2019年05月07日

高田屋嘉兵衛ものがたり

ここ都志は、高田屋嘉兵衛が生まれ育ったところです。

高田屋嘉兵衛は、司馬遼太郎さんが小説『菜の花の沖』で描いた立志伝中の人物です。

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読んでないな。読みます。

22歳の時に神戸に出て船乗りとして出発。その後、兄弟で船会社『高田屋』を始めて成功。

28歳で当時国内最大級の千五百石の船「辰悦丸」を建造し、まだ寂しい漁村にすぎなかった函館を商売の拠点としました。

嘉兵衛は幕府の要請を受けて、エトロフ島とクナシリ島間の安全な航路を発見したり新たな漁場を開くなど、北方の開拓者としても功績を残しました。

エトロフ航路の発見・開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から苗字帯刀を許されます。

1804年、ロシア使節レザノフが長崎に来航し、幕府に通商を求めたが、 幕府はその要求を拒否。

レザノフは武力行使で日本側に通商を認めさせようと、部下に命じてサハリンやエトロフ島の日本人居住地を襲撃。

日本側は驚愕し、東北諸藩の兵をうごかして厳戒態勢を取り日露間の緊張は高まります。

千島海域を調査中であったロシア皇帝艦ディアナ号のゴロヴニン艦長が、クナシリ島で水・食料の補給を得ようと上陸。

その際に、日本側警備隊に捕らえれるという事件がおこりました。

副艦長リコルド率いるディアナ号は日本側の砲撃に遭い、一旦救出を断念して帰国します。

その翌年に再びクナシリ沖に来航し、日本人漂流民を介して交渉を試みるが日本側は拒否。

リコルドは海上を航行する日本船から艦長の消息を聞き出そうと、偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえ、カムチャツカに連行抑留します。

囚われの嘉兵衛とリコルドは同じ部屋で寝起きし、一冬中に二人だけの言葉をつくって対話をしました。

嘉兵衛はリコルドに、一連の蛮行事件はロシア政府が許可も関知もしていないという政府高官名義の証明書を日本側に提出するようにと説得。

その説得を聞き入れたリコルドは嘉兵衛と共に日本に戻り、嘉兵衛を両国の仲介役として、遂にゴロヴニン艦長の釈放にいたる和解を成し遂げます。

1826年、徳島藩主・蜂須賀治昭は嘉兵衛の功績を賞し、300石取りの藩士並の待遇としました。

晩年は、故郷淡路島にもどり港や道路の修築など郷土のために力を尽くし、1827年、自宅で静かにその生涯を閉じました。享年59歳。

明治に入り北方開拓の功績を讃えられ、1911年に正五位を追贈。1938年には北海道神宮開拓神社の祭神となりました。(高田屋顕彰館ホームページ・Wikipedia参照。)

ここ都志に広大な屋敷があって、千両箱や金銀財宝、北海の産物を大量に運び込んでたとか。

しかし嘉兵衛翁自身は、質素な生活をしていたそうです。

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「日本にはあらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶに相応しい人物がいる。それは、高田屋嘉兵衛である。」by Petr Rikord
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 08:15| ブログ?