2018年10月31日

言葉について

日本語ってなんだろう?だいぶん前にテレビで日本語について考える番組を見た。いまの若い人が方言を喋らなくなっているという内容だった。恥ずかしいのだな。

いわゆるテレビの中で使われている言葉”標準語”を喋りたい。そういう気持ちなんだろう。俺は東京に来てからしばらくは関西弁を喋っていた。

高円寺の風呂屋で殴り合いになったのも原因は言葉だった。関西弁を馬鹿にされたのだと思う。

子どもの頃、淡路島に行くと東京からいとこの浩幸くんというのが来るのだけど、東京弁との戦いで影響されて喋ってしまうと気持ち悪くて恥ずかしかったのを覚えている。

テレビの影響で標準語を喋る人たちを”モノリンガル”というのだそうです。だいたい30代まで。

俺のようにどちらも喋れるのが”バイリンガル”。30代から60代。いっぽうで方言しか喋れらない人たち、70代から上の世代がいる。

いま、子どもたちとおじいさんおばあさんが話せないらしい。言葉が通じないから、コミュニケーションを取れない。そこで潜在話者と呼ばれる、間の俺たちの世代がとても大切な役目を担うのだそうです。

でもまあ、関西弁ぐらいなら問題ないけれど、山形弁だとまったくわからなかったりするらしい。ましてや他国語だったらお手上げ降参状態。

そうするとコネクター、通訳的役割が必要になって来るのだな。シズとかジゲンが相手によって、パッと言語を切り替えるのが見てると頼もしくてかっこいい。どんなに知的なことを考えていたって、相手に伝えることができなければ仕方がない。

外に出す方法がない。幼児レベルでしか言葉を発することができない。ということは要するに知能が幼児レベルだということとイコールだと思う。誰にも通じない思い。考え。

コミュニケーションってなんだろう。言葉によるコミュニケーションが全てではない。けれど大切な手段のひとつであることは確か。シティで迷子になったときはもうダメかと思ったもの。

知ってる言葉が「ありがとう。」だけ。道を聞くことも、ここが何処かも訪ねることができない。『母を訪ねて3000里』の主人公マルコになった気分だった。「あー、このまま中南米で道に迷って、最後には南米の方まで流されてさまよって。」

めちゃめちゃに歩いてたら偶然もとの劇場に戻ってきて、安堵したけど危なかった。まあ万が一、日本に帰れなくなったら大道芸で食べて行くのです。

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骸骨とバカボンのパパ。「これでいいのだ。」
posted by Mukai Kumotaro at 11:18| 日記

2018年10月30日

子ども

エスパルと咲ちゃんには、子どもが3人います。毎日午後から稽古に参加しますが、まあ賑やかです。しかし子どもを見てると自分にあんな頃があったなんて信じられない気持ちになります。

嫌なことは嫌。と言うことを全く聞かない。心が自由なんだな。一時もじっとしていない。けれどその方が自然なんだろうな。人の目や教育や躾によって規定されてしまっている身体のうごき。

そんなこと関係なく自分の動きたいように生きる。そうすると怒られる。でも全く気にしない。決して懲りない。なんていうことを次男のジゲンを見てると思う。常にうごき続けてじっとしていない魂。

子どもというのは本当に遊びの天才です。常に遊んでる。木があったら登って、棒があったら持って振り回して、斜めの板があったらとりあえず乗ってみる。花があったら両方の鼻の穴に突っ込んでみる。これはミヤビですが。

あの遊びへの欲望と探求の心を大人になると忘れてしまう。からだのすべてを使って遊び倒すのではなくて、小手先の小さな遊びで満足するようになってしまう。残念です。

お姉ちゃんのシズちゃんは、そんな大人への階段をすでに登り始めている。美人さんなのでエスパル心配だろうな。

末っ子のミヤビはまだまだ赤ちゃんなところが残ってます。そういえば、咲ちゃんも3人兄妹の末っ子で、ミヤビの気持ちが良くわかるらしいです。放っておくと何処までも行ってしまう。

突然「ブルファナキソの人と結婚するから。」と言い出すなんてことが想像される。でも咲ちゃん的には「どうぞどうぞ。」な気持ちでいるらしいです。いいね。

ジゲンがそのまま大人になるとエスパルになる。ミヤビがそのまま大人になると咲子になる。そんなことが見てると想像できるので面白いです。

子どもを産めよ増やせよ。身勝手にそんな風に思います。しかしパツクアロというおおらかな田舎だから、子どもが3人いても平気なのかもしれない。日本で、とくに東京だったら3人なんてたいへんで無理なのかも。

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土方さんの前のエスパルとミヤビ。
posted by Mukai Kumotaro at 17:54| 日記

2018年10月29日

神楽から

今日から神楽舞に入ります。その前に今までの復習をしようということになり。やってみると意外と忘れているものです。

その日の調子や雰囲気によっても変化してくるので微調整します。目の前に見えるものを面白くする。ただそれだけ。

では、足りないこともあるけれど最終的にお客さんがどう感じるかは、本番になってみないとわからないこともあるので、適当にしましょう。

蛍光灯と無音でまあまあ面白かったら、照明と音楽が入ったら相当面白いと考えていいと思います。稽古場でどこまで創っておくのか。創りすぎると重たくなってガチガチのつまらないものになっている。なんてこともありがち。塩梅ですね。

ただ蛍光灯の方が面白かった。なんてことも起こるから不思議。明かりはまわりの雑多なものごとを隠して見えなくしてくれるので有り難いですが、観せるポイントを照明家がわかっていなかったら台無しになってしまいます。

今回、CEDRAMのテクニカルスタッフ・ジージョにたいへんにお世話になっています。ジージョの本職は照明でしてなんとメキシコで3本指に入る、有名な照明デザイナーです。前回のメキシコツアーの時は照明をデザインしてもらいました。

そして、CEDRAMとメキシコシティの公演ではジージョの兄貴分で同じく照明家のバレンティンが明かりを担当してくれるということでとっても心強い。

ジージョは俳優のようないい男ですが、兄貴分のバレンティンがこれまた渋さの不破さんを小綺麗にした感じのナイスミドルでして、女性にもモテモテだとか。

そういえば、CEDRAMのボス、マエストロ・チャマコも素敵なおじさまで女性にめちゃめちゃモテるそうです。腹違いの子どもが3人いて、いまは咲ちゃんと同い年の女性とお付き合いしているそうです。

それはさておき、メキシコで3本指に入る照明デザイナーにお世話になって、本番はその兄貴分に照明デザインとオペレーションをしてもらう。ということは3本の指の2本にお世話になっているということなのか。

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右:ジージョ、左:バレンティン。
posted by Mukai Kumotaro at 19:05| 日記

2018年10月28日

懸案

昨日は、初演でうまく行ってなかったシーンの創りなおしでした。こういう手直しは下手をするとドツボにはまって手こずって、時間ばかり食うということがあるので気を引き締めて稽古に向かいます。

けど真面目は禁物、ふにゃふにゃ頭のこだわりゼロで向かいます。思い込みや決めつけも要りません。幸い遊び大好きなメンツなので、心配していたようなことは起こらずに面白くかたちになって行きます。良かった。

先へ進もうかとも考えるけれど予定よりも進んでいるので、このシーンをかためます。何回も通すと、よりいい感じになって稽古を終了。ひと安心。

ルルおばさんの美味しいランチを食べて「サブロッソ。」細い麺の入ったトマトスープと鶏肉と温野菜の盛り合わせでした。ライムとチリを入れてさらに美味しくします。

ここメキシコには400種類のチリがあるらしく、家庭ではだいたい10種類ぐらいを使い分けるらしいです。

そのあとエスパルと床にはる舞台美術を引き取りに郵便局へ。そして今回は骸骨が4体になるので街へ出て骸骨探し。死者のお祭りが近いので街には骸骨が溢れているとかで、いいのを探します。

そういえば、ここパツクアロは死者の日の中心的な場所らしくメキシコ中から人が集まってくるとか。昨日の夜も一晩中大騒ぎをしていました。うるさかったなあ、夜12:00に花火て。

さて街には適当な骸骨がなかったので自分たちでつくることにします。なるべくつくれるものは自分たちでつくるのが大駱駝艦魂です。

夕方から雨が降りはじめ夜通しシトシトと降り続けます。天気がスッキリしないと気分もスッキリしないもの。こんな日は、お酒も飲まずに読書をしながら眠りましょう。また明日。

と思ったけど眠れなさそうなので、ビールとパツクアロの地テキーラ”メスカル”を頂きながら作品のことを考えます。

今回、骸骨を四人にしようかと考えていたけど一人の方がいいと気づく。人数が増えると派手にはなるけれど力が分散してしまう。一人の方がやっていることがわかりやすく集中してみれる。

こういう気づきは時間が経たないと出てこなかったりするので恐ろしい。そのまま本番をやってしまったりして取り返しがつかないことになったりするのだ。

CEDRAMの猫”ピンチ”と咲ちゃん。
posted by Mukai Kumotaro at 09:57| 日記

2018年10月27日

あいのうた

昨日も稽古は、朝10時からはじまって快調に進みましていい感じ。16時に終わってランチです。

こちらメキシコはだいたい16時ぐらいに遅めのランチを盛大に食べてそれからシエスタしてまた仕事して、夜は軽めに食べて終わりらしいです。

CEDRAMの食堂でドーニャ・ルルおばさんお手製のランチを食べます。これがほんとうに美味しいのです。優しい味でホッとします。ルルおばさんの本職は女優でありまして市民演劇の指導者でもあります。『ふたつの太陽』のナレーションもお願いします。

ランチを食べ終わって、みんなで街へ出て伝統音楽のライブへ。少し文化レベルが高い感じのカフェにて音楽を聴きます。

しかし、ミュージシャンが遅れているとかでしばしお姉さんのスピーチ。なんだか早口で喋りまくってます。言葉がまったくわからないのでまるでお経を聞いているよう。

きっかけよく席を立ち店の中をぶらぶら物色。そうこうしているとミュージシャン到着。小太りの4人組でコントラバスとギターが2人、1人は手ぶらです。

超絶演奏が始まると手ぶらのおじさんが歌い始めました。おそらくラブソングを歌い上げます。4人は一曲歌い終わるごとに店から出されたテキーラを飲んで、特にボーカルのおじさんは立ってるのもやっとの、ほぼ泥酔状態。

しかし一度歌い始めると、風態や顔からは想像できないファルセットボイスな声を絞り出します。

恋い焦がれる彼女の家の中庭で、2階の彼女の部屋にめがけて伴奏を従えてラブソングを熱唱している。そんなイメージです。

めちゃめちゃノリのいい曲なのだけど4人が全く乗っていないのがまた素敵で格好いい。乗りというのは極力抑えたほうが格好いいもので、内側でノリノリになる。乗りを内燃させるともいいます。踊りでもそれは同じだと思います。

メインボーカルのおじさんの弁髪が印象的でした。泥酔状態でお客の前に出なければいけない理由。いやそもそも理由なんてないのか。でもおじさんの唯一のアイデンティティをそこから感じるのでした。

サボテンのどぶろくとかいうのを飲んでほろ酔いで帰りました。それではまた明日マニアーナ。

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CEDRAMに飾られれるという、どでかいポスターを発見。こちらはいちいちスケールが大きい。
posted by Mukai Kumotaro at 19:42| 日記

2018年10月26日

稽古開始

CEDRAMにて稽古が始まりました。劇場に隣接するスタジオにて先ずは舞踏の基本から。そのあとオープニングを稽古。

今回、参加してくれるシェラとイラセマはメキシコで著名なダンサーだそうです。2人ともプロなのでさくさくと進みます。

予定のシーンよりも先へと進んで、「よしっ。」てな感じで。やはり再演というのは初演とは比べ物にならないぐらいに楽です。初演に労力と時間とお金をかけた結果です。

再演でそれを回収していく。報われていく苦労。てな感想はまだ早い。成功してこそ報われる。必ず成功するように全力を尽くします。頑張れ、俺。

さて、今回まずは俺の言葉を湯山が英語に、それをエスパルがスペイン語に通訳して。ということがインタビューの時にあったのですが、まさにリアル鉄割の演目みたいでなんなんだろう。この感じは?不思議です。

カナダでは英語圏とフランス語圏に完全に分かれているらしく、植民した人たちの母国語がいま使われている。ということですね。

「国なんてなくなれば平和になるのに。。言葉も同じだったらいいのになー。」みたいなことをぼやいたら、隆夫さんが「いや、雲太郎くんそれは違うわよ。言葉は分かれてるからいいのよ。」的なことを言われてその時は「うーん。」と思ったのでますが今回、その意味を噛み締めています。

ちなみに隆夫さんは、3ヶ国語を喋ります。日本語、英語、スペイン語。

言葉というのは不思議で面白いものです。エスパルと咲ちゃんの息子、じげんが、隣で日本語を喋ってくると、誰にもわからない秘密の暗号を喋り合っているみたいな密やかな楽しみがあるのです。発見。

その人のわかる言葉で喋ることが出来る。コミュニケーションが取れる。素敵なことなのです。

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今回、新しく加わる骸骨“カタリーナ”。『アホとロマン』で創り上げエスパルと育てたピースが大切な役目を負います。
posted by Mukai Kumotaro at 23:21| 日記

2018年10月25日

メキシコ2日目

今日は、朝から取材です。本番を行う劇場へ。その前にお店で腹ごしらえ、スープを食べます。「サブロッソ。劇場裏のカフェで先ずは一件、メキシコ有力紙の女性記者からインタビューを受けます。

Q: ヒロシマに関する作品をメキシコで再演するきっかけは何ですか?
A: もともとエスパルタコと大駱駝艦のつながりがはじまりです。そして横尾咲子さんと私がつながり、メキシコでエスパルとデュオを何度も踊り、広島の神楽がメキシコで行われたりと段々と再演のきっかけが整ってきた。そんな感じです。

Q:『ふたつの太陽』における、あなた自身の想い、模索に関して語ってください。
A:この作品がメキシコ公演の成功を経て世界へと羽ばたいていって欲しいと想っています。 広島の若い人は原爆の話しにうんざりしていると聞きます。そんな“いま”だからこそ、この『ふたつの太陽』という作品を日本で公演をしたいと模索しています。

Q:『ふたつの太陽』は原爆のトラウマを忘れないために創られたと想像しますが、ヒロシマで起きた非道を73年経った今、どのように捉えますか。
A: 何年経とうが、決して風化させてはならない。そう捉えています。

Q:作品の中には、政治批判がありますか?
A: 作品の中に政治批判はありません。舞台上で解釈が起こってはならない。ましてやスローガンやメッセージなんてのもあってはならない。そう考えています。

Q: 舞踏に関してですが、あなたの長いキャリアの中で舞踏はどんな問いを投げかけてきましたか。また、どんなことを明らかにしてくれましたか?
A: 舞踏は付き合えば付き合うほど興味深い。ただ何かが明らかになるようなものではありません。問いを投げかけ続ける精神が大切なのだと思います。

Q: 舞踏家としてのあなたの狙いは何ですか?
A: 狙いというのは特にはありません。

Q:舞踏に見られる、“精神(メンタル)”と“無意識"について語ってください。
A: 常に常識を疑う。というのは舞踏の大切な精神のひとつです。 また方法として、無意識的にうごかされる。というのはあります。

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公演が行われるメキシコシティ市立劇場へ。100周年だそうです。
posted by Mukai Kumotaro at 10:10| 日記

2018年10月24日

メキシコ1日目

日本から12時間かけてメキシコシティに到着。入国審査の長い列に並んで重い荷物を持ってジリジリジリジリと進みます。早く出たい後ろの日本人にぶつかられながら進みます。

メキシコの入国審査はアメリカ程に差別的ではないです。アメリカも人によるといえばよるけれどだいたい偉そうで上から目線です。

今回、パフォーマンス集団『世界装置』主宰の斎藤栄治に小道具のリトルボーイをメンテナンスしてもらって箱も新調して荷物として預け。

メキシコ税関で得体の知れないものだというのでチェック検品を受けました。それはそうです。原子爆弾の模型ですから。

言いがかりをつけられて絡まれて、カツアゲのように金を取られたりしながら這々の態で入国。この辺はアメリカより野蛮。だけど仕方ない。国なんて元々が、、まあいいか。

エスパルの出迎えを受けてとにかくホテルへ。メキシコは雨季ということだけど、快晴でタクシーの窓から爽やかな風を受けながらホテルへ。

荷物を置いてから「疲れを癒して欲しい。」という横尾咲子ちゃんのこころ遣いでお風呂へ。日本のお風呂とはだいぶん違うけれど豪華な感じですっきりと旅の疲れを癒します。

そのあとは晩ご飯。お目当てのマヤ料理屋は閉まっていたのでチョコレートで肉を焼くお店へ。なかなか流行ってた。虫の乗ったトルティーヤと豚肉のスープと肉のチョコレート焼きでお腹いっぱい。ぶらぶら帰ってたら猛烈に眠くなります。

そのままホテルに帰ってばたんキュー。明日は劇場で朝から四件取材を受けてそのあとバスで移動。夜の8時にやっとこさ目的地のパツクアロへ到着です。

それでは、アシタマニアーナ。

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メキシコはもうすぐ死者の祭り。街には骸骨が溢れている。
posted by Mukai Kumotaro at 01:01| 日記

2018年10月23日

宗教

遠藤周作さんの小説『沈黙』を読了しました。

ポルトガル・イエズス会の高名な司祭、フェレイラ教父が日本の長崎へ布教に赴き捕まって通称”穴吊り”という拷問を受けて棄教したとの報告がポルトガルまで届く。

稀にみる神学的才能に恵まれた不屈の人。若い司祭たちの恩師でもあった。その人がいかなる拷問をされたとしても神と教会を捨てて異教徒に屈服したとは信じられなかった。

遠い東の果ての島まで行き、ことの真相をその目で確かめたいと三人の司祭が日本へと潜入する。

主人公の祭司、ロドリゴは次々と起こる困難の中で自問自答し続けます。「神はいるのか、いないのか?居るのならば何故、黙っているのか?」

読み進めるとだんだん『沈黙』というタイトルは決して黙っている神のことだけを指すのではなく、捕まったロドリゴが「転べ。」「棄教せよ。」といくら説得されても黙っていることも指しているのだとわかってきます。

自分の信じるものを踏みにじらせる日本人考案の拷問“踏み絵”。踏むだけにとどまらず、唾を吐きかけ詰らせる。その拷問を経験することによって、辱めと侮蔑に耐える顔が人間の表情の中で最も高貴であることに主人公は気づきます。

自問自答し苦悩する彼を余所に番人と罪人が笑いながら話しをしていたり、祭司の果てしない悩みとニホンの限りない長閑さとの対比が鮮烈で目眩を覚えるほどです。

フェレイラを転ばせた拷問”穴吊り”をとうとう受ける時、深夜の入れられた悪臭漂う穴の中で、彼はいびきを聞く。もうすぐ死を迎える自分とは関係なく他人は眠りこけ無関心である。「なんという滑稽。」と豚のように眠りこける人間たちを馬鹿にして嗤い出してしまう。そして怒り出してしまう。自分の神聖な殉教の場をいびきで汚されたくないと。

しかしそのあと、そのイビキが棄教しない自分の為に穴吊りという拷問にかけられる信徒たちの呻き声だと知らされて。。

最後に彼は気づきます。あの人は決して沈黙していたのではなかった。答えは自らの中にずーっとあったのだと。

キチジローという弱虫がいたりして、要約なんてできないほど奥深くて、”信じる”とは”信仰”とは何なんだろうと考えさせられる小説です。自ら切支丹である遠藤周作さんの格調高い文章と相まって凄まじい物語りが胸に迫りますよ。

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ちなみにわたくしは仏教徒です。真言宗なのでチベット密教とは近いのかな。
posted by Mukai Kumotaro at 14:35| 日記

2018年10月22日

いよいよ

昨日は、十川英二さんに山の上にあるゴルフ場の高そうなレストランでランチを湯山と一緒にご馳走になりました。

美味かったなあ。俺はカツカレーで湯山はテールスープ。最後の和食と思って頼みました。前にも記しましたが、わたくしはカレーが大好物でして子どもの頃、誕生日におふくろさんが「何がいい?」と聞いたら「カレー!」

明石家さんまさんは、インド人もびっくりするというぐらいにカレーが大好物らしいですが、俺も負けないくらいに大好きです。

舞踏家になってからは、盆と正月以外は食事制限をしているので、カレーは食べられなくなりましたが。

それはさておき、メキシコへいよいよ出発です。まずはバスを乗り継いでから伊丹空港へ。伊丹空港から成田へまずは飛びます。飛びます。

成田で衣裳の富永美夏さんから新しい衣裳を受け取って真鍋淳子さんから新しいツンを受け取って、そのまま走って成田空港へGO.

コンビニで何かを買って、チェックイン。両替をしなければ。幾らするか?毎日朝飯と昼飯と晩ご飯は作ってもらえるようなので、酒代だけか。あとお土産代とでえーと。まあいいか。

さて出国です。ここでペットボトルを捨てます。これはテロ対策という名を借りた。まあいいか。長い列に並んで顔をジロジロ見られて、判子を「とん」と押されて無事出国。でもまだ日本なのか?曖昧な感じ。さあ一番面倒くさい荷物検査へ。

人を疑うのが仕事の人達にレントゲン検査されます。そろそろとゲートを通ったら「ピンポン!」。前にも記しましたが、わたくし幼き頃に右大腿骨骨折という大怪我をしてまして、足に鉄のボルトが入ってます。ので必ずゲートがなります。

なんだかヘンテコなテニスラケットみたいなもので身体を弄られます。
さて無事無実の罪が晴れまして、とそこに広がるのはお金をふんだんに持っていたら大騒ぎしそうな免税店。

散財しそうになるのをなんとか抑えて、ゲートを確認。ふーっとひと息。

続きは明日。

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教育長だった英二さんの五色町への貢献は計り知れないです。
posted by Mukai Kumotaro at 23:59| 日記

2018年10月21日

Awaji Butoh Shrine

ただいま、淡路に帰っております。舞踏家集団"duex shrine"の本拠地"Awaji Butoh Shrine"にて副代表の湯山大一郎と鋭意、合宿中です。

毎日、朝から晩までのんびりと稽古しています。大駱駝艦の本拠地”壺中天”もそうでしたが、稽古場が隣にあるというのは本当に贅沢なことです。

淡路島という雄大な自然の中で暮らしていると、色んな瑣末なことがもうどうでも良くなってくるので「いかんいかん。」と頭をフリフリどうでもいいかもしれないけれど生きていくために必要な様々なことを頑張ってやります。

そういえば「締め切りのある人生は短い。」んだって。(毎日新聞 “時の過ぎゆくままに”岡田満里子) 効率的に生き無駄がないように生きる。そして最速で死に向かい死んでいく。

しかし自給率120%の淡路島にいるとひよっとしてここだけで生きていけるのではないのか。という気分になってくる。米を作って野菜を育てて。

「俺を観たいならこの部屋ごと連れていけ。」と言ったという舞踏の始祖・土方巽。ほどではないですが「俺を観たいなら淡路までおいで。」という気分になってきたり。

淡路人形座というグループがありましてなんと立派な(実はまだ行けてないのですが。)劇場をお持ちで、毎日、朝から晩まで公演をやられています。(これは本当です。)福良高校だったかな、近くの高校生が毎年就職して新メンバーになるらしい。

今度お世話になる松本の劇場でも公演をされてて、この間は大駱駝艦がフランスの本拠地にしているパリ文化会館でも公演を打たれている。憧れの存在。

人形つながりですが、ひとみ座の人形遣い60年という良子さんと朝ごはんを一度、一緒に食べたのだけど、食べていた60分の間で生い立ちから芸の極意まで伝授されたのにはびっくりしたなあ。

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メキシコ公演と帰ってきてからの神戸ダンスボックスで行われる金粉ショウの稽古もしています。
posted by Mukai Kumotaro at 18:38| 日記

2018年10月20日

ほんもの?

世の中には真似したい人と、真似をしたくないなあ。という人がいます。

真面目な人の真似はしたくない。偽善者の真似はしたくない。嘘つきの真似はしたくない。

不良?それは真似しますよ。格好いいですから。そう、このカッコいいかどうか?というのは大事。判断基準をそれだけに絞ってもいいぐらいではないですか。

本当か?本当にそうか?かっこ悪いのもいいのではないか。無様に生き残ったりとか。

先日、新宿都庁前の平和祈念資料館で、「嘘をついたり人のものを盗んだりしなかった善い人は皆んな死んで、悪に目をつむれた卑怯な者だけが生き残ることができた。」という記述があった。

強かにしぶとく生き残るために多少の悪には目をつむる。仕方がないと開き直り。罪悪感を抱えながら生き抜いていく。そんなこと当たり前と人を押しのけて生き続ける図々しい人も沢山いる。

死んでいくのは動物として弱かったのだ。弱肉強食が自然の摂理。綺麗ごとや愛や平和という理想なんて嘘だと泥にまみれながら生き続けるしかない人間という矛盾した存在。

そういえば、資料館でナチスドイツと日本帝国が勝利しなくてよかったと思ったけど、悪者になってしまってはいけないのだ。とも思った。

ユダヤ人を大量虐殺する。とか。色々原因はあったにせよ宣戦布告する前にパールハーバーを攻撃してしまう。とか。だいたい独裁政権が世界征服を目論んで戦争を仕掛ける。という図式はテレビでも映画でも完全に悪者。

それはさておき、この世の中に真似じゃないものなんて一つもないのかもしれない。すべては模倣からはじまり誰かの影響を受けながら育っていく。

でも真似は良くないという思い込みも一方では根強い。

「本物なんてひとつもない。でも心地いい。本物なんてひとつもない。。」

一時期、麿さんが夏合宿で来ている作務衣を皆んなで真似したことがあって。麿さん、速攻で作務衣着るのやめました。

恥ずかしかったんやろな〜。作務衣がユニホームって、お坊さんかー!みたいな。すんません。

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自分の身体をメディア(媒介)にして踊った『舞踏?』。土方さんの踊りのコピー、振付の“トレース”をした。早い話しが真似をして観客に靴を投げ込まれた問題作『舞踏?』photo by bozzo
posted by Mukai Kumotaro at 23:59| 日記

2018年10月19日

小説について

本を読むのは大好きです。しかし小説を読むのは少し労力が要ります。入り込めるといいのだけど入り込めないと時間がかかる。

小説は読みきるというのが大切です。読み終えたあとの余韻を知る。別の世界の物語りを追体験して読み終えてまた現実に戻ってくる。みたいな。なんとしてでも読み終える。何年かかっても読み切る。それが大切。

その小説を読む前と読み終えたあとでは、世界が確かに変化している。人間がたぶん、成長しているのだと思う。心がひとつ違う世界を知り、豊かになったとでも言うべきか。

小説を読んでいるあいだにあらゆることを感じて、色んなことを思って、様々なことを考えて。それが心を耕して大らかに奥行き深く柔らかくしてくれるのだと思います。

そうして、読み終えた瞬間に何かがすっと心に落ちる。本を閉じた瞬間の達成感は経験したものにしかわからない。

エベレスト登頂の達成感は体験したものにしかわからないように。なんつって知らないけど。

最近はヘリコプターに乗って上まで行って、そんで「登頂。」いうて帰ってくる人がいるらしいですがそれでいいのか?いいのか。人の勝手。

さて、しかし本ばかり読むのも考えものなのです。「書を捨てて町に出よう。」という言葉がありますが、頭で感じた知識だけではなく疑似体験でもなく、実際にからだで感じた経験も大切なのだよ。という寺山修司さんの問いかけなのだと思います。五感をフル稼動させてこの身で感じる体験と経験も大切なのだよ。

二次元の本で心を耕して、町を歩いて三次元で体の感覚を研ぎ澄ます。四次元でそれを展開していく。そんなバランスなのかな。

そういえば、顔のすぐそばに五次元てのはあるらしいです。そんで噂によると17次元?まであるらしいです。おもろ!
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麿さんは、五次元のこと「隣。」いうてた。Illustration by Kumotaro Mukai.
posted by Mukai Kumotaro at 17:25| 日記

2018年10月18日

小林ハル

ギリアーク尼崎さんを人間国宝に!!

何でこんなことを言い出すかと申しますと、先日あるテレビ番組を観たからです。

いつものように、ビールと柿ピーで機内モードセット。腰を落ち着けテレビをつけたら女性が早口で喋っていました。よく聴いていると、その人は皆んなもっと孤独を愛さないといけない。とか言っています。もっとよく聴いていると一人のお婆さんの話しをしているようです。

それは最後の瞽女、小林ハルさんのお話しでした。生まれた時から盲目で蔑まされ馬鹿にされて生きてきたハルさん。家の奥の土蔵に閉じ込められて生きてきたハルさん。厳しい母親に育てられ瞽女に修業に出される。そんな境遇の彼女の再現ドラマがはじまりました。

瞽女の厳しすぎる世界。しかしそこで行きていくしか道のない身の上。

「いい人と歩けば祭り。悪い人と歩けば修業。」そう語る小林ハルさんは年老いて瞽女をやめ老人ホームに入って過ごしていた。

そんなある日、高名な学者が老人ホームに歌の上手なお婆さんがいると噂を聞きつけて取材にやってきた。学者はそのお婆さんの歌声に驚愕しすぐさまチームを組みお婆さんのことを調べる

これは大変な人だぞ。と偉い学者が沢山出てきて、時の総理大臣に報告。「へえ。そんなお婆さんがいるのですね。では陛下に今度、お話ししてみましょう。」と。

総理が陛下に議事の報告をしたあと、そういえば陛下とお婆さんのことを話した。

「そうですか。そのような方が。では手厚く保護してあげないといけませんね。」と仰ったかどうかだかわからないが、なんと老人ホームのお婆さん、小林ハル人間国宝に指定!

路上の芸者、ギリアーク尼崎さんもどうぞ人間国宝にして保護してあげてください。絶対にその価値がある路上の芸術だと思います。よろしくお願い致します。

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最後の瞽女、小林ハル。
posted by Mukai Kumotaro at 17:29| 日記

2018年10月17日

きずな?

『絆』という言葉が何故か好きではありません。なんだか人間の偽善性みたいなものが見え隠れするからかな。

たぶん2011.3/11からなのか、頻繁に見かけるようになったのは。人と人とのつながりを大切にしたい。それを応援したい。その心は素敵でとっても良いと思います。

けれどそれを一言でいいあらわしてまるでスローガンのように掲げる安易さが嫌らしい。これいいでしょ。みたいな押し付けも嫌味ったらしい。

まわりにあんな言葉を軽々しく口にする人は一人もいないので良かった。自分が口にすることを想像しただけでもゾッとする。

そんなおり、新聞で高校生がおばあちゃんの呟きを投稿しているのを見かけた。

おばあちゃん曰く、「もともと絆という言葉は、牛を木に繋いで逃げられなくすることを言いあらわした漢字。そんなものをありがたがって拝むように使うなんて変な時代だなあ。」と。

それを人間に使ってしまった人がいたんだな。そしてイイじゃんいいじゃんと真似をする人が出てきて。漢字だけが独り歩きしていく。

言葉というのは呪文だから気をつけて使わないと、間違いが起こってしまいます。

1人の安易なもの言いが、世界を変えてしまうことになるのかもしれません。それだけに新聞やテレビなどという巨大メディアに従事する人々は、責任を自覚しつつ気をつけなくてはならないのだと思います。

それは誰かの気持ちや感情に忖度するようなものではなくて、もっと大きな人類の未来のことを見据えたような気の使い方でなくてはならないのだと思います。

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こんなイメージか?Illutration by Kumotaro Mukai.
posted by Mukai Kumotaro at 20:00| 日記

2018年10月16日

Rebel Music

「ピラミッドの上 打ち上がる 花火を君と 見ていたい スフィンクスと 盗賊が踊る」

いまは、京都中華そば“みみお”の佐藤ユミコさんに教えてもらったサニーデイ・サービスに夢中です。

“Popcorn Ballads”という二枚組のアルバムで聞き応え充分、これでメキシコまで20時間の軟禁フライトを凌ぎます。

若い頃に大好きだったフィッシュマンズに似てるけど、もう少しポップなのかな。大滝詠一を彷彿とさせるけど、もう少し変てこな感じで。

しかし音楽は、いまだにボブマーリー&ザ・ウェイラーズの“コンクリートジャングル”が1番のヘビーローテションです。もう20年以上聴いているけど全然飽きない。何故だろう。

最初のギターのリフから、バスドラムが潜り込むように入ってきてそんでベースが重低音で入ってきてワクワクする。

スーパースター・ボブマーリーの歌に合わせて歌うザ・ウェイラーズのソプラノバックコーラスは、ジャジューカ村で聞いたチャルメラの音を彷彿とさせて痺れます。ギターソロの入るタイミング(2枚目のほうは、ソロなし。)の刹那さ。ラストのピアニカの余韻まで寸分の隙がない。

サウンドエンジニアが素晴らしいのだろうなあ。イギリスか。愛があるのだな。絶対に音をよくするのだ。という気概のようなものを感じる。

ジャマイカの原始的なラスタミュージックと当時の最先端SEテクニックの運命的な出会いと奇跡的な融合。

再生回数ブッチギリは、“キャットナッパー”という睡眠導入ミュージックです。

「キャットナッパーです。30分間リラックスして休息してください。いまから30分後に起こさせていただきます。」

女房に誕生日プレゼントでもらってから毎日の昼寝で、お世話になっています。見事に30分だけ深く眠ってそしてスッキリパッキリと目覚めてリフレッシュ。生まれ変わったようになりますよ。

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コンクリートジャングル収録アルバム"Cach a fire"。ジャケットは2種類あってこちらデラックスエディション版。
posted by Mukai Kumotaro at 07:59| 日記

2018年10月15日

高速バス

ばすがすばくはつぱすがすばくはつ。

東京での稽古を終えまして、今日は関西に戻ります。移動はいつもJRバス関東の昼特急三列シートです。

新幹線だと15,000円近くかかるのが、5,000円です。その分もちろん時間はかかりますが、飛行機のビジネスクラス並みに広々楽チンです。

御用とお急ぎでない方ならお勧めですよ。贅沢に交通費が出る仕事なら構いませんが、自主公演なら経費はなるべく抑えたいところなのでありがたい。

長い乗車時間を利用して本を読んだり読み疲れたら眠ったり、大好きな音楽を聴いたりそのままぼーっと景色を眺めたりまた眠って。8時間なんてあっという間です。考えごとをするのにも適しています。wifiも飛んでるのでうごくオフィスにもなります。

昔の話しですが、新幹線での移動の時にグリーン車に乗ったことがあって、その楽チンさにびっくりして。しかもそんなに高くないのを知って。

それから何回か偉そうにグリーン車に乗って、しかも文句をつけたりしたりしてた時があった。奢ってたな俺。

そんな折、またグリーンに乗ったら4人しか乗客がいなくて。1人はどう見ても成功してる社長さんという感じのおじさん。もう1人は子どもが招待してくれて東京に向かってる。てな感じのお婆さんで正座して駅弁を食べてて可愛かった。そしてもう1人がなんと里見浩太朗さんだった。

それ以来、グリーン車に乗るのはやめました。たった数千円だけどやってはいけないことがあって身の程というのがあるのだと感じた。

それはさておき。移動距離と疲労は正比例するらしいけれど、あまりに速い移動は心と身体がついていけないように思います。

その移動距離をじっくりと感じて楽しんで味わうのが正しいのだと思う。メキシコへも本当は船で行くのが一番いいのだろうなあ。到着した時の感動は飛行機でピュッと行ってしまうのの比ではないのだろう。

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パーキングで湯山とバッタリ。「新幹線で帰ります。」言うてたけどあまりに安いのでバスにしたそう。更に安い4列シート。4列はさすがに若くないと無理だな。
posted by Mukai Kumotaro at 16:09| 日記

2018年10月14日

夢?

海で釣りをしている。皆んな、巨大なユニコーンを釣り上げる。俺も釣り上げる。プールのような浅瀬に上がってくる巨大魚。

プールの水は半分しか入ってなくて中で得体のしれないものが蠢いている。怖くて名人に相談する。「わかった。」名人の運転する船が動きはじめる。すごいスピード。細い路地を両サイドの家、ギリギリで走っていく。

船内ではパーティーがはじまっている。俺は名人の横に座っている。「ありがとうございました。」しっかりと握手をする。「ちょっと行ってくる。」

あっ、夢の話です。

夢といえば学校の夢もよく見る。

学校へと行こうとするが、授業の用意をしていない。用意をしようとするが教科書がない。時間がどんどん迫ってくる。行くだけ行くことにする。電車に乗るため駅に行くが切符がどうしても買えない。

モタモタとしていると高校生がやってくる。「オッさん、そんなことも知らねえのか。」馬鹿にされたので怒って高校生に向かって全力で怒鳴る。パッと態度を変える。そして帰る。

明日はちゃんと準備をしておこう。しかし久しぶりすぎて、学校に俺の席は果たしてあるのだろうか。

学校の夢は大体が廊下をウロウロしている。自分のクラスがわからない。というのが多い。勉強も全然していないのでついていけるかどうか不安でいっぱい。そもそも俺は学生なのだろうか。

そういえば、このあいだ山形で奥村君が高校3年の時に一回しか学校に行かなかった話しをしてくれた。

久しぶりに本当に久しぶりに学校に行くのだけど、久しぶりすぎてクラスがどこだかわからない。保険の先生だったかに聞いたら教えてくれて。

そのクラスに行ってドアをゆっくりと開けるとすでに授業は始まっていて、皆んなが一斉に奥村君の方を見る。一瞬誰やねん?みたいな間があって戸惑いながらもお互い「おっ。おう。」みたいな感じで。先生もどうしていいかわからんみたいな。

「へー。こういうクラスになったんや。」てな感じで、教室を見回すがどれが自分の席かわからない。空いてる席があるから「たぶんあれかな。」と思うのだけどそのままゆっくりと教室のドアを閉めて。

こちら夢ではないのだけど、限りなく夢に近いお話しでした。

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夢ってモノクロらしい。だからか白黒の映画を観てると夢っぽい。
posted by Mukai Kumotaro at 18:55| 日記

2018年10月13日

お金について

この世は全て“お金”。お金が全て。夢も希望もお金で買える。お金。人類の大発明品。

縄文の頃は自給自足。だからお金はもちろん存在しない。弥生になって食料を必要以上につくる輩がでてきて物々交換がはじまる。価値が等しいと思われるもの同士の交換。

それが交換するものが、美しい石だったり希少な貝だったりになって。美しい石、ひとつと牛1匹とか。石に価値を感じる人。ちょいと価値観が多様になってくるんだな。

そのうちに“金・Gold”があらわれる。美しさとか希少性なんていう移ろいやすい価値も要素として持ちつつ、絶対的な共通した価値『重さ』の取引になる。金1kg / 牛一頭。

命をかけて、死に物狂いで金を探す人々。金を巡っての壮絶な人類の歴史が始まる。金を制するものは世界を制する時代が、やってくる。

この時代は世界中で結構長い。日本は明治が来るまで続いたのか。江戸時代の小判は有名。それが変化するのはイギリスで。

沢山、金を手にした者は安全のため金庫に預けて、代わりに証文をもらう。「この証文と金庫に所持している金は等価です。」と。

そのうちに証文対証文という信用取引がはじまり。さらに現物の金は金庫にあるのにそれを持っています。という証文で買い物ができるようになった。この証文がお金へと変化していく。金庫にある現物と等価である。金の重さから人類は逃れた。

そしていつの間にか、金庫に現物としての“金”がないのに“証文”が、大手を振って世界中を闊歩し始める。金の代わりに証文を金庫へ保管するという変な時代の幕開け。

そしてイギリスの銀行家が人から預かった証文を勝手に人に貸し始める。気持ちはわからないでもない。金庫に眠っている証文=金をなんとか運用したい。

これ最初は違法でした。当たり前です。人から預かったものを、勝手に他人に貸すのだから駄目なのは子どもでもわかること。このやってはいけないことをイギリスの政治家が銀行家から頼まれて、合法にしてしまった。

だから今も世界中で人から預かったお金を、勝手に他人に貸して利益を得るという、やってはいけないことが常識としてまかり通っている。

それ自体には何の価値もない紙切れや鉄の塊を巡って命を懸けるヘンテコな時代の幕開け。そして最近、その偽物のお金さえ要らない数字だけの世界へと人類は足を踏み入れようとしているとNHKでやってた。

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以前も紹介したバンクシアブックス『みんなを幸せにするおカネの話』公には言えない話も。
posted by Mukai Kumotaro at 12:51| 日記

2018年10月12日

タイトル

1997年1月4日
【anarchy】乱世、無秩序、混乱
【radical】急進的、過激 (radical party:過激派)
【illegal】非合法

死について考え死をめぐる舞台は、去年で一応の完結をみた。『ヒトは死にながら生きているのか 生きながら死んでいるのか』にはじまり『死者の書'96』公演に到る一年にわたる死についての問いかけ。そして永遠に出ることのない答え。

「ここが、この現実こそが地獄なのだ。死後の地獄などない。」そして「ヒトは死ねば終わり。死後の世界も天国もないのだ。だから、この現実をこそ天国と思え。」はい。

タイトルを先につけてしまうことからくる決めつけの固さ。タイトルに引きずられて内容も制限をうけてどんどんと萎縮していく。にもかかわらず出来上がった作品は意に反した、タイトルとは似ても似つかないものになる中途半端。

思い入れたっぷりにつけたタイトルが、結局は自分の首を絞めて自分の敵になってしまうことがある。ので慎重にタイトルはつける。でもたまに「はっ。」と思い出すようについてしまう題名もある。

タイトルは最後の冠。結果の冠、意味の栓であり、舞台の蓋である。

そういえば『千秒の孤独』という大駱駝艦本拠地吉祥寺『壺中天』の柿落とし公演の題名は我ながら「いいなあ。」と思う。

らくだの若手男性ダンサーが20分間はじめてソロを踊る企画。20分というのがちょうど千秒で。ソロだから孤独。だけど、その話しはまだか。

しっかし32歳の俺、毎日毎日めちゃめちゃ勉強してるのが日記を見てるとわかる。毎日本を読んで公演も毎日行って、映画もしょっちゅう観て。情報は主に立ち読みで得て。買うと安心して読まないから週刊誌やコンビニにあるような情報誌は、立ち読みに限ります。

あとは立ち聞き。イメージが悪いですが、音楽の話しです。昔は吉祥寺のタワーレコードやディスクユニオンで毎日、長時間試聴してた。これは趣味にも生かされるので一挙両得。

1日24時間365日、いい作品を創りたい。その思いを燃料にして。すべては作品のためだった。何もかもが作品のためにあった。それは言い過ぎか。

長時間の立ち読み立ち聞きは、足腰が丈夫じゃないとできないな。最近楽してるのか。でもまあいつ死ぬかわからない年齢に差し掛かってるからいいか。楽しよう!

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『千秒の孤独』チラシ撮影より。大駱駝艦旗揚げ時のめちゃくちゃ格好いい集合写真がある。それをイメージして臨んだ写真撮影の一コマ。ラーメンのCMにどうでしょう。こいつら、飲みながらやっとんねんな。
posted by Mukai Kumotaro at 12:24| 日記