2019年04月26日

この『ブログ?』は、“私”をなるべくなくそうとしています。

最初の頃は“わたくし”が多いです。これは「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。」寅さんの名台詞を真似てのことでした。

最近は“俺”をつかっています。“僕”だとちょっと可愛らしすぎる。大ベストセラー作家、村上春樹さんは、僕をつかわれています。

オール巨人師匠も“僕”です。戌井君は、“わたし”です。普段喋っているときは、俺なのでつかい分けてるのだな。

開高健さんによると、日本の古典といわれる名文は“私”がありませんでした。

“私”という単語をぬいて私を描くのが、わが国固有の文章作法なのです。

古典小説、和歌、俳句、ことごとくそうである不思議。

小説などに私が常用されてくるのは明治以降か。西洋の影響もありながら近代的自我が目覚めて私というものが重要視されてきたからだろう。

開高さんは、自伝的小説『破れた繭』と『夜と陽炎』の連作でまったく私をつかわないという壮大なこころみをされています。

どちらも読んでいますが、その私がないという文体が、なんというかクールでかっこいいのです。

特に『破れた繭』はミシガンで何回も繰り返し読みました。

何度読んでも、まったく読み飽きないから流石です。

何とか自分の中の感情を言いあらわしたいと、考え尽くして厳選された言葉の数々がいちいち気が利いていて光り輝いている。

文章が強度をもっているので何度読んでも味わい深くて、次に読んだ時にまた違う表情を見せてくれて新しい発見がある。

自分がない。というのがまた突き放した雰囲気で、客観的に観ている感じがしてしっくりとくる。べたべたとしていなくて読んでいて気持ちがいい。

だいたい日本語は、喋るときにほぼ“私は”なんてつかわない。自分と他者をあんまり分けない。

英語だとまずは"I"ではじまる。わたしがわたしがと自己主張が強くて押し付けがましい。日本というかアジアはもっと謙虚なんだな。

文化と歴史が根本から違うのだからそれでいいのに、アメリカの真似をするのが大好きだから仕方がないか。

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そんでまた久しぶりに読み始めました。
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 04:38| ブログ?