってみるがぶよぶよとしていて感覚がない。

あたりからはたちまち火が上がり、あちこちで火事が起こりはじめたので慌てて立ち上がり歩きはじめる。

切れた電線が垂れ下がりばちばちと火花をあげている。一頭の馬が燃えながら走っていく。カラスが燃えながらぴょんぴょんとはねていく。

血を流していないひとは1人もいない。

頭から、顔から、手から、裸のひとは胸から、背中から、腿から、どこからか血を流している。

皮膚がだらんと垂れて、両手を幽霊のように前に出して歩いているひとが大勢いる。

一糸まとわず、歩いているひとも大勢いる。

近くに爆弾でも落ちたのか・・・

なにが起こったのかまったくわからないまま、真一はとにかく丸さ呉服店を目指すのだった。

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『原爆投下直後』提供:広島平和記念資料館/撮影:米軍

参照・引用:『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫、『父と暮らせば』井上ひさし 新潮文庫、『ヒロシマを世界に』広島平和記念資料館編、『原爆詩集』峠三吉 平和文庫 日本ブックエース発行、『夏の花』原民喜 集英社文庫、『ヒロシマ・ノート』大江健三郎 岩波新書
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2020年08月05日

いつもの朝

1945年8月6日、7時半頃。

木谷真一は毎朝の日課である、護国神社へのお参りをすませた。

今日はお手伝いのひとが2人来てくれる。そろそろ残務整理も終わり、すっかりと片付いてきていた。

一週間後には、淡路島へと旅立ち家族に会えるのだ。広島を離れるのは寂しいが、家族に会えるのはやはり嬉しい。

少し気分が明るくなった真一は、始業時間の9時まで散歩をすることにした。手に入るものなどないに等しいが、淡路にはないものをお土産にしてやろう。何がいいだろうか。

孫の陽子が好きなみかんの缶詰めが手に入ればなあ。そんなことを考えながら相生橋の上へと入った。

相生橋は本川と元安川をまたいでかかる、まるで猿股のような橋である。

「アメリカならあ、さしずめ“ T ”じゃ。T-backじゃ」戦争がはじまるまで、外国語大学で英語を専攻していた真一は、そう思いひとりほくそ笑んだ。

「まあ、ええか」

戦争で一切の財産も何もかも失いつつある。しかし、人生もこの川のようなもの。流れていって海へとかえり、終わる。それでいいのかもしれない。流れにただ身を任せれば・・・

ゆっくりと雄大にうねっていく元安川の流れを、橋の上から欄干に手をつき飽きるともなく惚れ惚れと見ていた。

ここ広島は水の都である。太田川は、よこがわの北側で六つの支流に別れる。

満々と水をたたえ休むことなく流れつづける六つの川。ぼんやりと川面を見ていたが、蝉の声で「はっ」と我にかえる。

「もう8時か」

そろそろ店に帰って用意をはじめるか。懐中時計で時間を確認するとそう考えた。お洒落好きな真一は呉服屋にもかかわらず、普段は洋装で通していた。

中洲から木橋を渡り、広島県産業奨励館を右に見ながら歩きつづける。

幟町のおせんていまで来たときだった。盛大に鳴く蝉の声に混ざって、かすかに飛行機の飛ぶ音が聞こえた気がした。

雲ひとつない夏の空を見上げる。

三機のB29が飛んでいるのが目に入った。爆撃にしては結構、高度が高かった。「偵察か」呟いたときだった。

「あっ、何か落とした!」そばにいた子どもたちが口々に叫んだ。

キラリと光るものが落ちてくるのが見える。

「パラシュートか?」真一はそんなふうに思った。

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「とにかくお洒落さんだったのよ」次女の直子さんはそう回想する。
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2020年08月04日

木谷真一、70歳

今年も、わたくしの曽祖父・木谷真一の命日が近づいてきています。

木谷家は広島市内で呉服屋を営んでいた。

木谷家四代・木谷實平が大成功。大阪、北海道、広島に店を出していた。

広島では市内の横町付近にて、真一が『丸佐呉服店』を任されていた。商売は戦争がはじまるまで順調で、結構手広くやっていたと聞く。

当時の広島は静かな城下町で川が豊かに流れる、ほんとうに住み心地の良い町だった。東京や大阪が大空襲を受けるなか、何故か広島だけは大した空襲はなかった。

しかし長女正子の婿、真裕が「軍港のある広島は危ないから早く淡路へ来るように」という手紙を淡路島に住む甥からうけとり、躊躇を感じながらも移住を決断。

真一の妻文子と長女正子、長男三郎、次男俊夫、次女の直子は、真裕の生まれ故郷である淡路島洲本へと残務整理のため残る真一を残し、1945年3月下旬にさきに引っ越していた。

家族の出発のとき、長いあいだ親しくつきあったひとたちが大勢、お別れを惜しんで広島駅まで見送ってくれた。

あのひとたちは、皆んな8月6日に亡くなるのだった・・・

その日、木谷真一は早朝の空襲警報で目が覚めた。いつものように空襲はない。

「またか」布団の中でそう思う。

最近誤報が多い。敗けつづきで軍部も混乱しているのだろう。目が覚めてしまい、しばらく布団の中で輾転としたが、もう夢の中へと戻ることはできなかった。

仕方なく起きるとメガネをかけて、灯火管制の黒幕を開ける。外は薄日が差しているがまだ太陽は照りつけていない。朝曇りのカンパチというが、今日はそうなりそうだ。

トイレに行き用を足そうとして、朝勃ちしていることに気づいた。

「おや?どうしたというのだ、マイリトルボーイよ」

トイレからでて洗面所で顔を洗い歯を磨いた。誰もいない家はガランとして急に老け込んでしまったようである。

台所へ行き簡単に朝ごはんを用意する。昨日の夜にお手伝いさんが作ってくれた残りものを、そのまま食べた。

「男のひとり暮らしは、何かと不便でいけんのう」

そう思いながら寝室へと戻り浴衣を脱ぐとシャツとズボンに着替えて玄関へといき、帽子をかぶりステッキを持って日課である護国神社へのお参りに出かけた。

道中、やはり雲間から太陽があらわれはじめた。

蝉はまだ鳴いていないし、それほどは暑くない。人もまばらである。

お参りを終え、護国神社を7時半に出る。

始業の9時までにはまだ間があった。

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『木谷家家族写真』1935年頃、市内の写真館にて。後列左より正子、真一、三郎。前列左より直子、文子、俊夫。次女・直子さんだけが、まだご存命である。
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2020年08月03日

7月場所、14日目、千秋楽

大相撲7月場所、14日目。

13連敗していた阿武咲がようやく勝ちました。

館内からの拍手がいっそう大きかった。長かったトンネルを抜けられて良かったなあ。

さて、前日の勝ちで照ノ富士の復活が俄然話題になってきていましたが、惜しくも関脇正代に敗れて2敗と後退。

関脇、御嶽海は負けずに11勝。

13日目結びの一番、身長169センチの小兵力士の照強は立ち合い一髪、見事な足取りで188センチの朝乃山を土俵にひっくり返した。

照ノ富士と同じ部屋の照強は、兄弟子を援護射撃しようと前の晩から考えて狙っていたそうです。からだが大きいからとかならず勝てるわけではない。柔よく剛を制すではないけれど、間や気のものなんだろうな。

相撲というのは、ほんとうに面白いものです。

これで2敗の照ノ富士がふたたび単独トップで千秋楽に、3敗の御嶽海と勝負。朝乃山は正代と3敗同士の対決。

照ノ富士が勝てばその瞬間に優勝だが、敗れた場合は照ノ富士と御嶽海、そして朝乃山と正代の勝者が3敗で並ぶ。その3人でのともえ戦という優勝決定戦となるのです。そうなったらおもしろいなあ。

皆んなが虎視眈々と賜杯を狙っています。

観てるだけの気楽な身としてはもつれて欲しいですが、どうなるか・・・

そして千秋楽。

今場所は本来ならば名古屋でおこなわれる予定でしたが、感染のリスクを減らすために東京でおこなわれています。

観客席も枡席にひとりとあいだをあけています。けれどもマスク着用がルールのようなので、本来ならば間隔はあけなくてもいいはず。

飛沫のことを考えて人と人のあいだをあけるということだったのが、形骸化してきてとにかくあいだをあけるということになってきてしまっている。困ったなあ。

それはさておき、取り組みです。

前頭17枚目の照ノ富士と関脇、御嶽海の勝負は照ノ富士が寄り切って5年ぶりの復活優勝でした。

大関から陥落した力士の優勝は魁傑以来、44年ぶりだとか。一度は相撲の世界のいちばん下、序二段まで落ちていたがそこから這い上がってきた。

ともえ戦を観れずに残念・・・まあ、でもみんなの応援があと押しした感じか。

朝乃山は正代に勝ってなんとか大関の面目を保ちました。2横綱にもう1人の大関も休んでしまい新大関には荷が重かったと、元横綱北勝海の八角理事長が心中を察していた。

「つづけてきて良かったです。色んなことがあったけど、笑える日が来ると信じてました。」

そう照ノ富士はインタビューに答えていた。

じぶんもこの『ブログ?』をやめずになんとかつづけます。

そのうちいいことがあるでしょう。

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『おめでとう』
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2020年08月02日

なぜ8月だったのか

8月に入りました。

新聞では、そろそろ“8月ジャーナリズム”がはじまっています。

8月は、広島への原爆投下と長崎への原爆投下、そして終戦が重なっていて戦争の話題が集中するのでそう言われるのです。

いまから75年前、1945年8月のアメリカ。

日本への人類史上初の原爆実戦投下で、21万人以上が亡くなるとアメリカ国内では推計されていた。

多忙を極めていたアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンは、そのことについて議論をしたり日本国民に思いを巡らせたりするどころではなかった。

そして「原爆の威力が隅々まで行き渡る、市民が暮らす都市部に原爆を落としたい。」という科学者たちの、知的好奇心をトルーマンは止めきれていなかった。

22億ドルがかかった兵器の責任者としてアメリカ国民に効果を証明しなければならないレスリー・グローヴス将軍は、もちろんそれに賛成していた。

グローヴスは、日本に原爆を大量投下することを計画していた。その数なんと17発。

東京も、もちろん投下目標になっていた。

「いや原爆を落とす場所は軍事施設に限り、決して女性や子どもをターゲットにしてはならない。」

トルーマンは、当時の日記にそう書き記している。

グローヴスは、人口が密集していて殺傷できる人数が多く効果が大きい京都へも原爆を落とすのがいちばんだと主張、京都駅も目標地点に選ばれていた。

しかし有識者や知識人のあいだから「アメリカがヒットラーを凌ぐほどの残虐行為をしてしまう。」「無差別爆撃にあたるのではないか。」と懸念の声があがっていた。

同時に親日派の軍人、ヘンリー・スティムソンが京都への原爆投下に反対していた。

戦後の世論への配慮など議論が重ねられ紆余曲折を経て、人類がはじめて核を解き放つ場所に選ばれたのは広島だった。

「2発目以降は準備が出来次第投下せよ」とのグローヴスの命令があったとされている。

そこからグローヴスの計画では、17都市への連続原爆実戦投下が予定されていた。

原子爆弾の大量投下で日本を壊滅させてそのあと本土へと上陸、火炎放射器や毒ガスやサリンをつかい生き残った人間も全滅させて無血占領するのがアメリカ軍の計画だった。

その名も“オリンピック作戦”と名付けられていた。

それにしても何故、8月だったのか。

気象学者の「8月は統計的に晴れの日が多い」という意見があったので、その意見に従ったのだそうです。

そんな学者の提言で真夏という残酷な季節が選ばれた。

原爆投下後の炎天下の腐乱腐臭地獄、大量のウジやハエの発生はそんな学者の一言で決まってしまったのです。

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『夏の花、文庫版スケッチ』

参照:2019年1月6日『原爆投下知られざる作戦を追う』NHK
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2020年08月01日

7月場所、13日目

お相撲さんの四股名が興味深いです。

十両の朝弁慶の名前が変わっていて可笑しい。

アサベンケイって、朝だけ強いみたい。ウチベンケイは家の中でだけで強いひとのこと、ソトベンケイは家の外だけで強い。

トビザルとアクアってのもどんな力士か見たことはないけれど変わった名前。チュラノウミはぜったいに沖縄出身だな。把瑠都なんていうひねりのない四股名の力士もいたな。バルト海出身だからバルト。

それはさておき、大相撲7月場所13日目。

西の関脇、正代は横綱白鵬の休場により不戦勝で10勝、ラッキー。東の関脇、御嶽海も10勝して大関昇進の起点になる関脇での2桁勝利です。

そして、朝乃山と照ノ富士の新旧大関、1敗同士の直接対決は、なんと幕内最下位の照ノ富士が勝利。

番付がはるかに上の大関、朝乃山は屈辱的なダメ押しまでされて敗れてしまいました。相手が土俵から出ているのにさらに押す行為で、久しぶりにみました。

ダメ押しは相手に怪我を負わせることもあるし危険なので、大相撲ではよくないこととされて非難の対象となるのです。引退した朝青龍や白鵬もダメ押しで非難をされていた。

白鵬はじぶんが大相撲を観ていない時期に、横綱の品格ということをしきりに言われていました。懸賞金のもらいかた、ダメ押しにカチ上げにヒジ打ち。勝負だわらを踏みつけるなんてのもあった。

結界である勝負だわらは神聖なもの、踏まずにまたがねばならないそうです。そういうことを教えてもらえなかった不幸もあると思います。

相撲も格闘技、言ってみれば喧嘩みたいなもの。めっぽう気が強く喧嘩っぱやくて荒っぽいくらいでないとやっていけないところもある。

そうして、古代の相撲ではダメ押しは好ましくない行為ではなかったようです。

日本書紀に残る、ノミノスクネとタイマノケハヤによっておこなわれた天覧相撲の記述によれば、スクネは倒したケハヤに踏み付けのダメ押しをおこない、ケハヤの腰骨を踏み折って殺害する。

この勝負の結果、スクネは所領を得て垂仁天皇への仕官がかなったそうです。

ちなみに、このノミノスクネとタイマノケハヤの力比べが国技相撲の発祥とされるそうです。大相撲のそもそもの発祥が殺し合いだったのだな。

荒っぽくて当然です。

そういう意味で見れば、照ノ富士に比べると朝乃山は甘さがあったかもしれません。

さあ大相撲はいよいよ大詰め、あと2日。

1敗の照ノ富士が先頭をはしって、それを2敗で朝乃山が追う展開です。

どうなるか。

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『野見宿禰と當麻蹶速』

参照:奈良県葛城市ウェブサイト『相撲発祥と當麻蹶速』
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2020年07月31日

7月場所、12日目

大相撲7月場所がはじまって12日たちました。

10日目に応援している新大関、朝乃山に土がついてしまいがっくり落胆。

関脇の御嶽海に上手投げで負けてしまった。土俵際で焦ってしまったとかで、まだまだ安定してないのか。

取組後、カメラで顔を抜かれていたが、反省しきりで呆然とうなだれてしまっていたのがおかしかった。

いままでは決して負けられないという緊張感があったけれど、言ってみれば大関になっての記念すべき1敗。スキーでもスケートでも1度転ぶと気が楽になるもの。

気楽になったのか、11日目は連敗はせずに勝って優勝へとのぞみをつないだ。朝乃山は型があるので連敗はしないそうです。そうして12日目も完勝。

横綱、白鵬は10日目までまったく危なげなく全勝で絶好調。危なげなさすぎて嫌になる、また優勝か。大相撲を観なくなったのは、白鵬ばかりが優勝するようになったからです。

つまらないなあ。もう観るのはやめようかと思わせる強さ。

と思っていたら11日目に小結、大栄翔に押し出されて初黒星で1敗、12日目に関脇、御嶽海に突き落としで敗れてなんと2敗。わからないものです。

そうして土俵から落ちたときに足を痛めたようで今日から休場か・・・残念。朝乃山と対決して欲しかった。朝乃山は大横綱、白鵬に勝って優勝してこそ本物です。

すみません、偉そうに。

前頭2枚目の押し相撲力士、バカボンみたいな顔をした阿武咲が絶不調でいまのところ12戦全敗。なにをやっても勝てない感じで観ていて気の毒になる。

このコロナ騒ぎで、ほかの部屋への出稽古がまったく出来なかった。押し相撲の力士は稽古で調子を上げていくそうなので、不利だったらしい。まあ、それも運のうちか。

カド番だった大関、貴景勝はなんとか勝ち越し。大関陥落を逃れ休場、じつはヒザが痛くて相撲がとれる状態ではなかったとか。

2敗だった関脇、正代は3敗で後退。おなじく2敗だった関脇、御嶽海も3敗で後退。

優勝争いは、1敗の朝乃山と平幕の照ノ富士に絞られてきつつある。

照ノ富士はもともと大関だったが、怪我と病気で幕下まで落ちてしまっていて引退も考えていたという。けれども、今場所2年半ぶりに幕内へと戻ってきていた。

優勝経験もある実力派でまだまだ28歳、ちからがあります。

そうして今日は朝乃山と照ノ富士の新旧大関の直接対決。

見ものです。

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『照ノ富士春雄』
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2020年07月30日

1945年7月

今年も、もうすぐ8月です。

それとともに曽祖父、戸籍上は祖父ですが、木谷真一の命日が近づいて来ています。

1945年7月、広島は大きな空襲もなく穏やかな日常が流れていた。

全国的に梅雨が長引き肌寒い日がつづいている

広島市横町の『丸佐呉服店』では閉店の準備がちゃくちゃくと進んでいて真一は、残務整理や片付けをつづけている。

丸佐呉服店は、淡路島の五色町都志出身である真一の兄・木谷實平(きだにじつへい)が立ち上げた呉服屋で、往時は数十人の丁稚や番頭が働く大店であった。

實平は大阪、北海道、広島に店を出して大成功していた。全国を忙しく飛びまわる實平に代わって広島の店は真一に任せられている。

しかし戦争で規模がどんどん縮小し、とうとう広島の店も閉めることになった。

物資が極度に不足し呉服など着るひとは、もう軍部のお偉いさんの奥方などしかいない。

広島の店も開店休業のような状態がずっとつづいている。

家族はすこし前に、真一の故郷である淡路島へと疎開をした。広島駅で別れを惜しんだが、店の片付けが終われば彼も家族の待つ淡路へと帰れるのだ。

鬱陶しい雨が降りつづきやりきれない気持ちになるが、家族のことを思うと少し気分が晴れた。

ここ広島は七つの川が豊かに流れる城下町で、いまは軍都として人が沢山働いている。

物がなく貧しい毎日だが空襲がない広島では、それ以外は戦前とあまり変わらない日常が流れている。

ふと、戦時中だということを忘れてしまうような瞬間もあった。

しかし市内では労働力の不足を補うために全国から学徒の動員がつづいていた。これによって8月6日に約7200人の学生たちが犠牲になるのだった。

日本軍は本土および本土近海にて制空権・制海権を失い、日本近海に迫るようになった連合軍艦艇に対して特攻機による攻撃が残された手段となっている。

同じ頃、太平洋のテニアン島のハゴイ基地では科学者たちが原子力爆弾“リトルボーイ”が、サンフランシスコから船で到着するのをいまかいまかと待っている。

いっぽうポツダムでは米英支三国共同宣言の用意がすすみ、日本への無条件降伏の勧告と天皇制を戦後利用できるかの議論がつづいていた。

運命の歯車はゆっくりとうごきつづけていたのだった。

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『燃える』

参照:バイオウェザーサービス『異常気象を追う』| ヒロシマ平和メディアセンター『学徒動員』| Wikipedia.
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2020年07月29日

高価なおもちゃ

娘が図書館で借りてきた本を読みました。

東野圭吾著『天空の蜂』

盗んだ大型ヘリコプターで高速増殖原型炉に突っ込むと政府を脅迫するお話。

さすがは東野圭吾さん、荒唐無稽だけどありそうな物語に仕立てていた。そうしていろいろと原発について勉強になりました。

高速増殖炉のほかの原子炉との大きなちがいは燃料だそうです。一般の原子炉ではウラン235がつかわれる。

ウラン235は天然ウランのなかに0.7%しかふくまれていない。今後、必要量が確保できる保証がなくて、あと75年ほどで枯渇すると科学技術庁で試算されているとか。

莫大な税金をつかって多くの犠牲をだしてまで全国につくったものが、あと75年しかもたないのか・・・

高速増殖炉では燃料にプルトニウム239がつかわれる。

天然ウランの残りの99.3%は役に立たない物質だが、その物質が中性子を吸収したときに変化するのがプルトニウム239なのだそうです。

増殖炉とは燃料を燃やすと同時に、燃料を得ようとすることでまるで魔法のように燃料が増えつづける。科学技術庁の計算では、この方式をつかえば数千年は原子炉燃料に困らないはずだった。

“夢の原子炉”と呼ばれていた、高速増殖炉『もんじゅ』

1985年の着工から1兆円を超す税金が投じられ1994年にはじめて臨界に達したが、そこから今日まで実際に発電していた期間は延べ4カ月くらい。

事故でずっと止まっていて2010年にいったん再開したものの、わずか3カ月後にはまたトラブルを起こし、ずーっと止まっていた。

運転していなくても、1日に5500万円もの維持費がかかっていたので、展望もないのにつづけることができなくなった政府は廃炉を検討。

そうして2016年12月に廃炉が正式に決定した。

国を挙げて力を入れていたにもかかわらず、結果的にほとんど稼働しなかったのはなぜか。

「最大の理由は、やはり技術的な難しさですね。何が難しいかといえば、まず、高速の中性子を使うこと。

名称に“高速”とつくのはそのためなのですが、燃料が増殖するのは中性子が高速でぶつかって核分裂したときだけなので、高速増殖炉では中性子を減速させません。

エネルギーが強いためコントロールしにくく、暴走を招きやすいのです。」そう原子力資料情報室共同代表の伴英幸さんは語る。

もんじゅが廃炉になり、使用済み燃料から取り出したプルトニウムの利用先がなくなった。

そうして、1993年から約2兆9,500億円の費用をかけて、青森県六ケ所村に建設中の核燃料再処理工場も存在理由がなくなったのだそうです・・・

小説では国家権力に蜂のようなひと刺しを犯人は目論むが、犯行は失敗してしまう。

最後の脅迫状が届く。

「子どもは刺されてはじめて蜂の恐ろしさを知る。今度のことが教訓となることを祈る。」

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『ヘリコワスキー』

参照・引用:『天空の蜂』著者:東野圭吾 発行:講談社 | 生協パルシステムの情報メディア『KOKOKARA』
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2020年07月28日

寛斎さんのおもいで

山本寛斎さんが7月21日に亡くなられました。

76歳、このいまの高齢化時代ならばまだ若いのか。

コシノジュンコさんに師事。衣装を瞬時に変える歌舞伎の早わざ“引き抜き”を取り入れて、27歳のときにロンドンのファッションショーを成功させて有名になったそうです。

朝一番で「がんばるぞー!」言うて山に叫ぶと噂を聞いたな。とにかく元気でパワフルで情熱的。

師匠の麿赤兒が一度、寛斎さん主催のイベントに出演していた。有名人がたくさん出る『スーパーショー』とかいう派手なイベントだった。

そのイベントドキュメンタリーのなかでの寛斎さんの発言が麿さんの逆鱗に触れたようで、大激怒。

師匠は、ふだんは好々爺然としているけれど、ひとたび火がつくとなかなか止められないのです。

台湾のバスの中で激怒した麿さんが下駄を振り上げて走ってきたときはもうダメだと目をつぶって観念したけれど、いちばん年長の浅田さんが麿さんを前から抱きとめて制してくれて感動した。

これは大切でその後、板橋の稽古場で麿さんが激怒したときに誰かがうしろから止めて「うしろから止められたらわしが悪いみたいだろ!」と背負い投げで床に叩きつけられてた。

麿さんが激怒したあと、寛斎さんからのイベント出演の依頼が大駱駝艦へとやってきた。たぶん麿さんは出演を断ったんだな。

代わりなのかどうかは知らなかったが、出演することになった兄弟子の村松卓矢とじぶんとで打ち合わせにいった。

寛斎さんは、異様なオーラで全身からエネルギーとパワーが溢れでていて対面しているとひとを威圧する迫力があった。

緊張気味に神妙に打ち合わせしていたら「なんか手応えがないんだよなあ・・・なにかこうアイデアを出すとかできないのかな。」とあきらかに不満そうに寛斎さんが眼光鋭く投げかけてきた。

天邪鬼で、言われたからなにか喋るみたいなことが嫌な村松は黙っていた。

じぶんは寛斎さんのことばに焦ったけれど、話しを聞きながら思っていたことを喋ったら「そうそう、そういうことが聞きたいんだよ。」と寛斎さんは喜んでくれた。

本番はどこだったか忘れたけれど大きなホールで1000人の観客が見つめる中、出演者は村松とじぶんの2人で凄まじい緊張感のなかだだっ広いステージで踊ったのを覚えている。

またそういうときに限ってさらに危なくて緊張するような踊りを村松がやろうというけれど、こちらも挑戦したいというこころが常にあるので受けてたったのだった。

そのあと山本寛斎さんには、二度と会う機会はなかった。

どんなに活躍していたひとにも差別することなくやってくる“死”というもの。

人間にとって唯一、平等かもしれない死の訪れなのでした。

合掌。

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『Kansai Ymamoto's small plate』
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2020年07月27日

帰りたい、帰れない

家のことや庭のことが気にかかるので、そろそろ都志へと帰ろうか。

そんなふうに考えていたらワイフに猛反対されました。

「いまではない。やめとき。」いやでも庭の雑草が・・・「そんなんなんとでもなるやろ。」

いやでも自分の家やから・・・「絶対にやめとき。病原菌撒き散らして、迷惑やで。おじいちゃんおばあちゃんにうつしたらどうすんの?」

いや誰とも喋らんしマスクして、アルコールで消毒してどこにも触らんかったら大丈夫やろ。

「おるだけでうつるねんで。そうじゃなかったらこんだけ感染者がふえるわけないやろ、アホちゃう。なんでわからんねんやろ、はあ。」

「くそーーー!」

娘が上手に仲裁に入ってくれてありがとう。

とにかくじふんの家にかえりたい。願いはただそれだけなのだけど、叶わない。

状況がどうしても許さない。悔しい、残念、無念、どうしようもない気持ちを抱えて生きていくしかないのか・・・

アウシュビッツに入れられてじぶんの家に帰れなかったひとたちや、福島のじぶんの家にかえれないひとたちもこんな気持ちなんだろうか・・・もっと切実か。

仕方なく諦めて、こころだけでも家に帰ることにします。

品川から新幹線で約2時間半、車内はまあまあの混み具合。新神戸から神戸三宮まで地下鉄ですぐ。

三宮からは高速バスで約1時間半。バスに乗ったらほっとひと息、ぼんやり外を眺めます。

神戸から明石大橋を渡ると、とたんに緑が豊かになって風景がいっぺんします。橋の下を船がゆっくりとすべっていく。

淡路島に入ったら海沿いの道を走ります。懐かしい瀬戸内海、播磨灘のどこまでも穏やかでキラキラと輝く美しい海。そして青い空。雲はひくく走っていく。

岬をいくつか通り過ぎて風車が見えてきたら、もうすぐ都志です。

バス停から歩いて3分、久しぶりに見る二階建てのぼろ家が見えてきます。

雑草の生えまくっている玄関いりぐちを見ながらスロープを上がります。「一刻も早く雑草を抜かねばな。綺麗好きだった祖母が悲しんでいるぞ。」

玄関のドアを開けると、家のすこしかび臭いような懐かしい匂いで帰ってきたのだな。と実感する。「ただいま帰りました。」

電気のブレーカーをあげると、止まっていた家の中の時間がうごきはじめます。

家中の雨戸をあけると家の中が深呼吸をはじめる。どんどん家の中の空気が入れ替わっていくのがわかる。

庭へでると蜘蛛の巣に何度も引っかかり「すまんなあ」こころで謝ります。せっかく苦心してつくった蜘蛛の巣を破壊して申し訳ない気持ちになる。

いちめん雑草がおいしげっていて気が遠くなる。でも除草剤という猛毒をつかって虐殺するようなことはしません。すべて手で引っこ抜きます。

プルーンがなっていたので早速もいで頂きます。

さあ、では玄関前の雑草から抜くとするか・・・

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『模写をアレンジ 2020.7.28』
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2020年07月26日

7月場所中盤

大相撲7月場所が観客をいれておこなわれています。

枡席にひとりずつで、豪勢な感じです。

声援は自粛で拍手のみだそうです。いつもよりは静かですが、前回の無観客よりは格段にほっとします。前回は緊張感がもの凄くて館内が異様な雰囲気につつまれて、観ていても息がつまりそうだった。

前半戦が終わってこれから中盤戦。

応援している新大関、朝乃山が7連勝しています。けれどもまだまだ観ていてどきどきする。なぜだろうと考えていたのですが、なんだか気の弱そうな表情でじぶんと闘っているような感じがするからか。

しかしこころは強いようです。

立会いでハリ手やカチ上げなんていうことをやらずに正攻法でいくので、相手は思い切ってぶちかませるそうです。押し込まれてひやっとすることもある。

けれども7連勝してだいぶん落ち着いてきました。大関としての貫禄も出てきているように思います。地位がひとを育てるということがあるのでしょう。

いっぽう大関、貴景勝はカド番の今場所も苦しんでいます。親方の貴乃花がやめてしまって部屋を移ったり土俵以外でゴタゴタしていて不運なイメージです。しかしまだ23歳、これからです。

横綱白鵬も7連勝、あぶなげない横綱相撲がつづいています。

あぶなげなさすぎて観ていて嫌になってきます。今場所はいつにもまして立会いが厳しい。そして戦績を新聞で見ておどろきました。1073勝195敗でまだまだ勝ちを伸ばしつづけている。ほかの力士に比べて負けが圧倒的に少ない。

とにかく負けない。負けないために休場したりハリ手やカチ上げも繰り出すが、日々の鍛錬がとにかく凄まじいそうです

相撲を観ているとやっぱりセンスなんだなあ。と思います。体格は白鵬と変わらない力士がたくさんいるけれど、あっけなく負けてしまう。巻き返したりいなしたり、手や足の細かいからだのつかいかたが勝敗をわけるのです。

先日の解説は大好きな北の富士親方。つぶやき的な解説がとにかく楽しいのです。辛口だからおもしろいのだろうな。

優勝を目指しているという北勝富士に対しては「そうなこと言うんだったらもっと稽古しなきゃだめだな。」

調子のいい正代に対しては「顔もきりっとしてきたよ」「いままでのんびりしすぎたんだよ。」

若いという貴景勝に対しては「若い若いと言ってもあっという間ですよ。」とつぶやく。

西の関脇、御嶽海も全勝。

関脇が活躍する場所はおもしろくなるそうです。

これからどうなるか、中盤から後半戦へと突入です。

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『賜杯はだれに』
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2020年07月25日

バーチャルいろいろ

まだまだ日本の外へとでられないような状況のなか、過去の海外旅行を思い出しています。

さらに、どこにもいけないこんなときはGoogle mapのストリートビューで「バーチャル旅気分をあじわう」のもいいものです・・・

なんて記しながらじつは、まったく物足りないのだけど。

Google mapでは、ジャジューカ村へはいくことはできなかった。最寄りの駅にもいけず、なぜか駅前のめがね屋の中だけにいけた。なんだろう?

ストリートビューならば、通常ならば入れないようなところの映像も観れるそうです。

実際には広島の原爆ドームのなかは入れませんが、ストリートビューならばなかへ入れる。Googleが入ることを許したのか、やるな広島市。

むかしは原爆ドームのなかへ入れたと広島出身の照明家、森島都絵さんが言ってたな。廃墟のようなドームの中から見上げる青空がとっても美しかったとか。

いまは崩壊の危険性があるのか入ることはできません。そとから眺めるだけです。残念。

さて今年は、いろんな慰霊の式典が中止や自粛や規模縮小になるようです。

広島で8月6日にある平和式典も出席する遺族代表の数が21人と過去最少になるとか。いっぽう過去2番目に多い、93カ国の駐日大使が参加する予定。

75年という節目であることが大きな要因だそうです。

2017年にノーベル平和賞を受賞した国際NGP『核兵器廃絶国際キャンペーン』が7月22日に広島平和記念資料館で、24日に長崎原爆資料館でのオンラインツアーを試みました。

ウィルスの世界的な感染拡大で、国境を越えた移動が大幅に制限されるなか核兵器廃絶への機運を高めたいと、館内をガイドが歩き被爆者の遺品などを英語で紹介する様子をライブ配信した。

海外から被爆地の広島や長崎を訪れるのが困難なおもに若者に向けてインスタグラムで配信した・・・残念ながらインスタグラムをやめてしまったので観ることはできなかった。

オンラインはまずはインターネット環境がないとどうしようもない。そうしてパソコンやスマートフォンなどの端末機器がないと見ることができない。端末があってもアプリケーションが入ってないと見れなかったりする。

今回のように会員制のSNSに加入していないと見れないなんてこともある。どうしても限界があるオンラインというもの・・・そんなことを言っていては前にすすまないな。

戦後75年たって戦争経験者の方々が高齢化していくなか、語り部のイベントも自粛やオンラインになってしまっている。

けれどもピンチはチャンスだ。

この機会に語り部の方々の貴重な体験談をオンラインで記録して、どんどんアーカイブ化していけばいいですね。

はやくも7月、うかうかしていたらもうすぐ8月。

ヒロシマ、ナガサキの足音がどんどん近づいてきています。

スクリーンショット 2020-06-03 11.59.48.png
『原爆ドーム内部』by Google map street view.

参照:2020年7月11日、21日 朝日新聞
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2020年07月24日

ひとごとではない

先日、ワイフが観ているワイドショーを横目で観ていたら、劇場で集団感染したと騒いでいました。

まるで鬼の首でも取ったみたいに司会者のコメディアンが、クチビルをとがらせながらまくし立てていた。

「また劇場は自粛させられてしまうのか・・・」と暗い気分になった。

司会者は正義感を満たされていい気分かもしれないけれどもあの番組を観ていた何万人かによる、誹謗中傷も起こりかねないのです。

無責任な正義感を振りかざすのは、やめて欲しいと思いました。

事実としては主催者のずさんな管理があったと言われているけれど、どんなずさんなことがおこなわれていたのかはよくわからなかった。

そのときはわからなかったけれど、だんだんとシアターモリエールでの主催者のずさんさが表面化してきています。

舞台と観客席の間隔をあけていなかった。そして終演後に握手するなどしていた。さらに発熱している出演者が何人もいるのに、そのままにしていたとか・・・うーむ。

いろんな舞台人が怒っています。

「全舞台業界のプロフェッショナルたちが血を吐き、涙を流しながら、臍を噛む思いでここまで我慢して、踏ん張って、踏み留まって来たことがいま、水泡に帰したらどう責任を取ってくれるんだ。

『だからまだ観客を入れてのイヴェント、ライヴや舞台はやめておいた方がいいのではないか』という、至極ごもっともな意見が再燃して来る羽目となる我々の業界にとって他人事ではない甚大なるダメージを残してくれた」と歌舞伎俳優の尾上松緑さんがブログに記していた。

けれども、もしも鉄割アルバトロスケットが、この8月に公演をやっていたら同じことになっていたかもしれない。

感染症対策とか徹底できなさそうだものなあ。

そうして誰かが発熱しても急には代役がきかないのが、お芝居のむずかしいところなのです。

いちど中島弟が本番前に統合失調が発症してしまい楽屋で「天井が目の前に・・・」いうて寝たきりになったときは、みんなが協力して難を乗り切った。

けれども、あれが戌井君や奥村君だったら代役はきかなかったかもしれない。

強行して感染者が出ていろんなところからバッシングされて、吊るし上げにあう。毎日、家にワイドショーのレポーターがやってきてインターホンを鳴らしつづける。

「全国のかたが情報を知りたがっているんですよ。本当のことを話してください!」

感染することよりも、そちらのほうが怖ろしいのです。

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『ピカソにらくがき』

引用:2020.07.12 『尾上松緑、藤間勘右衞門の日記』
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2020年07月23日

ダンストラック、キャンセル

今日は八丈島にて公演の予定でした。

演目はダンストラック。トラックの荷台で踊るという企画です。

トラックの荷台で踊るというとへんな感じですが、トラックの荷台のなかで踊って、うしろから観客が観るのです。

荷台の横をあけてなにかすると、とたんにほのぼのとしたイベントショウっぽくなりますが、うしろから観るスタイルだとなんだか硬質でかっこよく見えるので不思議です。まるで棺桶のなかで踊っているような感じ。

アメリカはデトロイトが発祥だそうです。

トラックなのでどこへでもいけてどこでもステージになるというのが売りです。八丈島にも舞踏をお届けできそうだったのに残念です。

中止ではなく延期なのがせめてもの救い、つぎの機会を愉しみに待ちます。

ダンストラックの会場となるはずだった八丈島と伊豆・小笠原諸島の9町村もGo to トラベルの対象除外です。感染者は御蔵島で1人出ているだけなのにです。

夏には多くの観光客が訪れる伊豆大島。あるホテルは今月24日から26日の4連休はすべて予約でうまり、久しぶりに明るい兆しも見えてきていた。

それが、東京都除外と発表されてからキャンセルが相次ぐようになったという。

キャンセル料をさらに税金で補償するというが、キャンセルが東京除外のせいなのかいちいち確認せねばならずたいへんな作業になるそうです。旅行会社のひとびとも、国で窓口をつくってやってくれとうんざりしています。

そんな二転三転四転して大混乱しつづける“Go to トラベル”がはじまりました。

7月18日におこなわれた毎日新聞と社会調査研究センターの全国世論調査で“Go to トラベル”について「東京以外も見送るべきだ」が69%に上った。

安倍内閣の支持率も32%で不支持は60%。

どうしてここまで反対され評判を下げてまで、政府は強行するのか?

国は「観光関連業会などからできるだけ早くという要望が強く寄せられた」と強調する。

ちまたでは『全国旅行業協会』の会長を務めている自民党の二階幹事長が命令したと疑われています。

いっぽう賛成の意見も少なくない。助かる人も実際にいるのでしょう。じぶんも“Go to ステージ”なんてのがはじまったら嬉しいかもしれない。

みんなが思っていていろんなひとが言うように、1兆3500億円という莫大な予算のほんの少しでも医療のほうへとまわし、被災地のかたがたの支援へとまわしたほうがいいことも明らか。 

どちらにしても、ほんとうに困っている方々にお金がまわることを祈っております。

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『DANCE TRUCK』@ YOKOHAMA, photo by bozzo.

参照:7月19日 毎日新聞
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