2019年12月12日

色鮮やかな未来

招致のために賄賂を贈ったとかなんとかで、相変わらず東京オリンピックが揉め続けています。なんなんだろうな、まったく。

一時期、オリンピック存続の危機があったとか。その時オリンピックを救ったのがテレビの多額の放映料だった。

そのためいまもアスリートファーストとか口では言いながら、メディアファーストの状態が続いている。時差があるからへんな時間に競技がおこなわれて、選手はたいへん。

そんななかロシアがドーピングで参加できなくなった。

賄賂はいけません。不正はいけません。隠蔽もいけません。国家の威信をかけた、国威発揚の手段にするからこんなことが起こってしまう。

しかし個人なら参加可能になったようで、よかった。

皆んな国なんて関係なく個人で参加すればいい。そもそもスポーツの祭典でスポーツ選手が主役。

個人が主役で国家は主役ではないはず。それがナショナリズムの高揚の手段に使おうとするからおかしくなる。

「ニッポン、ニッポン」絶叫して、メダルが取れなかったら「国民の皆さまに申し訳ない。」なんて選手に泣きながら言わせてなんとも思わないのかしら。

団体競技もラグビーみたいにすればいい。国ではなくてチームとして考えてどこを選ぶかは個人の自由。

昨日、観にいった伊丹市立美術館の展示でも国と個人について印象的なことが記してあった。

行ったのは、現代美術作家・高橋秀さんと『よいこのくに』の表紙を37年間にわたって担当していた藤田桜さんのご夫婦の展覧会でした。

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世田谷美術館、倉敷市立美術館を巡回し伊丹市立美術館で12月22日までやったあと、来年北九州市立美術館にて開催される。Photo by Twitter.

秀さんが画家としてイタリアへ渡った時の話し。

「ローマに行って3、4年ぐらいして、本格的に作家活動を始めて、向こうの若い作家たちと付き合い、展覧会も一緒にやったりした。

その時、僕がいちばん衝撃を受けたのは、向こうの人たちと同じ壁に作品が並んだ時、彼らの仕事は非常に荒っぽい。

それに対して僕の仕事は隅から隅まで仕上がっているんだけど、発言力は絶対に向こうのほうが強いということだった。

なぜ自分の作品が完璧に仕上がっているのに、声が小さい、発言力が弱いのかということを感じて、ずいぶん悩みこんだ時期があった。

作家というのは、日本だとかイタリアだとかではなく、東洋だとか、西洋でもなくて、一個人の問題で、個の確立というのかな、自分を考えることの重要さに非常に悩まされた。」

イタリアへ行くまえと行ったあとでは、作品がまったく違っていて興味深かった。

日本国内でも安井賞を受賞したりして評価をされていたけれど「それまでのすべてを洗い流すつもりだった。」と言うとおりに「がらり」とまったく別物になっていた。

国内で創っていた作品は端正で情緒が溢れているけれど確かにモノトーンで大人しい感じ。それがイタリアで強烈な個性が産声をあげカラフルに孵化したような印象だった。

それはまるでサナギがチョウに変身したような劇的な変化だった。

国を超えて個が見事に発露した瞬間。

すべての大人は高橋秀さんのように、国という枠を超越し自分を見つめ飛躍しなければならない時にきているのだと思います。

国と国がいがみあい閉塞していく灰色の世界を突き破って、個人と個人が国なんて関係なく協力し合う世界へ向けて。

色鮮やかな未来を、子どもたちに手渡すために。

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写真ではまったくわからないけれど、キャンバスを切って組み合わせてあるので表面に凹凸があってそれが作品に立体的な躍動感を生んでいた。Photo by 世田谷美術館 Web site.
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 10:30| ブログ?