2020年02月06日

人の前で面白く

人の前で面白く在りたい。

では“人の前で何かやる”とはどういうことなのか?

舞台芸術の大前提・・・

「ヨガは人に見せるものではありません」ホットヨガへ体験にいった時に聞いて、舞踏とヨガは決定的に違うのだと思った。

若い頃にヒッピーのおじさんが砂浜で見せるともなく見られるともなく踊っているのが、とても格好悪く感じたのをいまだに覚えている。

自慰行為を見せられている感じで気持ちが悪かったなあ。あれは家の中で独りでこっそりとやるべき踊りだった。

人と人とのつながりのあいだで生まれるコミュニケーション。

そこに観る見られるという関係が生まれる。観られるものと見るものという立場の違いも生まれる。

だから劇場に行った時に舞台側から見られると緊張する。安全な守られた空間から一方的に観ているという立場が危うくなる瞬間。

では人の前で何かやるときに、面白く在りたい。楽しませたいと考えるのは何故か?

「何かやりまーす」と言って何もやらなかったらどうか。先ずは気まずい。「にっ」て笑ってごまかすか。しかし実は何もしなくても人間ってのは結構、見ていられるのです。

普段、人を「ジロジロ」観る機会なんてそうそうないので、自分が思っている以上に時間はもつ。

この時にからだが白かったりしたら、より長く観ていられる。

素のからだに意味も入ってくるのだな。「なんで白いのだろう?」

けれども、ルックスが面白ければ面白いほど長く見ていられるかというとそうでもなくすぐに飽きてしまったりする。

この点で言うと「何だかよくわからない。」というほうが気は惹かれる。

暗くてよく見えなくて「何だろう」と前のめりに観ていたのが、明るくなってはっきりしてくると「なーんだ」ということはよくある。

大川興業主催の『暗闇演劇』というのがあって、1時間完全暗転で声だけでお芝居が続いていく。

ラジオを聞いてるような感じでイメージをとても掻き立てるのだが、ラストに明るくなって舞台が見えてしまうのが残念だった。

人の前で何かやる。という大前提があってその上で人の前で面白く在るためには?という問いかけがくる。

では面白いとはどういうことか?

これは、千差万別で10人いれば10人分の価値観があるので難しい問題です。面白いと思う人が多ければ多いほど自分は嬉しいけれど、そうでもない人もいる。

「やりたいことが万人に受け入れられなくてもいい」と思う人。前衛的なものに多い。

舞踏の初期は前衛だった。エンターテイメント性がなかったのだな。

土方巽の『肉体の反乱』は「演出的にはそんなに面白くなかった。」と学生時代に観たという室伏さんがインタビューで語っていた。

『四季のための二十七晩』あたりで演出的になってくるのか。

大野一雄さんは最初からエンターテイメントを志向していたような気がする。見られるということを結構、意識していたようにも感じる。

ただ感性的に時代の最先端を走り過ぎていて、土方さんに“劇薬のダンサー”と呼ばれるほどだった。

1950年代に白塗りで女装だもんな・・・当時は当然、受け入れられなかっただろう。

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「こぼれるほどの叙情をもってシミーズ一枚で踊る男」土方巽が高校生の時に東京で偶然に舞台を観て衝撃を受けた大野一雄。70歳を超えて逆輸入されてやっと日本で認められた。Photo By Marco Tambara.
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 10:31| ブログ?