2018年05月01日

魂戯れ

古巣、大駱駝艦の本拠地“壺中天”で新作の稽古が始まったようです。

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弟弟子、松田篤史の tweet  いいわあ。

ここまでぎゅっと凝縮して壺中天のことを言いあらわすなんて。

壺中天は別名『舞踏虎ノ穴』と呼ばれているが、ただただ面白い作品を創る。

その思想のもと日々汗を流し、泣いたり笑ったり喧嘩したりしてまさしく切磋琢磨している。

稽古が終わってからの呑みもまた鍛錬と24時間365日作品創りが行われている、舞踏の聖地なのであります。

そして「ただ面白いだけでいいのか?」という問いかけももちろんありながら。

初期壺中天は舞踏の実験精神そのままに日々、どこまで自分を更新できるかの競い合いも行われていたように思う。

いまはどうなのかな?

師匠の麿さんに褒められるのではなく、怒られることを目指していたようなところもあった。

それをまた麿さんが、面白がってくれたり。

人は放っておくとすぐ保守的になってしまうようにできているようだが、そんな自分を叱咤激励してくれているのはいまだに“壺中天魂”なのであります。
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2018年05月02日

ナミダバシ

昨日は、知人のお笑い芸人、奥村太朗を応援しに渋谷のヨシモト∞ホールへ。頑張ってたなあ。

コンビ名は『ナミダバシ』あしたのジョーが好きなんで。

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ひと昔前なら、一攫千金を狙って不良が選ぶ職業はプロボクサーだったが、いまは間違いなくお笑い芸人ですね。

日本の中で一二を争う競争率の高い職業かも。需要もあるしそれを遥かに上回る供給量を誇る。

役者も掃いて捨てるほどいるけど、お笑い芸人も同じなんだろうなあ。めちゃめちゃ厳しい世界。

しかし努力次第で夢を掴みとれる可能性があるから良いなあ。いや実力があれば現実になるのだから夢ではないか。もちろん才能がまずは必要。

最高の相方と知り合う運や、素敵なスタッフと知り合う縁も必要です。

どうしても、需要も供給も限りなくないに等しい舞踏と比べてしまう。

そういえば、奥村君と出逢ったのは、下北沢スズナリ『蠢雲』本番あとの風呂屋でした。

話しかけたのはこっちだけど、そこから話しが興味深く進み2時間ぐらい話したかも。面白かったなあ。

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"Shun-Un" @Suzunari photo by bozzo

一攫千金の夢があるから人が集まる。仕事がないから人が集まらない。

なんとか仕事を生み出して、需要を増やすのだ!!

PS---奥村君、お疲れ様でした。面白かったで。お互いに頑張ろう!
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2018年05月03日

大器晩成

昨日は忌野清志郎さんの命日でした。

そういえば清志郎が亡くなった日にでっかい虹がかかって話題になってた。

雨上がりの

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忌野清志郎(Ⓒ阿部高之)

清志郎は21歳の時に『僕の好きな先生』で売れてから、苦労して苦渋をなめながらも音楽を続けて。

大ブレイクするのは1980年、29歳の時。売れたのが早いから大変だったんだな。それだけに心に沁みる歌が多いのですが。

友人の写真家、長島有里枝ちゃんの名言で「男は売れるのが遅ければ遅いほど良い。」というのがあります。

有里枝ちゃん自身は、清志郎と同じ20歳で売れて。

若くして売れた人だからこそ言えることです。俺が言っても負け惜しみ。

有里枝ちゃんは去年、東京都写真美術館で回顧展というか個展というか大々的にやっていました。

パンクロックな人柄そのままの、とっても素敵男前な展覧会で感動した。

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負け惜しみついでに言うと、舞踏家は割と遅咲きの人が多いです。

創始者の土方さんが代表作『肉体の反乱』を発表したのは40歳の時。

師、麿赤兒も若くしてアングラ界の大スターだったけどメジャーになって来たのは50歳越えてから。

そして先駆者の大野一雄さんがフランスで大ブレイクしたのは70歳!!

早く売れるのに越したことはないと思うけど、大切なのはそのあと。

清志郎は悪戦苦闘の日々を描く『ロックで独立する方法』という本を書いてるけど、大好きなことを仕事にしていくのは至難の技。

続けないとダメなんだけど、ただ続けるだけでもダメ。

常に前進しようとする意志が肝要なんだと思います。
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2018年05月04日

距離感

延期となった『アホとロマンの皮袋』は、20年間在籍した大駱駝艦から独立して一発目のソロ公演です。

舞踏の紋切り型のイメージの代表“白塗り”との訣別の心を込めて舞台上で白塗りして、舞台上で落として終わった作品。

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オープニング。photo by bozzo

まあでも人の前でいかに面白く居られるか?の追及で、塗るとか塗らないとかは実はどうでもいい。

どうでもいいんだけど大きな問題で、無自覚にやるのが一番ダメなんだと思う。

おなじく延期となった『舞踏?』は、先鋭ということを考え、疑うことから始まる舞踏の真髄を披露しつつ、舞踏をものとして扱って創った作品。

そういうことが好きではない観客に靴を投げ込まれた。

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土方さんのトレースシーン。photo by bozzo

ダミアン・ハーストも言ってるけど、大切なのは対象との距離感。

便器を作品として扱ってしまう。本物のガイコツにダイヤを埋め込んで売ってしまう。

距離をおいて対象化する醒めた視線が必要。

いっぽうで理屈抜きの面白いものもまたありだと思うし、何かを込めて踊るということも大切だと知りながら。

どちらにしても観終わって何も残らないようでは、脳天気。

現実が虚構を遥かに凌駕するいま。少しぐらいの悪意では足りないのかもしれません。
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2018年05月05日

子どもの日

わたくし、生まれも育ちも兵庫県であります。

伊丹市で産湯に浸かり、喘息で死にそうになって川西市へと引っ越したんですわ。

幼き頃は、色白栗毛の可愛い子どもでした。

中一で早々とドロップアウトして、中三は毎日遅刻とサボりの日々。校則無用で酒にタバコに剃り込みに中ラン、ボンタンでした。

そんなわたくしに行ける高校などあるわけがなく、越境入学で大阪の名門不良高校へ行かせて頂きました。

この高校は、井筒監督の映画『ガキ帝国』のモデルになった高校です。

大阪梅田会といういまでいうと関東連合みたいなもんですが、梅田会の幹部が沢山いて皆んなピストルを持ってたとか。

うちの高校は空手部と応援団がなかったんですが、どちらもリンチで死人が出て廃部になったとか。

ちなみに応援団は日本大学応援団の団長を毎年輩出してたとか。もったいない。

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中学で副番長を務めていたわたくしですが、そんな大阪の高校はレベルが高く、その中でもオール巨人師匠とか赤井さんとかサッカーの金田さんとか浪商の牛嶋さんとかは伝説の不良です。

わたくしはすぐに平民になりまして、毎日学校をサボって映画館通いの日々でした。

映画にはいっつも助けてもらったから、いつか恩返しをせねばなあ。

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親友のミー君とマー君と。

続きは明日。
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2018年05月06日

にほんけんぽう

高校時代は、日本拳法部に在籍していました。

日本拳法はよく日本憲法と間違われますが、剣道の面と胴をつけてボクシングのグローブをはめて殴り合うという日本憲法とは似ても似つかないシロモノです。

ちなみに投げ技もあるので空手のように腕を出しっぱなしだと、取られて投げられるので要注意です。

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一応、黒帯です。得意技は直蹴りです。押忍。

在籍してましたが、毎日サボってました。

先輩に見つからないように、悪友の宮崎堅一と裏のフェンスを乗り越えて毎日、梅田に遊びに行ってました。

そんな不真面目な部員のでしたが、部自体は有名な強豪で7年連続日本一でした。押忍。

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日本拳法部の合宿で仲間と。

部長は松村先生で六段とか七段とか。揉み上げがいかつかったなあ。

ボクシングの世界チャンピオン渡辺二郎さんはいまはやくざになってはりますけど、日本拳法の先輩です。

身長が低いのに、体重無差別で闘う日本拳法の五段とか六段とか。梅田で一回見かけたけど、いかつかったなあ。

ちなみにうちの学校は、退学がなくて3年間で100日も行ってないですが、無事卒業しました。

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男前のじろべえと。じろべえを待って校門に大量のJKが出待ちしてました。

高校では流行りの無気力を装ってたわたくしですが、卒業してデザインの専門学校に通い始めると久原鉄秀という良き兄貴分、そして良きライバルが現れたりして、段々と燃え上がってくるのでした。

続きは明日。
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2018年05月07日

絵について

絵を描くのは、こどもの頃から大好きだった。朝早く起きては絵を描いてた。上手いとも評判で。

小学5年の時に先生に、けなされて低評価で悔しくて。そこから段々絵を描かなくなった。

「絵なんて赤ん坊の頃から、誰だって描いてるもので、それに点数とかつけるからおかしくなるんだよ。」

なんてわかって来るのは20歳過ぎてからで。嫌になった。自信をなくした。

中学の時に宿題で”風景を描け”というのがあって宿題なんてやったことのない人間だったから、持っていた大瀧詠一さんのアルバムのジャケットのイラストを模写して提出した。

そしたらスゲー褒められて校長室の前に長いこと飾られてて恥ずかしかったなあ。

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ⒸHiroshi Nagai Penguin studio

「いやいや真似しただけですから。」って。

いまだったら、「これはトレースと言いまして自分の身体をメデュームにしてオリジナルが憑依してて。」とかなんとか、かんとか言うのだろうけど。

高校2年ぐらいの時に友達に誘われてデッサンの教室に通い始めて褒められたりして、ちょっと真剣に美大というものに興味を持ち始めたのだけど、時すでに遅し。

なにしろ勉強の”べ”の字もない奴だったので当たり前のように落ちました。

いまなら「一生勉強です。」とか言うけれど、あの頃はわかってなかったなあ。嫌いだったのか。いまは学ぶのが大好きなのに。

興味のあることが他にあったのか。勉強する意味わかってなかったんか。

いまはたまに反省したりもするけれど、あの頃の自分は自分で結構真面目に悩んでたように思うな。たぶん。

甘かったな。

しかし甘さの中に旨味はあるらしいので良しとするか。

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淡路の海でパチリ。
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2018年05月08日

鉄秀

自分の頃は専門学校というと、やくざにはなれないけれど真人間にもなれない。というようなひとが行くところ。というイメージ。要するにどこにも行けない人。自分です。

しかし行ってみると、四国の不良でお父さんもお母さんもいない天涯孤独の身でおばあちゃんと泥棒で食べてたという奴がいたり、

有名な暴走族のリーダーで、でもおかんがメチャメチャ怖いので、朝飯食べる時におかんから見えへんほうだけ、髪の毛ムラサキにしてた男とか。

面白い奴がたくさんいて、よく一緒に遊んだ。

あとは久原鉄秀ですね。この人は東大阪のほうの不良で歳はひとつ上なんですが高校の時にダブってるので同級生。

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@ ザ・スズナリ。photo by bozzo

初対面の時に「お前、夢なんや?」いうて聞いて来はったぐらいにアゲアゲな人で。

課題が出て皆んな新聞紙ぐらいのB3サイズを一つ持って来てる時に、B全という畳ぐらいの作品を何枚も持って来たりド派手なパフォーマンスを繰り広げてた。

専門学校を卒業して入ったカプコンで麻雀ゲームの部署に配属されたのを知ると、ビルの最上階の社長の部屋にいって、

「俺はこんなことやるためにカプコン入ったんちゃう!!」

いうて怒鳴り込んで別の部署にかえてもらったり、ゲーム会社でも暴れてたみたいです。

やめてアムウェイ始めてからも、イケイケでパールだかなんだかになってました。

この頃は、アムウェイやれやれうるさいので縁を切ってた。

鉄っちゃんとはいまも仲は続いてて、大駱駝艦の本拠地壺中天で『遊機体』という作品を一緒につくったり、今年の1月にも禅問答ライブやったりしてます。

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『遊機体』@ Morishita studio, 2013. photo by bozzo.

そんな鉄っちゃんに「冷めとんな。お前は青き冷め夫じゃ。」とか挑発されてるうちに、何故か「俺は東京に行ってセツいうところに入るんじゃ。」となっていくのです。
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2018年05月09日

JOKE

友達は皆んな鉄秀の影響を受けてカプコンに就職したけど、わたくしは右向け右みたいなのが嫌なので行かなかった。

けれど「これをやりたい!」みたいな思いもなく。

デザインの学校だからデザインの会社に行くか。ぐらいの気持ちで一社だけデザイン事務所を受けた。

すると何故か社長に気に入られたようで受かった。

大阪平野町にあった『オフィス・ジョーク』。社長の田井中さんと右腕の森さんでやっている二馬力のデザイン事務所。

田井中さんと森さんは大阪のヤラカス館で出会った。

ヤラカス館は明治29年から続く老舗広告代理店。意気投合した二人は、まあもし潰れても「冗談、冗談。」いうて独立してジョークを始めはったらしい。

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ジョークは惜しくも2015年に解散。お別れ会の後で。一番前のサングラスが田井中さん、前列右が森さん。

ジョークは、17時になったら飲みながら仕事して、そのあと毎日どこかへ飲みに行くという会社で、お酒の飲み方をはじめ色々なことを厳しくも楽しくしっかりと教えてもらいました。

デザインのほうも才能があったみたいでメキメキ頭角をみせ田井中さんに「5年おったら日本一のデザイナーにしたるで。」いうておだてられてたけど、上京の夢捨てきれず。

「上京して絵描きになります。デザインは二度とやりません。」いうて2年たらずで退職。

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でも結局、上京してデザインやって糊口をしのいだり、大駱駝艦に入ってからもワークショップや合宿・壺中天公演のチラシのデザインをずっとやってしまう・・・

「田井中さんごめんなさい!」

退職金をたしか何十万かもらって、車を買うか東京行くかで迷って「いやいやあかんあかん。」と東京に行くことにしたのでした。
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2018年05月10日

東京へ

1980年代というとイラストレーションが時代の最先端という頃で安西水丸、ペーター佐藤、吉田カツ、鈴木英人、原田治、矢吹申彦、河村要助、黒田征太郎。

わたくしが模写した永井博、ヘタウマの牽引者、湯村輝彦なんかが前線を走ってて。

生頼範義、西口司郎なんていうリアルなイラストを書く人もいて。

和田誠、宇野亜喜良は世代は少し前で。日比野克彦が活躍しはじめた頃か。
(敬称略)

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ⒸKatsu Yoshida

専門学校でイラストを勉強し始めてたのでめちゃめちゃ意識した。

学歴がなくても、実力だけで有名になれる。みたいな世界。

そんな時、東京にプロのイラストレーターを次々と輩出しているイラスト梁山泊のようなところがあると風の噂が流れてきた。

その名はセツモードセミナー。
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早速調べて資料を取り寄せた。と思う。そしたらなんと試験はなくて入るのは抽選だと。

試験官の主観が入らないある意味公平な入れ方。たしか4月と9月、年に二回抽選があった。

そして9月の入学を目指して、選ばれるかどうかわからないのにとにかく上京。若気の至り。

8月終わり、風力3、晴れ。

靴下に数十万ぶち込んで、東海道線で時間をかけて一路東へ向かったのです。
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2018年05月11日

東京と世界

しかし東京というのは、人間の住むところではないとしみじみ思います。

人は多いし、人間のつながりも弱いし。ごみごみしてて殺伐としてるし。

たまに大阪へ帰るとホッとする。人情に厚くて。道を聞いたらその場所まで案内してくれたり。お金を取られるのではないかと不安になるぐらい親切。

そういえば、サンフランシスコも人が温かかったなあ。だいたいどんなところでも南に行けば人は温かくなり観客の反応も熱くなる傾向にあります。アメリカは10都市以上回ったが同じ印象を受けた。

そしてだいたい空港から一歩出れば、そこがどんな街かわかります。歓迎されているかどうかもファーストインパクトでわかる。最初に話す人の態度とか。

インドはものすごい歓迎してくれてた。空港でたらフェンスにつかまってスズナリで出迎えてくれて。これはちょっと違うか(笑)

ニューヨークは冷たかったなあ。東京と似てた。パリも油断ならない。一回騙されました。

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マドリードで買ったポストカード

マドリードとバルセロナは京都に似てる。どこが?と問われると困るけど強いていえば空気と水。

タンジェはちょっとパリに似てたか。メディナで道に迷って行き止まりにおばあさんがいたので道を聞いたらお金を要求された。100円ですが。

ソウルは安っぽい秋葉原。北京は偽物の秋葉原。シンガポールは偽物のヨーロッパ。

香港は九龍城が良い感じだった。台湾は面白かったなあ。これは感想だけど。人も良い感じでした。

ああでも韓国では盗難にあいました。国立の劇場の楽屋。高額の金には手をつけずにわからない程度に盗まれてた。打ち上げまで誰も気づかなかったぐらい。プロの仕業。

リオの人が物静かだったのは意外。治安も全然悪くなかった。サンパウロは日本人街がどでかくてびっくり。歴史を感じた。

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サンパウロの市場にて

テルアビブも静かだった。テロで亡くなる可能性は自動車事故で亡くなる可能性より低いとか。でもエルサレムは怖かった。

結局、アフリカからヨーロッパへと陸路で抜けようとすると必ず通らなければならない要所を聖地と称して三兄弟が取り合っているという図式なのだと感じた。

メキシコシティは、、、やめておきます。参考までにいっておくとメキシコは世界で一番誘拐の多い国。

そうやって考えると東京は平和。いま住んでいる西東京もとっても住みやすい。なんだかんだで、もう30年以上住んでるもんな。東京。

人生50年。3分の2は東京で過ごしたことになる。

そんな東京の話しは明日。
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2018年05月12日

向雲太郎

たぶん大阪駅から電車に乗ったのだろうけど覚えてない。

覚えているのは実家から出て、坂を下って行くところ。

晩夏の太陽の中 人は誰にも知られずに たった独りで泣くこともあるのだ

泣いてはいないけど。

東海道本線で紀伊半島を周って、米原とか豊橋とか浜松とか何回か乗り継ぎしながらガタゴトと電車に揺られ。期待と不安に胸をふくらませ。途中二泊くらいしたような・・・覚えてないな。

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神田あたりでビルが見えてきて、東京から新宿へ向かった。たしか大久保のビジネスホテルつばくろとかいうところにまずは泊まった。

そして歌舞伎町へ遊びに行った。コマの前の地下に降りていく店でぼったくられた。

二、三日新宿にいたのか。このままでは所持金がなくなると、アルバイトニュースを買って3食飯付き寮完備とかいうところに電話した。

池袋に来い。というので行って待ってたらワゴン車が横付けされて乗れと言われて。

そこから二、三時間車に乗ってどこかわからない風が吹きすさぶ荒野で降ろされた。車はわたくしを置いて走り去ってしまった。

少し待ってたら人が来て、部屋に連れて行かれた。職長の部屋だとかなんとか。『バリバリ伝説』が全巻揃ってた。

しばらくしたら職長が来た。もの凄いリーゼントで「どうぞ夜露死苦。」そんな感じ。

そこから大部屋に連れて行かれて、荷物を置いたらすぐに働き始めた。工場でチョコレートをつくる仕事。

といっても機械が全てやるので人間がやるのはスイッチを入れたり、カカオを入れたりとか単純作業。最初は流れてくるチョコの選別をやった。欠けてるのは、はじいて。

まだ明るい時間に終わって寮に戻ってた。洗濯したりシャワー浴びたりマンガを読んだり。ここで二曹式の洗濯機を初めて使った。

二段ベッドがずらりと並んでて、真ん中にスペースがあって巨大なドミトリーみたいな雰囲気だった。大部屋なので他にも色んな人が沢山いて面白かった。20人ぐらいは居たのかな。

しばらくしたら少年院出たての北海道の男の子と仲良くなった。ドアが壊れたシャコタンのクラウンに乗ってた。

むしゃくしゃすることがあったとかで「クソー!!」と思いっきりアクセルを踏んだら、ギアがバックに入っててドアが木にぶつかって開いたままになったと言ってた。

彼は、夜中に事務所に忍び込んで北海道の彼女に電話してるのが見つかってクビになった。いまどうしてるかな。

あとは刑務所出たての人もいたな。この人に近所のスナックによく連れていかれた。

そこが神奈川の茅ヶ崎というところだと知ったのはいつだったかな。

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そういえば2000年代になってから養子になって本名が変わるのですが、1980年代の本名は、向井研治。

しかし家を出て親元を離れるのだから、親につけてもらった名前は捨てようと決意。

セツモードセミナーに入ってから“向井雲太郎”と名乗り始めた。

大駱駝艦に入ってから、麿さんに「芸名をつけてください。」とお願いしたら「むかいくもたろうってのは良い名前じゃないか、向に雲太郎だろ。」と言われて、なるほど“井”は要らないのか。とそこから“井”をなくした。

そんな師匠と出会うのは、まだまだ先の向雲太郎のお話でした。
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2018年05月13日

blog?

そんなつもりはなかったのですが、なんだか生い立ちを語る。みたいになっています。別にいいのか。

そもそもブログとは何だろう?

インターネットで公開する“雑記”のような“日記”のようなという認識だったけれど。

百科事典マイペディアによるとWウェブログ(Weblog)の略称で、日々更新される日記型個人ホームページの総称”か。

だいたいあってる。

日記は、20歳ぐらいから書いています。子どもの時から書いている人もいるのに時すでに遅し。だけど「いまがいちばん早い時。」と意気込んで書き始めた。それから約30年書き続けている。

ノートにして100冊近くになってい
る。作品ごとにノートをつくってるから全体ではもっとあるのか。

いまは万が一、人に見られる可能性を考えて書いていたりするけれど、昔は全く気にせずに書いていたので恐ろしい。死後発表とかされたら恥ずかしい。そう恥ずかしいことを沢山書いている。

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いまたまたま1992年12月15日の日記があります。

「いよいよ出発。日本でとりあえずは、自分のやるべき事をやっている仲間の事を考えると、少し後ろめたい気もするが、隣のカワイイ女の子を見るとそんな事も忘れてしまう。」

うーむ。これはまあいいか。セツ時代にニューヨーク近代美術館にマチスの大回顧展を観に行った時の話だな。

当時のニューヨークは・・・その話はまだか。

20代の雲太郎は、依然茅ヶ崎のチョコレート工場で働いている。

近所のスナックには、めちゃめちゃ美人な女の子とタヌキに似てて前歯が2本ない女の子がいました。

皆んな美人さん目当てで行ってたけど、わたくしはタヌキさん派だった。

喋るとスースー空気が抜けて可愛かった。一回、横浜ドリームランドでデートしたなあ。それっきりだったけど。

同僚に、背の高いもの凄い馬面のおじさんがいた。

休日にベッドで寝転んで本を読みながら笑ってるので「何を読んでるんですか?」と聞いたら、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』だったのでびっくりしたのを覚えている。

他にも免停中の東京タクシーの運転手とか(この人は男前でウィンクの片方と付き合ってるだか付き合ってたとか言ってた。タクシーは、そういう人と知り合う機会が多いとか。)

劇団ひまわりで子役として活躍してて、いまは自分の劇団の借金を返すために働いてる若者もいた。

居心地がとっても良くて、2ヶ月ぐらい働いたのか。そうこうするうちに多分セツの結果が出たのだと思う。

家に電話したら母親が、なかなかその話をしないので聞いたら「今回は残念ながら・・・」速攻電話を切って。

このままではダメだ。と決心して茅ヶ崎をあとにしてさてどうするか?

どうしたのか。覚えてないな。。あー沖縄に行ったな。

その話は明日でいいか。

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最新の日記。photo by 2019.04/19.
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2018年05月14日

それからどうした

たしか茅ヶ崎のチョコレート工場で働き始めて1ヶ月ぐらいで、セツモードセミナーの抽選結果が出たのだと思います。

でもそこからグズグズと居座ってたのは、居心地が良かったというのもあるけれど、チョコレート工場の女の子と付き合い始めたというのもありました。

「これではいかん。」と再びアルバイトニュースを買って、今度は東京のデザイン事務所に応募した。

大阪のデザイン事務所、オフィスジョークの田井中さんに「二度とデザインはやりません。」いうて宣言して上京したのに。なにをやっとんねん20代のおれ。

事務所の近くの高円寺にアパートを借りて。彼女とは遠距離恋愛を続けてたけど、この頃に沖縄へ行くとわたくしが言い出したので「こいつはダメだ。」と見切りをつけられた。

江ノ電のドアが閉まって永遠のお別れ。

そういえばデートのあと雨の中、帰れなくなって。

駅のベンチに傘をさしてひとり座って、うとうとしてたら“にゅーっ”と手が伸びて来て足首をつかまれた。

女性の手だったのを鮮明に覚えてる。

沖縄へは、喜納昌吉さんのライブのお手伝いに行った。そうかそれを知ったのは高円寺の沖縄居酒屋“抱瓶"でだな。

いまは二階建てになり沖縄にも店を出して大繁盛店です。

わたくしが通いはじめた頃の抱瓶は、当時高校生の光太郎と同じく高校生のポンゲの二人がやってる、店の半分電気が消えてて客はわたくしだけという店だった。

いまや光太郎は、沖縄店の店長でポンゲは、高円寺店の店長です。

住み始めた西川荘の通り道にあってほぼ毎日通ってた。

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抱瓶創業者、故・高橋淳子さんの自伝が好評発売中。朝ドラでやったら面白いと思う。

抱瓶で喜納昌吉がライブのスタッフを募集してるというのを知って、彼女と別れて沖縄に行った。迷走してるな。おれ。

東京からフェリーに乗って行って、船の中でいろんな興味深い人と出会った。

沖縄には1週間ぐらいいたのか。喜納昌吉さんは伝説の不良で話すと面白かったが“愛と平和”を歌うカリスマの下で、弱いものいじめをするスタッフに幻滅。

東京に帰って来て再び高円寺のデザイン事務所で働き始めた。のかな。記憶が前後してるな。沖縄に行ってから高円寺で働き始めたのか。それだとつながらんな・・・まあええか。

高円寺のデザイン事務所は社長がめちゃめちゃ嫌なひとで、いまでいうパワハラ男だった。

何かというと高圧的に対してくるので何回も喧嘩した。けど意地でやめなかった。

ジョークで鍛えられたデザインの腕前が良かったから、だんだんと認められて何も言われなくなった。

どれぐらいいたのか。「これではいかん何をやってるんだ。」と、ふたたび奮起してセツに申し込んだと思う。しかし2回目も抽選に外れ。そのあとも高円寺で働いたな。

半年待ってもう一度申し込んで。するとなんと3回目は抽選ではなくて自動的に入れるシステムだった。3回も申し込んでくる意気込みを買うのか。

とにかく晴れてセツモードセミナーに入学できたのだった〜٩( ᐛ )و
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2018年05月15日

セツモードセミナー

やっと上京目的のセツに入れました。

入学金とか学費を払うために、江東区辰巳にある西武運輸でバイトをはじめた。

セツは昼もあるのだけど、わたくしはバイトの後に行くので夜間だった。

ファッションの学校だからお洒落するみたいなのが嫌いで、わざと西武運輸の汚い作業着でそのまま行ってた。

セツは寺子屋みたいな長沢セツ先生の私塾で、1954年ファッションイラストの先駆者だったセツ先生に若者が「絵を教えて下さい。」と押しかけたのがはじまりです。

わたくしが通ってた頃は、新宿曙町のシャトーみたいなかっこいい5階建ぐらいのたてものでやっていました。

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卒業式の後で。俺はどこにいるでしょうか?

松岡正剛さんの長沢セツについて的確に言いあらわした文章が出て来たので、以下すこし引用させていただきます。

長沢節に三段論法がある。「あの人は弱いから綺麗」「あの人は弱いから好き」「あの人は弱いからセクシー」。フラジャイルな官能宣言もここまでくると、感服する。

セツは(以下、このように称ばせてもらうけれど)、セツは、男が強がることや、男の強がりを徹底して嫌っていた。

男は孤独で弱いからこそ男なのであるとみなしてきた。それには、できるだけ他人に重さを感じさせないようにすること、そのために自分をできるだけ細く軽くしておくこと、それが長沢節の生涯譲らない美学であった。

人間の愛やコミュニケーションがプラスとマイナスで引き合うことや、愛や恋愛が過剰になることについて、セツはまったく関心がなかった。

そうではなくて、むしろマイナスとマイナスがふと引き合う時が最も美しく、真の優しさが生まれるとばかり考えてきた。

こういう感覚の持ち主は、むろん世の中にはそこそこいるだろうけれど、長沢節ほどに徹底したのはめずらしい。

しかもセツはその美しさを世に実在する男女の風姿に求め、その理想をたえずドローイングや文章で表現しつづけたのだ。
〜松岡正剛の千夜千冊 1543夜『弱いから、好き』https://1000ya.isis.ne.jp/1543.html

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自分のスタイルを貫き通したセツ先生

もっともっと評価されてしかるべきひとの一人だと思う。だいたい日本人は誰かが評価しないと認めることが出来ない民族で・・・やめておきましょう

こうやって読んで考えてみるとW世の中のそして自分の常識を疑う”という心は、舞踏から学んだのかと思っていたけれど、セツモードセミナーで既にセツ先生から学んでいたのだ。

川久保玲、山本耀司が出世頭だけど、イラストレーターはもちろん無数に、そしてファッションデザイナー、漫画家(モンキーパンチが有名だけど今調べてたら桜沢えりかさんも通ってたらしい。)

亡くなられた樹木希林さんが通っていたり、いろんな人がセツ出身だったり一時期通っていたりする。

そんなセツモードセミナーだけど、2017年4月に惜しくも閉校してしまうのでした。
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2018年05月16日

セツモードセミナーパート2

セツモードセミナーのことはほとんど忘れてしまったので、検索したサイトの情報を参考に進めます。

〜入学すると、新入生は1Q生となり、新入生のみで石膏デッサンや顔のデッサン、水彩画の授業を受けます。

なるほど。そう言われるとやってたな。この時一緒にやってた人たちが同Q生で山本裕司さん、水野健一郎とは、ここで知り合った。山田うんちゃんのお兄さんが同Q生にいて「妹がダンスをやってる」と言ってた。

〜そして、半年毎に全員が自動的に1級ずつ昇級します(昇級試験や飛び級はありません)。2Qから上級生や研究生と合流し、クロッキー(フランス語で「カリカリ描く」の意。時間をかけるデッサンとは違い、制限時間10分でモデルを素早く描きます)と水彩画の授業が中心になります。

ほおほおなるほど。ここにはセツ先生も参加してたな。

〜「卒業まで2年間」という期限は決まっているものの、学費さえ払えば自分の気がすむまで学校に来て良い、というのがセツの方針でした。そのため、10年前に卒業したOBが、意心地が良いのでそのままセツでバイトをしているという光景も珍しくなかった。

なるほど。セツゲリラなんてのもあってかっこよかった。

そしてわたくしが行っている夜間は、年上の社会人が多くて面白かった。皆んないろんな仕事をしてる人たちで刺激も受けた。

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上Q生の故・福田さんと。

合評ってのがあって、書いた絵にAが最高でBとかCとか評価をつける。これは評価する先生の価値観に左右されるわけで、いい評価を受けるのはセツ風とでもいうのかだいたい決まってた。

王様がいてその人のお眼鏡に叶うようにする。大昔からどこでも同じで、現代はその価値観がバラバラすぎて大変でもあり面白くもあるのだろうけど

文句のある奴は自分でやれの世界なのだからそれでいい。

実際、水野健一郎はセツ先生に「君の絵は、うちの画風とは違うけど面白いから、自分ひとりで書いたほうがいい。」とアドバイスされていまに至る。

年に一回だったか半年に一回だったか、セツアート大賞というのがあって、全校生の中から一人選ばれるのだけれど、同Q生の宮崎ケンゴが大賞を受賞して衝撃を受けた。

悔しかったけど、とっても良い絵だった。

よし、俺も!と奮起して頑張った。枚数を描いたのだと思う。次の回だったかな、大賞をとった。でもこれは完全に賞を取りに行った作品だったからいま思い出しても苦いというか恥ずかしい。

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セツアート大賞授賞式でセツ先生と。恥ずかしい作品と。

賞品でセツ先生の絵をもらったのだけどどこかにいってしまったな。実家にあるのかな。

このあたりから絵で売れたいと本気で思うようになってくるのでした。
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2018年05月17日

絵で食うのだ

セツに入った頃からイラストではなくて、今でいうファインアートの道に突き進んだ。絵で売れる、絵で食べる。

そんなこと本気で考えていたとは。甘いな、20代のおれ。

一生書き続けて、とうとう売れずに耳を切って死んでしまう。ってな世界で。

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当時住んでいた高円寺の西川荘にて。

昼はバイトして帰って来て絵を描く。毎日毎日、ひたすらその繰り返しだった。

当時はアメリカでバスキアが活躍してた頃で、グラフティに憧れて制作してた。

絵に点数をつけるような世界から遠く離れて、自由にもっと自由にともがき続けた。そしてそれで食べるのだ。それしか考えてなかった。

大昔から綿々と続くパトロネージュのこととか、「食べさせて頂く」という乞食の覚悟と穀潰しの自覚を悟る大切さ。

なんてのを本で読む知識として頭で分かってるだけで、今のように身に沁みては解ってなかった。

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画材ってのは高いのでたいへんだった。

そんな生活を二、三年続けた。頑張ったけどあかんかったなあ。煮詰まってた。でも限界までは行ったのか。。

いやいや、いまだに続けてる友達のことを考えるとケツを割ったんだな。逃げた。麿さんの名言に「逃げろ!」というのがあるけれど、それも運命か。

逃げ続けた人類がいま生き延びて繁栄してるということも、、いや言い訳だな。

いまならわかる。実力の世界ではあるのだけど、運と縁も必要なのだと。

そして一生やり続けることの重要さ、続けられる幸運と、何がなんでもという執念を燃やし続けられるかどうかの勝負であって、倒れても倒れても起き上がりまた前へすすむ。

その生き様に人は胸を打たれるのだと。


どこかの生命保険会社だったか。審査委員長が池田満寿夫さんの公募展に作品を出して、グランプリではなかったけれど賞をもらった。

当時池田満寿夫は絵の値段ではわからないけれど、トップを走ってた。というわたくしの印象。本当のところは知らなかったけど。

新宿の高層ビルの最上階で授賞式があるというので行った。

エレベーターに乗って、最上階についてドアが開いた時、真っ正面に池田満寿夫さんが座ってた。

その姿が、なんというか。他人のことをとやかくいうのは良くない。のですが。。当時の感想です。

みすぼらしくて、なんだか冴えなくて。ごめんなさい。がっかりしてしまった。いや強烈なショックをうけたのを覚えてる。

「これが日本のファインアート界のトップの姿かあ。。。」

いまだったらわかります。別に格好とかそんなものは全く関係ないと。でも夢を食べて生きてる青二才にはわからなかった。

わたくしはエレベーターの“閉まる”のボタンを静かに押して新宿の雑踏を通り、そのまま高円寺のアパートへ帰ったのだった。

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誰の撮影か。能天気なおれ。
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それからどうしたパート2

夢破れて山河あり。漂えど、沈まず。しかし船はすすむ。

それからどうした。

ただバイトを続けて。絵もなんとなく書き続けてたのか。

適当に遊んで。女の子と付き合ったりして。酒を飲んで酔っ払って。そういえばこの頃、風呂屋で刺青者と些細なことで喧嘩になって、風呂屋の裏の駐車場でファイトしてKOされた。

そうこうしているうちに、土方巽の名前を知った。のかな。

セツ時代にウィリアム・バロウズを知り、そこからビートへ行って、ジャン・ジュネを読んだりして、SWITCHが愛読書で。

マンガでは、狩撫麻礼先生の『ボーダー』を愛読してた。バイト終わりに独りで高円寺のアパートでボブ・マーリーを聴きながらワインを一本空けて泣いたりしてたな。

弱っとるなおれ。そうして次回作の『天使派リョウ』のなかに土方さんが出て来たんだな。

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土方さんの写真集のカタログ。やっぱり本物は格好いいなあ。

「なんなんだこれは?」

でもその時は、少しひっかかったくらいで。

また退屈な日々が流れて。

縁があって当時、板橋にあった大駱駝艦の稽古場の公演を観に行った。いま考えると導かれてたのだと思う。けどその時も「ふーん。こういうのもあるんだ。」てな感じで。

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『若衆』公演の半券。

またバイトの日々に戻って。何やってんだろうなおれ。と毎日考えてた。と思う。進退極まった感じ。完全に行き詰まってた。

1ヶ月後の或る時。一枚のチラシが出て来た。

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運命のワークショップチラシ。

それは、大駱駝艦のワークショップのチラシだった。

完全に行き詰まってにっちもさっちも行かない現状を打破するには、何かしら思い切った踏み込みが必要不可欠だった。

大駱駝艦の事務所に電話をした。

「3月18日においでください。」とかなんとか言われたのだと思う。覚えてないけど。

1994年3月18日、板橋駅に降り立ってそのまま稽古場へ向かう勇気がなくて、まずは途中の中華料理屋に立ち寄ってラーメンを食べた。

のかな。何を食べたか忘れた。もう辺りは暗かったと思う。迷いながらも行き着いて。稽古場がさらに真っ暗な路地の奥にあって恐ろしかった。

ドアを開けるまでしばらく躊躇したと思う。いまだったら引き返せる。そんなことを考えながら。
それでも、勇気を振り絞って恐る恐るドアを開けたのだった。

それは、新しい宇宙へと広がる扉。

そうしてわたくしは、とうとう舞踏の門の中へと足を踏み入れたのだった。
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2018年05月18日

超越サラブレッド

先日、鉄割伝説の裸役者・山内に誘われて、戌井くんの家にお邪魔してお母さんの則子さんに日本舞踊のお稽古をつけてもらいました。

名取試験で踊るとかいう曲をいきなり習いまして、たいへんに難しかった。けど面白かった。

則子さんは日本舞踊の名取でして流石、踊る姿がとってもカッコ良かったなあ。

お稽古の途中で花代さんという方がいらっしゃって、中村水絵さんも登場。

水絵さんは、鉄割がまだ四畳半オアシスだったころ、(山内が現役だった20年以上前!)から観ているそう。

いまはリトルモアから独立して“HeHe”という素敵かっこいい出版社を立ち上げてらっしゃる、とっても男前の呑んべえさんです。

そういえば、HeHeから作品集を出されている川内倫子さん

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川内倫子さん撮影の化粧品のどでかい駅貼りポスター。

その川内さんが1998年にGuardianGardenで行った個展のポストカードを持ってるのだ。自慢。
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第9回写真「3.3u展」グランプリ受賞者個展ポストカード

そして、花代さんってどこかで聞いたことあるなあ。と思って記憶を探ると一枚のフライヤーがあらわれた。本人に聞いたらやっぱりそうだった。

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花代さんの1995年のNew Single"Dang Dong"のフライヤー。

以前も書きましたが、わたくしは結構なファイルマンでして良いなあと思ったチラシ、ポストカード、冊子なんかを捨てずにファイルに入れて大切に保管しているのです。

つながっていく、過去といま。

花代さん、まだまだ未知数な感じ。元祖不思議少女か。和と洋が混沌としてパンク魂が奥の方でうずうずして中指たててるような。

稽古終わりで、お父さんの戌井祐一さんも合流して宴会になりまして。

祐一さんは、戌井昭人『まずいスープ』のモデルになった方でその遍歴は、とてもここで書き切れるような代物ではないのですが。

最近小説を読んだ人たちに言われるのが「小説よりも実物の方がぜんぜん面白いね。」だそうで、先日もいろんな話を聞きましたが、面白かったなあ。

ちなみに祐一さんのお父さん、昭人くんのお祖父さんが、文学座の創始者・戌井市郎右衛門さん。

この破茶滅茶なお父さんからおもしろ英才教育を子どもの頃から受け、お母さんからも子どもの頃から日本舞踊を習い、人間国宝・初代 喜多村 緑郎の血を受け継ぎ、サラブレッド・戌井昭人が生まれたんですな。

ピカソや黒沢美香さんと同じだな。伝統から破茶滅茶への進化というか逸脱というか花開くアバンギャルドな遺伝子。

最近、思うのですがわたくしたちの商売は、いかに社会の常識を疑うかの勝負でして言ってみたら“変なこと考えるオリンピック”。

変なことを考えれば考えるほど、社会の常識を超越していればいるほど皆んなに喜ばれるという商売で、面白いことを考えつくためには、まず自分が面白い人間にならねばならないのだ。

戌井君とは、1999年の風煉ダンスという野外劇で出会うのですが、20代のわたくしはまだそこまで行ってなくて、舞踏の門に足を踏み入れたばかりのところなのです。

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2018年05月20日

舞踏ノ門

あなたはいま 舞踏ノ門の前に立っている 上手い下手などどうでもいい うごけないとか 体型がどうとか関係ない もがいても もがいても それでもどうにもならない束縛と戯れてしまいましょう

アソビ あそび 何もかも遊び
真面目で真剣で命懸けの

こけたっていいですよ 何をやってもいいが 何もしなくてもいいし 何も出来ないかもしれないがそれでいい 間違っていても 下らなくても 適当で好い加減でもいい 間違いなどない 誰かが決めた価値観などクソ 糞真面目などクソ

ぺろりとした滑稽でチープなおもしろさを デロリとした下手糞で混沌とした世界の愉しさを ギロリとした野蛮で原始的な格好よさを思い出せばいいのに

うごくな! 何故うごく? 踊ればいいのですよ では踊りって何だ? 何も考えるな あたまをカラッポにせよ 阿呆になれ もっともっと もっと! カラダもカラッポにせよ うごくのではない うごかされるのだ 生きているのではない 生かされているのだ どもるように踊ればいいでしょう カラダは勝手に語りだしますよ 

生まれたことが既にもう才能だったのに 教育などで身についてしまった常識や社会的通念は 才能をどんどん奪って逝くのだ

味のしない ぺらぺらの 乾いた毒にも薬にもならない 匂いを抜かれた 害の無い 善い人間に成ってしまった?

あっは! 才能を取り戻せ! 常識を疑え! ほんとうにそうか? ほんとうか?

何事にも最初がある そして何を始めるにも いまがいちばんはやいときなのだ 仮想の二次元を見て満足できるほど あなたへの世界からの圧迫は少ないのか?

いまの日常を変えるには なにかしら思い切った行動が必要なのだ 時には自らの全存在をかけて 自己実現へのアクションを起こしてみるのもいいではないか

思い切って門の中へ足を踏み入れてみるといい

その一歩はまさしく 無尽蔵な可能性を秘めた

新しい宇宙への第一歩になるだろう!

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Calligraphy by Kumotaro Mukai
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 07:02| ブログ?