2018年05月31日

約束の空

ここが踏ん張りどころ。辞めるのは簡単、続けるのは困難。
問題なのは辞めてからどうするのか?当てがないのだから、いまはここに踏みとどまってバイトではなく、絵の方で頑張るしかない。目先の欲に惑わされるな。焦って結果を出そうとするな。

夏の日の夜 僕は犬になっていた
まぼろしの傷口を嘗める犬になっていた
何の疑いも知らず 夜の闇に紛れ
胸打ち鳴らしながら
ふるえる足で何かをかき集める

そんなトキトキした感じを
紛失してしまって
そのイメージと恐怖感だけが
ふいに立ち上がって 覚醒しはじめた

逃亡を計るために
窓を開け放ち
必死で飛び出してみたが
気づいてみると
ゾッとするほどあたたかい眠りの中で
漂流物になっていた

風は凪いでいる
漂えど沈まず
されど浮びあがらず

諦めて 目醒めようとしたが
それはすでに
現実の日常で

眼玉だけが白い雲に乗って
約束の空の中へと消えていった

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絵を続けるべきか?はたまた大駱駝艦に入るべきか?わたくしは決断を迫られていた。
posted by Mukai Kumotaro at 08:42| 日記

2018年05月30日

なまえ?

あっ、申し遅れました。わたくし、姓は向(むかい) 名は雲太郎(くもたろう)、人呼んで雲やんと申します。芸名です。

2018-05-11のブログ?でも書いたけど、二十歳の時、家を出るにあたって親からつけてもらった名前は、捨てようとその当時は、雅号として名乗りはじめた。お爺さんになってからも似合うようにつけた。

本名は、木谷 研治(きだに けんじ)で、旧姓は向井 研治で。ややこしくてすんません。

母の兄弟が女ばかりの五人姉妹で、名前を継ぐものがいない。と長女の次男であるわたくしに白羽の矢が立ち。母方の姓を継ぐために祖母の養子になり。なので戸籍上は“実の母が姉”で。これ“実の姉が母”だと近親相関の疑い。

名前というのは陰陽師的には、この世で一番短い呪文。名は体をあらわすではないけれど名付けるとそう成って行くところがある。

師匠の名前は麿 赤兒(まろ あかじ)
「麿は赤児じゃ。」

舞踏では赤ん坊の存在を先生とするところがあり。舞台上に赤ん坊をごろりと寝かせ、照明を当てればいい見世物になる。歌舞伎の荒事は赤ん坊の真似をしてる。

麿さんの言葉に「この世に生まれ入ったことこそを、大いなる才能とする。」というのがあり、土方さんに「何もしなくていい、もう既に神が演出をしてるのだから。」というのがあるけど同じことを言っている。

しかしこの何もしない。ありの儘。というのが難しい。

ちなみになまえの敬称のつけ方は、その人との関係とその人をどう思っているのか?が関係ある。呼び捨てにするのはその人への親しみが込もっている。しかし呼び捨てにするのには勇気がいる。そのタイミングもいままで君付で読んでたのに急に呼び捨てにするのは恥ずかしいし。


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鉄割アルバトロスケット、渡部真一。20年近く渡部君と呼んでたけど、去年ある瞬間から“わたべ”に。「やっと、呼び捨てにしてくれましたね。」と喜んでた。

そういえば喧嘩の滅法強い大駱駝艦の弟弟子・石川正虎が、ある時からわたくしのことを“雲太郎”と呼び捨てにしはじめたのだけど、徹底的に無視して許さなかった。許せなかったのか。まあ正虎も親しみを込めてたんだろうけど、いくら親しみを込められても後輩に呼び捨てにされるのは嫌だった。プライドだな。

そういえばわたくし、子どもの頃から“むーさん”とさん付けで呼ばれてた。

あっ、昨日鉄割の山内氏から電話があって、名前の話をしたのでブログ?でもしてみた。
posted by Mukai Kumotaro at 06:57| 日記

2018年05月29日

やんしゅう?

若衆と書いて“やんしゅう”と読ませる。パソコンで変換しても出てこないから“わかしゅう”と打ち込んで変換する。面倒臭い。

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若衆チラシ

若衆の主宰は鶴山欣也さん。大駱駝艦に入る前は宮城聡さんに師事してお芝居をやっていた。

らくだかんに入る人はだいたい4パターンぐらいに分かれていて、鶴山さんのようにお芝居をやっていた人。古川杏さん、若林淳、湯山大一郎なんかはこのパターン。そもそも麿さんがそうだから結構多いと思う。

女性は、踊りをやっていた人が多い。子どもの時からバレエをやっていた。というやつだな。踊りが上手な人が多くて、だいたい麿さんに一目置かれる。皆さん、大駱駝艦の華です。

あとは美術系。村松とわたくしがこれです。いま一番多いかもしれない。

そして、踊りも芝居も美術もあまり関係ない人。流れ流れて辿り着く。星野は、テレビで林英哲さんが太鼓叩いてたら、上から麿さんが落ちてきて。びっくりして感動して「この人の弟子になりたい!」と入った。とか言ってた。

透は「そんなの適当だよ。」

だいたいブラブラしてて縁があって入ってくるんだな。

鶴山さんは、当時大駱駝艦の番頭を自認してた。麿さんは認めてない。ところもあったようだけど。

そう若衆の稽古が進むにつれてメンバーの人間関係もよく見えるようになってきて。

鶴山さんは一人浮いてる感じで、いま考えるともう大駱駝艦をやめる寸前だった。あんまり誰もいうことを聞かない。星野は鶴山さんのことが嫌いだとかで出てなかった。及川君も出てなかった。

本番前に麿さんが、作品のチェックをする日があって、みるみる面白くなって行くのが驚きだった。

だいたい主宰の踊りというのは一番あと回しの状態で麿さんに見せることが多いので、そこが一番のツッコミポイントになるのだ。

鶴山さんもソロを一番稽古した。

どういう存在なのか?そこから紐解いてでは、どういうふうに存在すればいいのか?と考えて。

何をするのか?を考えて。最終的にブランコに乗ってた。

作品タイトルは『しゃみ』だったけど、鶴山さんが“しゃみ”という芸者だ。という設定になって。袖から「しゃみ!」「しゃみ!」言われて狂って行く、てな演出だったかな。そういうのも麿さんが考えてた。

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雲太郎デビュー、若衆公演『しゃみ』前からむかい、村松、若林、狸穴

なんとか、ソロもできて板橋から荷物を積み込んで、タイニーアリスで仕込み、本番をやって。

そういえば当時、らくだかんの車がエルフだったかな、板橋から新宿に行くあいだにドアが外れて。そのままドアがない状態で走ってたのが、地獄の黙示録のヘリみたいでかっこよかった。

若衆の公演が終わって。でもまだ大駱駝艦には入らないんだな。
posted by Mukai Kumotaro at 07:04| 日記

2018年05月28日

ほっとよが?

勉強のため、吉祥寺にあるホットヨガ体験にいってきた。

早めに出たのに紅梅堂で季節の和菓子を買ったり、鉄割の看板俳優・奥村勲君に七味と鳴門みかんを届けたり、素敵な骨董屋で金継ぎされた格好いい器を見たり吉ブラしてたら、ギリギリになってしまい。

遅刻したら入れてもらえなくて帰されるとかで、スタッフも大慌てでごめんなさい。念書を書き、着替えてスタジオに入ったらほとんど女性で四、五十人いて仰天した。

前情報で聞いてたイメージでは、四、五人でそのうち男性が一人だった。「やばっ、女性専用車でしたか?」てな感じで。しかも若い女性が多くておっさん恐縮。

そういえば奥村君が「50歳は、おじさんではなくておじいさん。」と言ってたな。

もう座れないのに無理やり入れてもらうみたいな感じで割り込ましてもらい。

慌ててたので、水を半分更衣室に忘れたのを思い出し。観察しようと眼鏡をかけてきたけど役に立たないことに気づき。「あーコンタクトをはめてくればよかった〜」とか思うけどまあいいか。

合掌してはじまった。発祥がインドだからスピリチュアル性が強い。ビギナーズヨガなのでゆっくりと優しく進み。1ポーズごとに休んで水を飲む。けど人のペースに合わせてからだを動かすのがかったるいというか、面倒臭いというか。教えを乞うときは何もかも忘れて受け容れねばならないことはわかっているのだけどよくないな。とか思いながらついていく。

だんだんと難しいポーズになって、熱いから汗がだらだら出て。もう二度と嫌だ。とか思いながら。

しかしホットヨガってよく考えたな。単なるヨガだとアスレチックなイメージが強いけど、汗をかいてデトックスする。という付加価値と謳い文句が女性にアピールするんだな。流行る理由がわかりました。アイデアだなあ。考えたのはアメリカ人か。

ヨガは自分で本を読んで勉強して20年ぐらい毎日やっている。いい師に出会えるかどうかが大事だと聞くけど師匠は麿さんだけでいいので習ったことはない。麿さんが「ヨガなんて、インド人が暇をもてあまして、こんなポーズ出来るぞ!俺はこんなポーズだ!とか言ってへんなポーズを競い合ったのが始まりだろ。」と言ってた。

日本では、国家試験の資格とかあるわけでもなく、各流派で免状を出してマスタークラスになっていって教えるとか。ブームだから指導者が量産され未熟なインストラクターが世に出て怪我をする人があとをたたないとか。

今回は、ビギナーズヨガだったので難しいポーズはやらなかったけれど「あーこれは無理するとアキレス腱切れるかもな。」てな姿勢もあった。最初に念書を書かせるので怪我しても問題にはならないのだろう。

からだとこころをからっぽにして、呼吸に意識を向ける。からだの内側に意識を向ける。旅のようにからだをうごかしてまた戻ってきて終わり。流れ的にはわたくしがやっているワークショップとほぼ同じだった。

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最初にインストラクターが「ヨガは人に見せるためにやるのではありません。自分のためにやるのです。」と言ってたが、舞踏は人に見せることが前提となってくるので、そこがまるっきり違うんだ。と思った。

実は今回、ホットブトウというのを目論んで勉強しに行った。施設や準備のことを考えると気が遠くなる。あとお金のためとはいえ毎日、あんな熱いところで教えることを考えるとゾッとする。出来るかどうかは好きかどうかでもあると思うので、わたくしには無理だと思った。

帰りはすっきり爽やか、たっぷり汗もかいてビールが美味かった。
posted by Mukai Kumotaro at 09:22| 日記

2018年05月27日

中野新橋

合宿でらくだのメンバーとますます親交を深めたわたくしは、中野新橋の事務所にも出入りするようになって。

当時、稽古場は板橋にあったが事務所は中野新橋にあって車で30分ぐらいかかって結構不便だった。

後年、麿さんも「あの頃は、面倒臭かったなあ。。」と振り返ってつぶやいてるのを聞いたことがある。

事務所の一階の居間には真っ先に仲良くなった同期の大友透と先輩の星野建一郎が居候しててよく夜、一緒にお酒を飲んだ。

いろんな話しをしたなあ。星野の名言に「沈黙がうるさい。」というのがあるのだけど、頭でっかちで理屈っぽいあの頃のわたくしに腹を立ててたんだろうな。

透の名言には「むかいさん、遊びだよ遊び。」というのがあってこれは『海印の馬』という大駱駝艦の不朽の大名作のダンスマスターを任された時に、気負って真面目に稽古をしようとするわたくしに向けて放った言葉で。

「はっ」と我に帰るように心に響いた。いまだに座右の銘のように大切にしている。

「クソ真面目なんてクソ。」は尊敬するマルセル・デュシャンの言葉で「真面目は禁物。」は横尾忠則さんの言葉だが同じように心を遊ばせるための気構え。創作の極意を述べているのだと思う。

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「何もかも蹴り飛ばせ!!」by 大友透

ちなみに透の口癖に「適当だよ、適当!」というのもあって人生適当に生きろという透の人生哲学が込められてるんだな。

大袈裟ではなくて、いまの世界に必要な考え方だと思う。適当で好い加減に生きろ人生。

そういえば透の奥さんの美波里ちゃんは大駱駝艦の元ダンサーで。

京都の曼殊院にてらくだが『盤船伽藍』というどでかい野外劇場1ヶ月公演をやってるのを観に行って。

楽屋のテントから垣間見えるらくだのメンバーたちの死んだ魚のような目を見て「かっこいい〜!!」としびれて入団したという面白い女性で、透とはいいコンビ。

それはさておき。

帰るのが面倒くさくなると事務所に泊まり、2階に住んでいる麿さんと朝飯を食べるのが緊張するんだけどいい経験だった。

一階の隣が事務所になってて、いまは大森南朋の事務所にいる南場さんも出勤して来て一緒に朝飯を食べて。

テレビがついてて誰も一言も喋らないのだけど、たまに麿さんが昔のことなんかを話すのが興味深くて。

色んな面白い話しを聞いたなあ。思い出したらブログ?に書こう。

そうそう、若衆公演だな。

合宿から帰ってきて稽古が進んで。

始めてからまだ一年も経ってないのに、見様見真似でよくやってたな。良く稽古してたと思う。

歳は下なんだけども先輩という奴らに囲まれて。

負けられないという思いもあって。

遅れを挽回したいと死に物狂いで稽古してたな。貪欲だったと思う。

作品が出来て行くという過程ももの凄く面白かった。いままでの絵画という2次元の世界と違って立体的に立ち現れてくる3次元の世界。しかもそこに時間というもうひとつの次元も加わって。

全方位で体感する醒めて観る夢、“舞台”。

究極の表現方法を我得たり!!

あの頃のわたくしは、まだそこまで気付いてなかったけど。

posted by Mukai Kumotaro at 06:30| 日記

2018年05月26日

伊豆の合宿

鶴山さんから声をかけられて若衆の稽古に参加しはじめ。途中で大駱駝艦の夏合宿があって若衆の稽古もするとかで、わたくしもメンバーではないけれど連れて行かれた。その頃は長野県白馬村ではなくて伊豆の天心会道場という剣道場で。

合宿生の指導は女性と鶴山さんにまかせて男たちは毎日、一日中海に漁に出かけて楽しそうに魚や貝を採って来てた。合宿生と同じ扱いのわたくしは漁に行けず皆んなが羨ましくて。

長野のように宿舎と稽古場が別ではなくて、道場に布団を敷いて雑魚寝してた。夜、魚をつまみにお酒を飲むのが楽しかった。

酔いつぶれて寝て起こされて男性メンバーは漁へ。合宿生は海まで走って、体操して海で泳いで。帰って来て昼ごはん食べて、午後稽古して、晩御飯食べて、夜は麿さんの稽古だったか。発表会もなくて気楽な合宿だった。

この合宿で天才・村松卓矢と仲良くなった。一見、シニカルでクールで取っ付きにくいようで実はヒューモアを愛する不思議な人。

後輩の小柳弐魄が村松君を“慇懃無礼”と評してたが言い得て妙だと思う。男三人兄弟の長男で相手の優位に立つのが得意だった。

わたくしも最初は番頭みたいなポジションで付き合って、村松作品に参加してだんだんとなくてはならないパートナーになって、自分も作品を創るようになってライバルに変化して。関係が育っていったんだな。

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若き日の村松卓矢。

村松君のお母さんは教師で独特の子どもの育て方をするひとで、ある時弁当が白米だけで村松少年が当然文句を言うと「あのね卓矢、この弁当を学校に持って行って昼にクラスメートに”みなさーん見てください、僕の弁当ご飯しかありませーん!”と大きな声で言ってごらん。そしたらみんなが同情しておかずをくれるでしょう。そうするとあなたのお弁当はクラスで一番豪華になること間違いなしです。」

乞食芸人を育てる英才教育だな。そういえばヨーロッパでは子どもに募金を必ずさせる。人に断られることを体験させて断られることに耐える力を身につけさせるらしい。

それはさておき、大駱駝艦艦長・麿赤兒は仕事の都合で合宿あと入りだった。

まだ麿さんが来てない夜、狸穴善五郎と蹄ギガ、当時は及川が喧嘩をはじめて。狸穴が身長180pぐらいあって及川君が193pとかだったかな、巨体の二人が取っ組み合って道場中を怒鳴りあいながら転げ回るからめちゃめちゃ迫力があった。

当時、及川ナンバー2、狸穴ナンバー3という時代で狸穴が及川に「テメーは、稽古にも出ず海に行って好き勝手何をやってんだ!!」と怒って。

「俺はいっつもらくだのことを考えてんだよ!!」と及川も応酬して。

「ちょっとあんた達、何時だと思ってんのよ!!」と最後は女性幹部に怒られて終了。

わたくしは、集団のことで喧嘩する人たちを見るのが初めての体験だったので新鮮で興奮したのを覚えてる。

あと入りだった麿さんが来て、合宿生が順番に自己紹介をして、わたくしも自己紹介をしたら麿さんが「なんであいつがいるんだ?」と怒ってて。

鶴山さん、麿さんに話し通してなかったんだ〜。お願いしますよ〜。急に肩身が狭くなった。そのせいかどうかわからないけど合宿後半でじんましんが全身に出て。狸穴君が病院へ連れていってくれた。

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いまは宝石商になっていると噂の狸穴善五郎。ちなみに名前は芸名で麿さんが付けた。いい名前。

病院へ行く途中、車中で狸穴君とこのあいだの喧嘩のことや大駱駝艦のいろんな話しをして。この時らくだに勧誘された。それまでも大友透や星野建一郎に「らくだ入りなよ〜。」と勧誘はされてたけど気持ちはハッキリしなかった。

しかし、この合宿で及川と狸穴の喧嘩を見て大駱駝艦という集団のことを意識するようになり、だんだんと入りたいと思うようになるのだった。
posted by Mukai Kumotaro at 08:27| 日記

2018年05月25日

ワークショップあらし?

鶴山さん以外は皆んな歳が下だった。だけどわたくしの方が歳上だという先輩後輩のねじれ現象が起こって、でも一つ二つの年齢の違いだからすぐに皆んなと仲良くなった。

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大友透と。

セツモードセミナーは女性が多かったので、男が多いらくだかんは馴染みやすかった。

ところが、だんだん馴染んで踊るということにも興味を持ち始めたときに、らくだかんが京都の去年閉館したアトリエ劇研、当時は無門館という名前だった劇場に公演に行ってしまった。

せっかく面白くなって来てるのに置いてけ堀。また単調で灰色のアルバイト生活だけになってしまった。

そんな時、伊藤キムさんというダンサーがワークショップをやると知って、駆けつけた。

キムさんはドイツで活動してたけど最近日本に戻って来たらしい。「僕が日本でやる最初のワークショップです。」キムさんがそう言ったのを覚えてる。その時に来ていたのが、遠田誠鎌倉道彦だった。

キムさんは大駱駝艦の初期メンバー・古川あんずさんのグループで踊りをはじめた。だからかダンスと名乗っているけど、基本的にはらくだかんメソッドというか舞踏と似た匂いを感じて取っつきやすかった。しかしからだのうごかし方が違うというか、スピードが違うというか、やっぱり舞踏よりダンスに近かった。激しくうごくのが好きでジャンプするのが好きだった。

片目を子どもの時に失っていることも関係してるのだと思うけれど、自分の範囲を更新する、自分の限界を超えるということに貪欲だった。ハンデを乗り越える努力をするような厳しさがあった。それが面白かった。だいたいわたくしは自分開発というかそういうことが好きなんだな。自己実現。すぐに仲良くなって家に遊びに行ったりしてた。

キムさんのワークショップにも毎回通い始め、まだまだ物足りなくて色んなワークショップに顔を出してた。

先日、惜しくも亡くなられてしまった和栗由紀夫さんのワークショップ、ここにもやっぱり誠と鎌倉がいた。とかアスベスト館とか。他にも行ってたような気がするが忘れてしまった。

アスベスト館で土方さんの奥さん、故・元藤Y子さんに「ワークショップ荒らしみたいなものです。」と自己紹介して叱られたのを覚えている。それ以来らくだかんとキムさんのワークショップ以外は行くのをやめた。

そうこうしている間にらくだかんが京都から帰ってきて。

鶴山さんが主宰する“若衆”の新作公演に出ないかと誘われて。

ふたつ返事で了解して。

さあいよいよデビューです。

この時、わたくしは27歳になっていた。デビューが遅いです。遠回りをしたんだな。でもその遠回りは決して無駄ではなくて。

人生というのは“誕生”という始まりがあって“死”という終わりがあって、その始まりと終わりの間をどう生きるか?なのだと思う。回り道して寄り道していかに余計なことをするか?豊かに楽しく遊ぶかが大切。

良くとるとそうだが、だいたい皆んな十九、二十歳で舞踏をはじめて二六、七ぐらいでこれで食うのは無理だなとやめる。だけど、わたくしはもう引き返せない年齢から始めたものだから、いまに至っているというところもある。

それはさておき。

デビューだ!
posted by Mukai Kumotaro at 05:53| 日記

2018年05月24日

からだ?

大駱駝艦のワークショップに通いはじめて。まだこの頃は踊りというよりも、からだをうごかすことが興味深かった。

明らかにうごいていないことがわかる。そのうごかないからだが、自分のもののようで自分のものではないような。なんなんだこれは?やることなすこと何でも楽しくて。

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photo by Nobutoshi Takagi

そのうち、たぶん鶴山さんだと思うけどイベントに出ないかと声をかけてもらって。ふたつ返事でオッケーして。

それが伝説の東京電力主催『1万人コンサート』。原子力マネーを湯水のごとく使って毎年行われていたイベントで出演者5,000人、観客5,000人(全員抽選で招待。)というとんでもない企画で考えたのは、なかにし礼さん。
最初は国技館で次に場所を武道館に移し行なわれた。出演が市川團十郎、市川海老蔵、中村勘太郎、中村獅童。演目が変わって里見浩太朗さんになり。

そこにらくだかんも毎年、数十人で出演していた。らくだの男は数十人はいないのでアルバイトが駆り出される。そのうちの一人ですね。

ちなみに山下陽光も出て、打ち上げで坊主にされて眉毛も剃られてぷんぷんでらくだと絶交みたいになってしまった。陽光、ごめん!

いまだに仲が良くて、このあいだ舞台に呼んでくれて共演したコンテンポラリーダンサー柳本MASAともこのイベントで知り合っって意気投合した。ヨーロッパから帰って来たばかりだんたんだな。

いままで会ったことがなかった奴らも含めて、大駱駝艦の男性メンバー全員と顔を合わせた。
鶴山欣也、蹄ギガ、狸穴善五郎、若林淳、星野建一郎、菊池七変化、村松卓矢、徳久欣、大友透。
不良ばかり。

そして、このイベントの稽古ではじめて、不良の中の不良・麿赤兒と出会うのだ。

麿赤兒(まろあかじ、舞踏家、俳優)
状況劇場の旗揚げメンバーでアングラ界の大スター。状況に出演しながら舞踏家・土方巽に師事。状況劇場から独立してビショップ山田、室伏鴻、天児牛大、大須賀勇らと1972年に大駱駝艦を旗揚げ。役者としても鈴木清順、タランティーノ、北野武監督の映画で活躍し、、なんていまでこそ何も見ずに紹介できるけれど。

実はその時、わたくし麿さんのことを知らなかった。

失礼な態度をとってたと思う。「はじめまして、むかいくもたろうと申します。」
いまならきちんと挨拶できるのだが、青二才の馬鹿者はまだまだ苦労が足らず世間知らずで生意気で。

麿さんには、らくだに入ってから目の玉が飛び出るほどこっぴどく怒られるのだが、この時はまだ「なんで眉毛剃ってんだ?あう?」と少し窘められるぐらいで。この時は単なるバイトだから麿さんも遠慮してたんだろうなあ。

この初対面での「なんで眉毛剃ってんだ?」は、いまだに覚えてて “なんで?” と疑問に思って考えるといういまの活動の原点でもあるのだと思う。

林英哲さんの太鼓、麿さんの振付でらくだのメンバーが選抜で踊る群舞があって、これがめちゃめちゃ格好良かった。

俺もいつかあの群舞を踊りたい!このイベントでますます奥深くへと踏み込んでいく決意を固めていくのだった。
posted by Mukai Kumotaro at 07:31| 日記

2018年05月23日

さてさてそれから

人前で踊るというくそ恥ずかしい体験をしたわたくしはそれからどうしたか。
3月22日、4日後にまた板橋の稽古場へ行ったんだな。

ワークショップは7時からだが行ったら誰もいなくて電気が消えてて。しばらく待ってたら、稽古場の奥の暗闇からセキをしながら男の人があらわれた。「俺の時は7:30からというコトで。」そういうと、また闇の中に消えて行った。

その人は鶴山欣也と名乗った。前の日飲みすぎたとか。「俺から酒をとったら何が残る。」そう言って笑ってた。

参加者は俺を含めて3人だった。しかし鶴山さんは、まったく頓着していない風で可笑しかった。
ワークショップがはじまるとそれまでくたびれてボロボロな感じだったのが、イキイキとテンポよくどんどん進んでいく。

わたくしも1回目は無我夢中だったけどちょいと余裕が出てきて。

〜途中で大友登場。雨が降っていると鶴山さんに告げる。皆んなで明日の公演の道具をワゴン車の荷台に積み上げる。しばし休憩〜

昔の日記を見ながら書いているのだが、絵を描くという孤独な作業を続けていた自分にとって、皆んなでバタバタしてるこういう感じがとっても気持ちがよくて新鮮で。

やることなすこと全て面白かった。からだがまったく思うようにうごかないのがもどかしくて。それがまた深みにはまっていく原因だった。からだというものに目覚めたんだな。からだという小さな無限の大宇宙に。

さいごにフリーダンスをまたやったと書いてある。

〜鶴山さんの巧みな選曲によって、ついつい気持ちよく踊ってしまう。だが鶴山さんのいう見せる踊りと自分のための踊りの差は大きい。とにかく続けること〜

だいぶん、はまってきとるな。

日常的にはあいかわらずのバイト生活。西武運輸で朝から晩まで働いて残業もやって。

3月25日 〜工藤治子 野口体操 胃の中を小魚が8の字に泳ぐ 徐々に大きく からだ全体 手足 前屈 側屈 パッション

3月29日 〜安田理英 野口体操 かっこをつけない 意識を集中させる 円になり順々に先頭の人の真似をする 同じく円になり座る スローモーションですれ違う フリーダンスですれ違う 声あり
何をしてもいいということ。しかし踊っているという目に見えない一線は意識しなければならない。〜

この日、宿命のライバルであり戦友である村松卓矢がワークショップにあらわれた。
面白い笑えるおどりというものを知り意識しはじめるのだった。

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板橋の稽古場で。菊池七変化と村松卓矢と。

だんだんとその気になってきた、わたくしは頭を丸め、眉毛も剃ってますます深みへと踏み込んで行くのだった。

(ちなみに3月18日、初日のワークショップ講師は山田歩さんでした。)
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たぶん唐組へ折込に来た花園神社で山田歩と。撮影は旦那さんの加藤さんかな。
posted by Mukai Kumotaro at 11:25| 日記

2018年05月22日

それからどうしたパート3

24年前、板橋にあった大駱駝艦の稽古場。いまは劇団がスタジオとして使って、サルバニラが真っ白にした空間はいまもそのまま残っている。わたくしがトイレに逃げ込んだ時はまだ真っ黒で。トイレはいまも同じ入って右手の隅にある。

そのトイレへ、わたくしはゆっくりとじわじわ寄って行きドアを開けて入った。
のか、ささっと逃げ込んだのか。覚えてない。

ただトイレの中でどうしようかあれこれ必死で考えてた。背筋が寒い。胃が痛い。プレッシャーとストレスで寿命がどんどん短くなってた。と思うよ。マジで。

嘘のないリアルでスリリングな瞬間ほど観ていて面白い見世物はない。その先に何が起こるかまったく予想がつかない、ライブ “生”な瞬間。だから皆んなサッカーや野球やサーカスに夢中になるんだ。筋書きのない物語が生まれる瞬間を期待して。

わたくしたちは、そういうメジャーな見世物に負けないために、危なくスリリングな瞬間を偶然に頼るのではなく“わざ”と創りだそうとする。でもやっぱりそこには作為が見え隠れする。上手くやろうとしない。でもわざと下手にやるのも違う。人生即興なんだけど即興ばかりだと比例して、はずれも多くなる。

「この世にないものを描きたい。しかしまるっきりでたらめじゃつまらない。」昨日見に行った、親友・水野健一郎の個展で水野がメモしていた言葉。

あっ、そういえばこの個展、漫画なのか? アニメなのか? イラストなのか? アートなのか? 物語りがないような在るような 夢のような現実のような ノンフィクションのようなフィクションのような なんなんだ一体これは?! 正気とぴちがいのはざまで遊んでる スーパーおススメ個展!!(全部観るのには、結構時間がかかる。)

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Deux Shrine’s launching Performance“Two suns” Animation:Kenichiro Mizuno

ある時、鉄割で戌井くんが弟に本気で怒ってたことがあったけど、それも理由は似たようなことだったと思う。

絶妙な塩梅というか、どちらにも倒れないバランスというか、研ぎ澄まされたセンスというか。
言葉にできないはざまの感覚なんだよなー。

閑話休題。

あの時、あの場にいた人はいいものを観たと思う。30年近く生きてきた男の嘘のないスリリングな姿。

初心忘るべからずと言う。
汚れていなくて “清い” あの恥じらいがあって “初々しい” 心を決して忘れるな。そんな風にいまは使われる。しかし本来の意味は正反対で、
初めてのふるえるほど “かっこ悪い” あの未熟で “恥ずかしい” 心を決して忘れるな。という世阿弥、風姿花伝での戒め。

いまの自分が舞踏を続けているのは、あの瞬間があったからだ。そう言い切れる。かな。いま思い出しても自分自身は恥ずかしいけれど。

この恥ずかしいという気持ちはとても大切で、恥ずかしさのない表現は下品なだけになってしまう。

兄弟子、村松卓矢とよくこのことについて話したけど、ただフルちんになればいいのではなくて“心のパンツを脱ぐ”ことこそが肝要で、魂のストリップを観せて欲しい。のだと。

トイレの中にどれぐらいいたのか。こういう時は長くいればいるほど出てきにくくなるもの。けっこう早く決心したと思う。そのへんは開き直りがはやかった。

そしてトイレに入った以上は用を足したというサインというか証拠というか。が必要だと閃いたのだと思う。そのへんはセンスがあった。

トイレットペーパーを外にも聞こえるようにカラカラ鳴らしてから、水洗を流した。つまり本当に用を足してたと。

えー、言い訳です。はい。

言い換えるとあくまでリアルさにこだわった。本当で。嘘ではないです。ただ「トイレ行ってました。」と。

苦しいなあ。

ゆっくりと出て行った。妙に爽やかだった。少し微笑んでしまってた。麿さん的に表現するとにやにやしてた。ゆっくりと稽古場のセンターにもどって、さっと礼をした。拍手。

「面白かったよ。」ワークショップが終わったあとに、タコみたいに踊ってた男性が話しかけてきた。いまは高知でキューリの栽培をしている大友透だった。

彼とはこのあと親友になって毎日いろんなことを教わるのだが、それはまた今度。
posted by Mukai Kumotaro at 11:23| 日記

2018年05月21日

ふりーだんす?

1994年3月18日 大駱駝艦ワークショップの講師は安田理英さんだった。

最初は野口体操をやったと思う。覚えてないけど。

野口体操というのは、20代の麿さんが、故・野口三千三先生から教えてもらって雷に打たれるほど衝撃を受けた体操です。そこからラクダカンにも導入されて代々ずーっと受け継がれてる。

これは余談ですが後年、わたくしが人に教えるようになってだんだんと、野口体操と名乗るのは良くないのではないか。と感じ始め。

野口体操とチラシに明記すると、野口体操目当ての方が来る。しかも野口三千三先生に直接指導を受けたなんていう方々が。そうすると「あれは野口体操ではない。」となる。

わたくしもWS生に直接言われた。直接言われるぶんには良いけど、外でも言われる。まあ別にそんなこと気にしなければ良いのだけど。

確かにわたくしは野口先生に直接指導を受けたわけではないし。もちろん自分なりに勉強はしてた。『原始生命体としての人間ー野口体操の理論』を読んだり。ちなみにこの本、野口先生の人類に対する独特の でも腑におちる話しが濃密につまってて眼からうろこなとっても面白い本です。いまだにバイブル。おすすめ。

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弟弟子、田村一行に秘蔵の映像を観せてもらったり。でもいまいち野口体操と名乗る自身が出ない。

じゃあこれは何なんだ?俺らがやっている代々ラクダに受け継がれてきたこの体操は? 考えて。

ある日、誰かが「これって大駱駝艦の体操なんじゃない。」うん。そうだ。“大駱駝艦体操” だ。

しかし当時のわたくしはそんなこと全く考えず。野口体操もわからず。舞踏も知らず。

まったく覚えてないけれど1時間以上は見様見真似でやったと思う。体操を。無我夢中で。それから休憩になって。話せる人などいないので借りてきた猫みたいになってたと思う。

そして。休憩が終わると安田さんが言いました。「じゃあ、フリーダンスやろっか。」

ふりーだんす?この人は何を言い出したのだろう?あれ、なんか一人ずつ踊りはじめたで。まずは安田さんか。面白美しく踊ってはるわ。やばい。このままだと順番がまわって来るということか。俺に。うん? この男の人の踊りは面白いな。舌を出してくねくねタコみたいに。見てて飽きひんぞ。やばい。終わってもーた。次は女性か。小さくて妖怪みたい。次は男か。金髪でヒゲ生やしてマユ毛剃って怖いなこのおじさん。50歳ぐらいか。うわっ。終わった。。
やばい。次俺やん。。。

「じゃあ、次は、えーっと。むかいさん?」

こんなことなら来るのをやめるべきだった。人前で踊る?!そんな恥ずかしいことするぐらいなら死んだ方がましだ〜
(((;꒪ꈊ꒪;)))とまで考えたかどうか覚えてないけど。

稽古場の真ん中まで出て。いま思うと俺以外ラクダカンのメンバーだった。その人たちが皆んな観てるわけです。まあ面白い見世物ですよ。生まれてはじめて人前でおどる人を観るなんて。

いまでこそ授業にダンスがあって、テレビでそんな番組があったりして、みんな踊りに触れる機会も多いけど。

ワークショップに来る前に見た大野一雄さんの写真を思い出して、ポーズを取ったの覚えてる。でも一枚の写真だからワンポーズで終わって。時間にして5秒ぐらいか。やばい。これでは終われない。素人ながらそれはわかった。みんな結構長くやってはったから。困った。これは困った。なにをしていいかまったくわからないよー。がくがくぶるぶる((((;゚;Д;゚;))))

あーあ。
しばらくなにもせずにただ立ってた。と思う。無音ですよ。無音。。

あかん。もうあかん。耐えられない〜!いうて。

そんで?

そんで。。

トイレに逃げ込んだんです。
posted by Mukai Kumotaro at 10:23| 日記

2018年05月20日

舞踏ノ門

あなたはいま 舞踏ノ門の前に立っている 上手い下手などどうでもいい うごけないとか 体型がどうとか関係ない もがいても もがいても それでもどうにもならない束縛と戯れてしまいましょう

アソビ あそび 何もかも遊び
真面目で真剣で命懸けの

こけたっていいですよ 何をやってもいいが 何もしなくてもいいし 何も出来ないかもしれないがそれでいい 間違っていても 下らなくても 適当で好い加減でもいい 間違いなどない 誰かが決めた価値観などクソ 糞真面目などクソ

ぺろりとした滑稽でチープなおもしろさを デロリとした下手糞で混沌とした世界の愉しさを ギロリとした野蛮で原始的な格好よさを思い出せばいいのに

うごくな! 何故うごく? 踊ればいいのですよ では踊りって何だ? 何も考えるな あたまをカラッポにせよ 阿呆になれ もっともっと もっと! カラダもカラッポにせよ うごくのではない うごかされるのだ 生きているのではない 生かされているのだ どもるように踊ればいいでしょう カラダは勝手に語りだしますよ 

生まれたことが既にもう才能だったのに 教育などで身についてしまった常識や社会的通念は 才能をどんどん奪って逝くのだ

味のしない ぺらぺらの 乾いた毒にも薬にもならない 匂いを抜かれた 害の無い 善い人間に成ってしまった?

あっは! 才能を取り戻せ! 常識を疑え! ほんとうにそうか? ほんとうか?

何事にも最初がある そして何を始めるにも いまがいちばんはやいときなのだ 仮想の二次元を見て満足できるほど あなたへの世界からの圧迫は少ないのか?

いまの日常を変えるには なにかしら思い切った行動が必要なのだ 時には自らの全存在をかけて 自己実現へのアクションを起こしてみるのもいいではないか

思い切って門の中へ足を踏み入れてみるといい

その一歩はまさしく 無尽蔵な可能性を秘めた

新しい宇宙への第一歩になるだろう!

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Calligraphy by Kumotaro Mukai
posted by Mukai Kumotaro at 07:02| 日記

2018年05月18日

超越サラブレッド

先日、鉄割伝説の裸役者・山内に誘われて、戌井君の家にお邪魔してお母さんの則子さんに日本舞踊のお稽古をつけて頂きました。名取試験で踊るとかいう曲をいきなり習いまして、たいへんに難しかった。けど面白かった。
則子さんは日本舞踊の名取でして流石、踊る姿がとってもカッコ良かったなあ。

お稽古の途中で花代さんという方がいらっしゃって、中村水絵さんも登場。
水絵さんは、鉄割がまだ四畳半オアシスだったころ、(山内が現役だった20年以上前!)から観ているそうで、いまはリトルモアから独立してHeHeという素敵かっこいい出版社を立ち上げてらっしゃるとっても男前の呑んべえさんです。

そういえば、HeHeから作品集を出されている川内倫子さん

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川内倫子さん撮影の化粧品のどでかい駅貼りポスター。

その川内さんが1998年にGuardianGardenで行った個展のポストカードを持ってるのだ。自慢。
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第9回写真「3.3u展」グランプリ受賞者個展ポストカード

そして、花代さんってどこかで聞いたことあるなあ。と思って記憶を探ると一枚のフライヤーがあらわれた。本人に聞いたらやっぱりそうだった。
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以前も書きましたが、わたくしは結構なファイルマンでして良いなあと思ったチラシ、ポストカード、冊子なんかを捨てずにファイルに入れて大切に保管しているのです。
花代さんの1995年のNew Single"Dang Dong"のフライヤー。

つながっていく、過去といま。

花代さん、まだまだ未知数な感じ。元祖不思議少女か。和と洋が混沌としてパンク魂が奥の方でうずうずして中指たててるような。

稽古終わりで、お父さんの戌井祐一さんも合流して宴会になりまして。
祐一さんは、戌井昭人『まずいスープ』のモデルになった方でその遍歴は、とてもここで書き切れるような代物ではないのですが、最近小説を読んだ人たちに言われるのが「小説よりも実物の方がぜんぜん面白いね。」だそうで、先日もいろんな話を聞きましたが、面白かったなあ。

ちなみに祐一さんのお父さん、昭人くんのお祖父さんが、文学座の創始者・戌井市郎右衛門さん。

この破茶滅茶なお父さんからおもしろ英才教育を子どもの頃から受け、お母さんからも子どもの頃から日本舞踊を習い、人間国宝・初代 喜多村 緑郎の血を受け継ぎ、サラブレッド・戌井昭人が生まれたんですな。

ピカソや黒沢美香さんと同じだな。伝統から破茶滅茶への進化というか逸脱というか花開くアバンギャルドな遺伝子。

最近、思うのですがわたくしたちの商売は、いかに社会の常識を疑うかの勝負でして言ってみたら“変なこと考えるオリンピック”
変なことを考えれば考えるほど、社会の常識を超越していればいるほど皆んなに喜ばれるという商売で、面白いことを考えつくためには、まず自分が面白い人間にならねばならないのだ。

戌井君とは、1999年の風煉ダンスという野外劇で出会うのですが、20代のわたくしはまだそこまで行ってなくて、舞踏の門に足を踏み入れたばかりのところなのです。

posted by Mukai Kumotaro at 06:05| 日記

2018年05月17日

それからどうしたパート2

夢破れて山河あり。漂えど、沈まず。しかし船はすすむ。

それからどうした。

ただバイトを続けて。絵もなんとなく書き続けてたのか。

適当に遊んで。女の子と付き合ったりして。酒を飲んで酔っ払って。そういえばこの頃、風呂屋で刺青者と些細なことで喧嘩になって、風呂屋の裏の駐車場でファイトしてKOされた。

そうこうしているうちに、土方巽の名前を知った。のかな。

セツ時代にウィリアム・バロウズを知り、そこからビートへ行って、ジャン・ジュネを読んだりして、SWITCHが愛読書で。マンガでは、狩撫麻礼先生の『ボーダー』を愛読してた。バイト終わりに独りで高円寺のアパートでボブ・マーリーを聴きながらワインを一本空けて泣いたりしてたな。弱っとるなおれ。そうして次回作の『天使派リョウ』のなかに土方さんが出て来たんだな。

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土方さんの写真集のカタログ。やっぱり本物は格好いいなあ。

「なんなんだこれは?」

でもその時は、少しひっかかったくらいで。

また退屈な日々が流れて。

縁があって当時、板橋にあった大駱駝艦の稽古場の公演を観に行った。いま考えると導かれてたのだと思う。けどその時も「ふーん。こういうのもあるんだ。」てな感じで。

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『若衆』公演の半券。

またバイトの日々に戻って。何やってんだろうなおれ。と毎日考えてた。と思う。進退極まった感じ。完全に行き詰まってた。

1ヶ月後の或る時。一枚のチラシが出て来た。

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運命のワークショップチラシ。

それは、大駱駝艦のワークショップのチラシだった。
完全に行き詰まってにっちもさっちも行かない現状を打破するには、何かしら思い切った踏み込みが必要不可欠だった。

大駱駝艦の事務所に電話をした。
「3月18日においでください。」とかなんとか言われたのだと思う。覚えてないけど。

1994年3月18日、板橋駅に降り立ってそのまま稽古場へ向かう勇気がなくて、まずは途中の中華料理屋に立ち寄ってラーメンを食べた。のかな。何を食べたか忘れた。もう辺りは暗かったと思う。迷いながらも行き着いて。稽古場がさらに真っ暗な路地の奥にあって恐ろしかった。

ドアを開けるまでしばらく躊躇したと思う。いまだったら引き返せる。そんなことを考えながら。
それでも、勇気を振り絞って恐る恐るドアを開けたのだった。

それは、新しい宇宙へと広がる扉。
そうしてわたくしは、とうとう舞踏の門の中へと足を踏み入れたのだった。
posted by Mukai Kumotaro at 17:09| 日記

絵で食うのだ

セツに入った頃からイラストではなくて今でいうファインアートの道に突き進んだ。絵で売れる。絵で食べる。そんなこと本気で考えていたとは。甘いな。20代のおれ。それも一生書き続けて、とうとう売れずに耳を切って死んでしまう。ってな世界で。

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当時住んでいた高円寺の西川荘にて

昼はバイトして帰って来て絵を描く。毎日毎日、ひたすらその繰り返しだった。

当時はアメリカでバスキアが活躍してた頃でグラフティに憧れて制作してた。
絵に点数をつけるような世界から遠く離れて、自由にもっと自由にともがき続けた。そしてそれで食べるのだ。それしか考えてなかった。

大昔から綿々と続くパトロネージュのこととか、「食べさせて頂く」という乞食の覚悟と穀潰しの自覚を悟る大切さ。なんてのを本で読む知識として頭で分かってるだけで、今のように身に沁みては解ってなかった。

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そんな生活を二、三年続けた。頑張ったけどあかんかったなあ。煮詰まってた。でも限界までは行ったのか。。いやいや、いまだに続けてる友達のことを考えるとケツを割ったんだな。逃げた。麿さんの名言に「逃げろ!」というのがあるけれど、それも運命か。逃げ続けた人類がいま生き延びて繁栄してるということも、、いや言い訳だな。

いまならわかる。実力の世界ではあるのだけど、運と縁も必要なのだと。そして一生やり続けることの重要さ、続けられる幸運と、何がなんでもという執念を燃やし続けられるかどうかの勝負であって、倒れても倒れても起き上がりまた前へすすむ。その生き様に人は胸を打たれるのだと。

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どこかの生命保険会社だったか。審査委員長が池田満寿夫さんの公募展に作品を出して、グランプリではなかったけれど賞をもらった。当時池田満寿夫は絵の値段ではわからないけれど、トップを走ってた。というわたくしの印象。本当のところは知らなかったけど。

新宿の高層ビルの最上階で授賞式があるというので行った。

エレベーターに乗って、最上階についてドアが開いた時、真っ正面に池田満寿夫さんが座ってた。

その姿が、なんというか。他人のことをとやかくいうのは良くない。のですが。。当時の感想です。

みすぼらしくて、なんだか冴えなくて。ごめんなさい。がっかりしてしまった。いや強烈なショックをうけたのを覚えてる。

「これが日本のファインアート界のトップの姿かあ。。。」

いまだったらわかります。別に格好とかそんなものは全く関係ないと。でも夢を食べて生きてる青二才にはわからなかった。

わたくしはエレベーターの“閉まる”のボタンを静かに押して新宿の雑踏を通り、そのまま高円寺のアパートへ帰ったのだった。

posted by Mukai Kumotaro at 11:17| 日記

2018年05月16日

セツモードセミナーパート2

セツモードセミナーのことはほとんど忘れてしまったので検索したサイトの情報を参考に進めます。

〜入学すると、新入生は1Q生となり、新入生のみで石膏デッサンや顔のデッサン、水彩画の授業を受けます。

なるほど。そう言われるとやってたな。この時一緒にやってた人たちが同Q生で山本裕司さん、水野健一郎とは、ここで知り合った。山田うんちゃんのお兄さんが同Q生にいて「妹がダンスをやってる」と言ってた。

〜そして、半年毎に全員が自動的に1級ずつ昇級します(昇級試験や飛び級はありません)。2Qから上級生や研究生と合流し、クロッキー(フランス語で「カリカリ描く」の意。時間をかけるデッサンとは違い、制限時間10分でモデルを素早く描きます)と水彩画の授業が中心になります。

ほおほおなるほど。ここにはセツ先生も参加してたな。

〜「卒業まで2年間」という期限は決まっているものの、学費さえ払えば自分の気がすむまで学校に来て良い、というのがセツの方針でした。そのため、10年前に卒業したOBが、意心地が良いのでそのままセツでバイトをしているという光景も珍しくなかった。

なるほど。セツゲリラなんてのもあってかっこよかった。

そしてわたくしが行っている夜間は、年上の社会人が多くて面白かった。皆んないろんな仕事をしてる人たちで刺激も受けた。

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上Q生の福田さんと。

合評ってのがあって、書いた絵にAが最高でBとかCとか評価をつける。これは評価する先生の価値観に左右されるわけで、いい評価を受けるのはセツ風とでもいうのかだいたい決まってた。

王様がいてその人のお眼鏡に叶うようにする。大昔からどこでも同じで、現代はその価値観がバラバラすぎて大変でもあり面白くもあるのだろうけど

文句のある奴は自分でやれの世界なのだからそれでいい。
実際、水野健一郎はセツ先生に「君の絵は、うちの画風とは違うけど面白いから、自分ひとりで書いたほうがいい。」とアドバイスされていまに至る。

年に一回だったか半年に一回だったか、セツアート大賞というのがあって、全校生の中から一人選ばれるのだけれど、同Q生の宮崎ケンゴが大賞を受賞して衝撃を受けた。
悔しかったけど、とっても良い絵だった。

よし、俺も!と奮起して頑張った。枚数を描いたのだと思う。次の回だったかな、大賞をとった。でもこれは完全に賞を取りに行った作品だったからいま思い出しても苦いというか恥ずかしい。

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セツアート大賞授賞式でセツ先生と。恥ずかしい作品と。

賞品でセツ先生の絵をもらったのだけどどこかにいってしまったな。実家にあるのかな。

このあたりから絵で売れたいと本気で思うようになってくるのだった。
posted by Mukai Kumotaro at 11:09| 日記

2018年05月15日

セツモードセミナー

やっと上京目的のセツに入れた。その前に入学金とか学費を払うために江東区辰巳にある西武運輸でバイトをはじめた。

セツは昼もあるのだけど、わたくしはバイトの後に行くので夜間だった。ファッションの学校だからお洒落するみたいなのが嫌いで、わざと西武運輸の汚い作業着でそのまま行ってたな。

セツは寺子屋みたいな長澤節先生の私塾で、1954年ファッションイラストの先駆者だった節先生に若者が絵を教えてくれと押しかけたのがはじまりだとか。わたくしが通ってた頃は、新宿曙町のシャトーみたいなかっこいい5階建ぐらいのたてものでやっていた。

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卒業式の後で。

松岡正剛さんの長澤節について書いた、的確に言いあらわした文章が出て来たので以下すこし引用させていただきます。

長沢節に三段論法がある。「あの人は弱いから綺麗」「あの人は弱いから好き」「あの人は弱いからセクシー」。フラジャイルな官能宣言もここまでくると、感服する。
セツは(以下、このように称ばせてもらうけれど)、セツは、男が強がることや、男の強がりを徹底して嫌っていた。
男は孤独で弱いからこそ男なのであるとみなしてきた。それには、できるだけ他人に重さを感じさせないようにすること、そのために自分をできるだけ細く軽くしておくこと、それが長沢節の生涯譲らない美学であった。
人間の愛やコミュニケーションがプラスとマイナスで引き合うことや、愛や恋愛が過剰になることについて、セツはまったく関心がなかった。
そうではなくて、むしろマイナスとマイナスがふと引き合う時が最も美しく、真の優しさが生まれるとばかり考えてきた。
こういう感覚の持ち主は、むろん世の中にはそこそこいるだろうけれど、長沢節ほどに徹底したのはめずらしい。
しかもセツはその美しさを世に実在する男女の風姿に求め、その理想をたえずドローイングや文章で表現しつづけたのだ。
〜松岡正剛の千夜千冊 1543夜『弱いから、好き』https://1000ya.isis.ne.jp/1543.html

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自分のスタイルを貫き通した節先生

もっともっと評価されてしかるべきひとの一人だと思う。だいたい日本人は誰かが評価しないと認めることが出来ない民族で、、やめておこう。

こうやって読んで考えてみると、世の中のそして自分の常識を疑うという心を舞踏から学んだのかと思ってたけれど、セツモードセミナーで既に節先生から学んでいたのだな。

川久保玲、山本耀司が出世頭だけど、イラストレーターはもちろん無数に、そしてファッションデザイナー、漫画家(モンキーパンチが有名だけど今調べてたら桜沢えりかさんも通ってたらしい。)俳優(樹木希林さんがご活躍)などを輩出してて、結構いろんな人がセツ出身だったり一時期通ってたりする。

そんなセツモードセミナーだけど、2017年4月に惜しくも閉校してしまうのだった。
posted by Mukai Kumotaro at 10:33| 日記

2018年05月14日

それからどうした

たしか茅ヶ崎のチョコレート工場で働き始めて1ヶ月ぐらいでセツモードセミナーの抽選結果が出たのだと思う。でもそこからグズグズと居座ってたのは、居心地が良かったというのもあるけれど、チョコレート工場の女の子と付き合い始めたというのもあった。しかしこれではいかんと再びアルバイトニュースを買って、今度は東京のデザイン事務所に応募した。

大阪のデザイン事務所、オフィスジョークの田井中さんに「二度とデザインはやりません。」いうて宣言して上京したのに。なにをやっとんねん20代のおれ。

事務所の近くの高円寺にアパートを借りて。彼女とは遠距離恋愛を続けてたけど、この頃に沖縄へ行くとわたくしが言い出したので「こいつはダメだ。」と見切りをつけられて江ノ電のドアが閉まって永遠のお別れ。

そういえばデートのあと雨の中帰れなくなって。駅のベンチに傘をさして座って、うとうとしてたら“にゅーっ”と手が伸びて来て足首をつかまれた。女性の手だったのを鮮明に覚えてる。

沖縄へは喜納昌吉さんのライブのお手伝いに行った。そうかそれを知ったのは高円寺の沖縄居酒屋“抱瓶"でだな。

いまは二階建てになり沖縄にも店を出して大繁盛だが、わたくしが通いはじめた頃の抱瓶は、いまは沖縄店の店長だけど当時高校生の光太郎といまは高円寺店長だけど当時は同じく高校生のポンゲの二人がやってる、店の半分電気が消えてて客はわたくしだけという店だった。住み始めた西川荘の通り道にあってほぼ毎日通ってた。

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抱瓶創業者、故・高橋淳子さんの自伝が好評発売中。朝ドラでやったら面白いと思う。

抱瓶で喜納昌吉がライブのスタッフを募集してるというのを知って、彼女と別れて沖縄に行った。迷走してるな。おれ。

東京からだったか。。フェリーに乗って行った。船の中でいろんな興味深い人と出会った。

沖縄には1週間ぐらいいたのか。喜納昌吉さんは伝説の不良で話すと面白かったが、愛と平和を歌うカリスマの下で、弱いものいじめをするスタッフに幻滅。

東京に帰って来て再び高円寺のデザイン事務所で働き始めた。のかな。記憶が前後してるな。沖縄に行ってから高円寺で働き始めたのか。それだとつながらんな。。まあええか。

高円寺のデザイン事務所は社長がめちゃめちゃ嫌なひとで、いまでいうパワハラ男だった。何かというと高圧的に対してくるので何回も喧嘩した。けど意地でやめなかった。
ジョークで鍛えられたデザインの腕前が良かったから、だんだんと認められて何も言われなくなった。

どれぐらいいたのか。これではいかん何をやってるんだと、ふたたび奮起してセツに申し込んだと思う。しかし2回目も抽選に外れ。そのあとも高円寺で働いたな。

半年待ってもう一度申し込んで。するとなんと3回目は抽選ではなくて自動的に入れるシステムだった。3回も申し込んでくる意気込みを買うのか。

とにかく晴れてセツモードセミナーに入学できたのだった〜٩( ᐛ )و
posted by Mukai Kumotaro at 10:13| 日記

2018年05月13日

自伝?

そんなつもりはなかったんだけど、なんだか生い立ちを語る。みたいになってるな。まあいいのか。
そもそもブログとは何だろう?インターネットで公開する雑記のような日記のようなという認識だったけども。

百科事典マイペディアによると「ウェブログ(Weblog)の略称で、日々更新される日記型個人ホームページの総称。」か。
だいたいあってるな。

日記は1990年ぐらいから書いている。子どもの時から書いている人もいるのに時すでに遅し。だけど「いまがいちばん早い時。」と意気込んで書き始めた。それから約30年書き続けている。

ノートにして100冊近くになってる。作品ごとにノートをつくってるから全体ではもっとあるのか。
いまは万が一、人に見られる可能性を考えて書いていたりするけれど、昔は全く気にせずに書いていたので恐ろしい。死後発表とかされたら恥ずかしい。そう恥ずかしいことを沢山書いている。

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いまたまたま1992年12月15日の日記があるが

「いよいよ出発。日本でとりあえずは、自分のやるべき事をやっている仲間の事を考えると、少し後ろめたい気もするが、隣のカワイイ女の子を見るとそんな事も忘れてしまう。ワッハッハ」

うーむ。これはまあいいか。セツ時代にニューヨーク近代美術館にマチスの大回顧展を観に行った時の話しだな。
当時のニューヨークは。。。その話しはまだか。

20代の雲太郎は、依然茅ヶ崎のチョコレート工場で働いている。

近所のスナックにはめちゃめちゃ美人な女の子とタヌキに似てて前歯が2本ない女の子がいて、皆んな美人さん目当てで行ってたけど、わたくしはタヌキさん派だった。喋るとスースー空気が抜けて可愛かった。一回、横浜ドリームランドでデートしたなあ。それっきりだったけど。

同僚に、背の高いもの凄い馬面のおじさんがいて休日にベッドで寝転んで本を読みながら笑ってるので「何を読んでるんですか?」と聞いたらニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』だったのでびっくりしたのを覚えてる。
他にも免停中の東京タクシーの運転手とか(この人は男前でウィンクの片方と付き合ってるだか付き合ってたとか言ってたな。タクシーってそういう人と知り合う機会が多いらしい。)
劇団ひまわりで子役として活躍してて、いまは自分の劇団の借金を返すために働いてる若者とか。

居心地がとっても良くて、2ヶ月ぐらい働いたのか。そうこうするうちに多分セツの結果が出たのだと思う。
家に電話したらおふくろさんが、なかなかその話しをしないので聞いたら「今回は残念ながら。。」速攻電話を切って。
このままではダメだ。と決心して茅ヶ崎をあとにしてさてどうするか?

どうしたのか。覚えてないな。。あー沖縄に行ったな。
その話しは明日でいいか。


posted by Mukai Kumotaro at 12:54| 日記

2018年05月12日

3食飯付き、寮完備

たぶん大阪駅から電車に乗ったのだろうけど覚えてない。

覚えているのは実家から出て、坂を下って行くところ。

晩夏の太陽の中、人は誰にも知られずにたった独りで泣くこともあるのだ。

みたいな感じで覚えている。泣いてはいないけど。

東海道本線で紀伊半島を周って、米原とか豊橋とか浜松とか何回か乗り継ぎしながらガタゴトと電車に揺られ。期待と不安に胸をふくらませ。途中二泊くらいしたような。覚えてないな。

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神田あたりでビルが見えてきて。東京から新宿へ向かった。たしか大久保のビジネスホテルつばくろとかいうところにまずは泊まった。そして歌舞伎町へ遊びに行った。コマの前の地下に降りていく店でぼったくられた。それはもうちょっとあとか?

二、三日新宿にいたのかな。このままでは所持金がなくなると、アルバイトニュースを買って3食飯付き寮完備とかいうところに電話した。池袋に来い。というので行って待ってたらワゴン車が横付けされて乗れと言われて。

そこから二、三時間車に乗ってどこかわからない風が吹きすさぶ荒野で降ろされた。車はわたくしを置いて走り去ってしまった。

少し待ってたら人が来て、部屋に連れて行かれた。なんか職長の部屋だとかなんとか。『バリバリ伝説』が全巻揃ってた。しばらくしたら職長が来た。もの凄いリーゼントで「どうぞ夜露死苦」みたいな感じ。
そこから大部屋に連れて行かれて。荷物置いたらすぐに働き始めたのかな。チョコレート工場でチョコレートをつくる仕事。といっても機械が全てやるので人間がやるのはスイッチを入れたり、カカオを入れたりとか単純作業。最初は確か流れてくるチョコの選別をやった。欠けてるのははじいて。

終わったら寮に戻って。確かまだ明るい時間に終わってた。洗濯したりシャワー浴びたりマンガ読んだり。ここで二曹式の洗濯機初めて使った。
二段ベッドがずらりと並んでて真ん中にスペースがあって巨大なドミトリーみたいな感じだった。大部屋なので他にも色んな人が沢山いて面白かった。20人ぐらいは居たのかな。

少年院出たての北海道の男の子と仲良くなった。ドアが壊れたシャコタンのクラウンに乗ってた。
なんかむしゃくしゃすることがあったとかで「クソー!!」と思いっきりアクセル踏んだらギアがバックに入っててドアが木にぶつかって開いたままになったとか言ってたな。彼は夜中に事務所に忍び込んで北海道の彼女に電話してるのが見つかってクビになった。いまどうしてるかな。

あとは刑務所出たての人もいたな。この人に近所のスナックによく連れていかれた。

そこが神奈川の茅ヶ崎というところだと知ったのはいつだったかな。

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そういえば2000年代になってから養子になって本名が変わるのだが、1980年代は本名は向井研治。
しかし家を出て、親元を離れるのだから、親につけてもらった名前は捨てようと決意。
セツモードセミナーに入ってから“向井雲太郎”と名乗り始めた。

大駱駝艦に入ってから、麿さんに「芸名をつけてください。」とお願いしたら「むかいくもたろうってのは良い名前じゃないか、向に雲太郎だろ。」と言われてなるほど“井”は要らないのか。とそこから“井”をなくした。

そんな師匠と出会うのはまだまだ先の話。
posted by Mukai Kumotaro at 07:11| 日記