大駱駝艦のスローガンのひとつに“滅私奉公・公私混同”というものがあります。
じぶんのひとつ前の世代のひとたちがよくつかっていた。
いまはどうかわからないけれど。
じぶんというものをなくし働く。そのかわりに、色々なものやことを我がもののようにこき使う。ここにも分けない。という考え方がある。
先日、伺った城崎温泉も一軒一軒の旅館として分けて考えるのではなくて、大きなひとつの旅館というふうに考えて成功していた。
分断が世界的に大流行しているけれど、ほんとうに世界を良くするためにはまったく逆の考え方をしなければいけないのだと思う。
障害があるとかないとかで分けない。
オリンピックとパラリンピックなんて分けなくていい。目が見えないひとも耳が聞こえないひとも片足がないかたも、差別せずに一緒に遊べばいいのに。
誰だってどこかしら、からだは傷んでいたりするもの。こころもどこかしら病んでたりするもの。
健常者なんていう人間はいないのだと気付こう。
じぶんと障害者という考え方をやめよう。ふたつに分けることの限界に思い至ろう。障害者でも健常者でもないひとのほうが実は圧倒的に多いのです。
だいたい障害者ということばが好きではないです。こうやって仕方なく記したりしますが口にはしない。
何に対して差し障りがあるというのか?害とはなんなのか?誰に対しての害なのか?
では何と呼ぶのか?それを皆んなで考えよう。
横尾忠則さんが“ハンデ”のあるひとと呼んでいたけどいいと思った。妻は「ハンデがあるって嫌じゃない。」と言います。
そのむかし『無敵のハンディキャップ』っていう映画があった。DOGLEGSのドキュメンタリー。観たいと思っているけれどまだ観ていない。
しかしハンディキャップってのは、不利とか不利益なんていう意味があるのか。あんまりよくない。
妻は「個性がある人々でいいんじゃない。」と言います。これは結構いいと思います。
なんでもかんでも個性として見れれば、この世界も平和になるかもしれない。
「あんた、めっちゃ個性強いなあ。」