2020年06月21日

南と北、東と西

北朝鮮が南北融和の象徴、南北共同連絡事務所を粉々に爆破してしまいました。

第二次世界大戦のあとにアメリカと旧ソビエトによって引き裂かれた、朝鮮半島の戦争後遺症が悪化した感じです。

そもそも大韓帝国は、敗戦国になったわけではないのになぜ南と北に分断されたのだろう?

ドイツのように戦争に負けて東と西に分断されるのはわかるし、その理屈でいえば戦争に負けた日本が東と西に分断されるべきなのに・・・

理由は、植民地支配をしていたいた大日本帝国が負けてしまったからです。

南はアメリカが占領統治して民主主義になり、北は旧ソビエトが占領したのでソ連は崩壊したのにいまだに共産主義。

北緯38度線でわかれたのは、太平洋戦争の末期にソビエトが参戦して朝鮮半島に侵攻、広東軍に勝利したことにあわてたアメリカが急遽、38度線でわけて統治しようとソビエトに申し出たからだそうです。

それにしてもなぜ日本は分割されなかったのか?

調べていたら米ソ英中で分割統治することは、決まっていたようです。

北海道と東北はソ連、関東・中部・関西・沖縄はアメリカ、四国は中国が、中国地方と九州をイギリスが支配。米英中ソで東京を、米中で大阪を分割支配する案で最終決定していた。

この計画が廃案となった理由にはいくつかの説があるけれど、スリランカの初代大統領、J・R・ジャヤワルダナ氏の感動的な国連演説が、分割統治から日本を救ったと言われているのだって。はじめて知った。

もしも分割統治されていたら、日本のなかが東欧なみにややこしいことになり朝鮮半島のようにいまだに内戦状態だったかもしれない。

そうして生まれるいろんなドラマ・・・

先日まで南北朝鮮が舞台の『愛の不時着』を観ていました。

お話は許されない恋という古典的な物語りでしたが、南北に引き裂かれる愛はその理不尽さとそれが実際にありうること、というのがあいまって不思議なリアリティーで胸に迫ってきた。

当たりまえですが、北朝鮮の人々もじぶんたちとおなじありふれた人間であることにあらためて思い至りました。

描かれる質素で素朴な北の人々の生活を観ていると、おなじように独裁国家だった戦争中の日本もこんな感じだったのかと想像がふくらみます。

厳格な階級社会で星がひとつ違うだけで、コロッと態度が変わる。

身分の上下で、とたんに卑屈にも尊大にもなるさまを観ていると、その頂点にいるのがあの小太りでかりあげのひとなんだと思って不思議なきもちになったのでした。

それはさておき。

戦後75年もたつのに癒えない戦争後遺症のひとつ、朝鮮半島の分断。

世界中ではいまも紛争が絶えません。そうして生み出される難民たち・・・いつの世も国家に翻弄される国民という存在か。

戦争の原因である国ってのは、ほんとうになんなんだろう。

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『ジュニウス・リチャード・ジャワルダナ』

参照:世界史の窓 | FOOD ROAD ORGANIC NETWORK
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2020年06月22日

ジャジューカへ

2015年のいまぐらいにモロッコへといきました。

もう5年まえなのか。

まだまだ、海外へいくなんてとんでもない感じなのでひきつづき日記をひもといて思い出にひたります。

あるとき、戌井昭人氏から「モロッコのジャジューカ村であるフェスティバルへいきませんか。」というお誘いをうけた。

年に一回、世界中から限定50人をあつめて3日間のフェスティバルが開かれるというのです。

とっても面白そうなのでふたつ返事でいくことにきめて、赤塚不二夫さんの娘さまがやっているサイトを参考に申し込んで出発の日を待っていた。

5月31日、PM22:00に成田空港から出発。途中ドバイを経由してモロッコ・カサブランカへと向かいます。

モロッコといえば、作家のウィリアム・バロウズ、詩人のアレン・ギンズバーグ、画家のブライオン・ガイシンとジャジューカに魅了されたザ・ローリングストーンズの元リーダー、ブライアン・ジョーンズが思い浮かぶ。

あとはモロッコを舞台にした『シェルタリング・スカイ』で有名な、ポール・ボウルズぐらいしか知らなかった。

けれども機内で読んだ四方田犬彦さん著の『モロッコ流謫』によって、数限りない作家やアーティストがモロッコという国に取り憑かれたようになっていたことを知る。

6月1日、12:55、モハメッドX空港へと到着、東のはて日本から大陸中国へと入りインドをへてようやく人類起源の地、アフリカ大陸へと足を踏み入れた。

「モロッコは驚異と謎そのものだ」

「ある国とその風土を、他のどの国にもまして好きになるということはありうるのだ」

そう四方田さんに書かせる魔術的な国、モロッコへ入国。

空港から電車を乗り継いでカサブランカのホテルへチェックイン。

イスラム語の文字のうつくしさに目をうばわれる。その流麗でうつくしいフォルムにくらべるとアルファベットのなんと滑稽でみにくいことでしょう。

魔女や魔物がいまだに跋扈するいわれる、アラビアの文字をみていると言葉とは呪文なのだということが視覚的に理解できてくるのです。

2日、8:00にホテルをチェックアウト、電車に乗って3時間かけてタンジェへ。ホテルを探すけれどいっこうに見つからずなんだかテンパる。携帯の電池が切れそうで電波も入らなくて人生はじめてのテンパりを経験。

迷いにまよって魔物に魅入られたのかと思ったけれど、ホテルの名前を間違っていただけだった。

夕方、次の日に戌井君と落ち合うカフェド・パリへいってやっと落ち着く。

仮眠してから偶然に導かれて戌井君から聞いていたタジン屋へ。美味かった。店主のハッサンから“ジャザー”が人参で“ジュルベナ”がさやいんげんのことだと教えてもらう。

24:00、就寝 “スべラへラヘ”(おやすみなさい)

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『メディナの美術館の看板』
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2020年06月23日

タンジールで戌井氏と会う

2015年6月3日、鉄割アルバトロスケット主宰で作家の戌井昭人氏とモロッコの都市タンジェで待ち合わせをしました。

16時半ぐらいに待ち合わせをしていたけれど、ほんとうに会えるのか?半信半疑だった。

待ち合わせ場所のカフェド・パリで顔をあわせたときは、映画の中にきゅうに知り合いが出てきたような、異国の中にきゅうに千歳烏山があらわれたような不思議な感じでした。

いやー、ほんとうに「ひとりっじゃないってー、素敵なこっとねえー」と歌が出るほど、前の日までの不安や憂うつが嘘のように吹き飛んだ。

カフェでお茶を一杯飲みますがミントティーを「ハミガキ粉茶」と形容するので、いきなり笑わせてもらいます。

本日、泊まるのはリヤドと呼ばれる宿です。

リヤドはアラビア語で“木の植えられた庭”とか“中庭のある家”を意味する言葉でして、昔の邸宅をゲストハウスとしてリノベーションした宿。メディナという旧市街にたくさんあるのです。

ただし場所がわかりにくいので、2人で迷いながら探しながらむかいます。

メディナは入り組んで迷路のようになっているので、すぐに「あれ、ここさっき来なかったっけ」てな感じになるのです。

前の日にひとりで探検したら、行き止まりにおばあさんがいて指を一本立ててお金を請求された。ひょっとしたら魔女だったかもしれないので、1ディルハムは10円ぐらいだしあげたらよかった。魔法を教えてくれたかもしれない。

たどりついたら崖の中腹にあって見晴らしがいいおしゃれなリヤドだった。夜にハッサンのタジン屋へいってたべたスイカが美味かった。

兄弟子、村松卓矢が子どもの頃に「スイカの頂点のいちばん美味いところしか食べなかった」という話しをしたら「威張っているカブトムシみたい」と形容するので、笑わせてもらいます。

そのあとに戌井君がまえに行ったという音楽家の集うお店へ連れていってもらって、素敵な演奏を聴いてから帰って寝ました。「スベラヘラヘ」

次の日はもう1日タンジェに滞在です。

戌井君は街をウロウロするというのでこちらは海へと泳ぎにいきます。大駱駝艦で世界中を旅しましたが、各地で海があるときはかならず入るようにしていました。

いちばん美しかったのはニューヨークの海か・・・

リオデジャネイロの海も素敵だったな。サンフランシスコの海は北極の海流が入っているとかで、氷水かと思うぐらいに冷たくて死にそうになった。

タンジェの海は綺麗だったけれど、風が強くて砂埃がすごかった。泳いでいるひとはじぶん以外にいなかった。

そのあと待ち合わせのレストランへいったら、腕にinuiと刺青しているおじさんと出会って奇跡のようだった。

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『Tatoo @ Rif Kebdani』
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2020年06月24日

ザ・マスター・ミュージシャン・オブ・ジャジューカ

本日、6月5日は移動。いよいよ今回の旅の目的地であるジャジューカ村へ。

朝9時にリヤドをチェックアウト、まずはタクシーでタンジェの駅へと向かいます。

タクシーの窓から人が行き交う喧騒の街、タンジェを眺めながら向かいます。

タンジェの駅から急行列車でガタンゴトンと揺られて、ジャジューカ村の最寄りの駅“El kebir”へと約1時間、走ります。

駅に着いたらほかのフェスティバル参加者たちと合流、一緒にタクシーに分乗して村へと向かいます。

山の中の国道をゆるやかに上っていき、途中脇道へと入ってガタガタの山道を少し走ったら到着。駅から30分かからなかったのか。以外にちかくて驚きます。

そこからすこし歩いてジャジューカ村へ。

緑がゆたかでとちゅうに山羊の群れがいたりしてのどかです。まずは村の真ん中の集会場のようなところに集まり、カラフルな布の屋根があるテントでひとやすみ。

村はタンジェよりも暑くてびっくり。海沿いのタンジェとちがって風がなかったのだな。村の人からミントティーを頂いてスッキリします。

ぞくぞくと世界中からフェスティバル参加者が集まってきます。若い人が多いけれど、おじいさんやおばあさんもいた。みなさん音楽好きで自由な感じのひとたちです。

お昼ご飯がふるまわれて「メルシーボクー」

食後にテントの中で村の人たちが演奏をはじめて、かぎりなくダラダラとした自由な雰囲気です。

参加者全員が集まってきたのか、主催のフランス人のかたがどこへ泊まるのか説明をします。じぶんは戌井君とミュージシャンのリーダーのお家に宿泊します。

リーダーの家へといって荷物をおいて部屋でちょいと仮眠してから、家の中庭にあるベンチでくつろいだりのんびりします。ここは時間がゆっくりと流れている感じです。

夕方にもう一度、テントへといって晩ご飯を頂きます。けっこうなご馳走なのでびっくり。そのあとゆったりと時間を過ごしていたら、音楽家たちが正装して準備しているのが見えてわくわく。

テントでいまか、いまかと待っていたらあたりが暗くなってきた頃に、いよいよ、マスター・ミュージシャン・オブ・ジャジューカたちの登場です。のろのろぞろぞろと入場してきます。

みんなが椅子に着席して合図かなにかあったのか・・・

いきなりミュージシャンたちの凄まじい演奏がはじまったのだった。

音が頭の中を駆け巡りぐるぐるぐるぐるまわって、耳から飛び出ていってテントの中をぐるぐるまわって、また耳の中へと入ってくる。

永遠につづく渦巻きの中に浮いているような気分で、あっというまにどこにいるのかまったくわからなくなっていったのでした。

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マスターたちの演奏に聴きいる雲太郎君。Photo by Akito Inui.
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2020年06月25日

ジャジューカ村滞在2日目

初日のマスター・ミュージシャン・オブ・ジャジューカの演奏は、とぎれなく夜更けまでつづいた。

終わってからもしばらくは、耳の中で金切りごえのようなチャルメラの音が鳴り響いてどこにいるのかわからないような状態だった。

次の日、起きたら朝食が用意されていて「メルシー・ボクー」しぼりたての牛の乳が美味かった。

リーダーの奥さんがいろいろと用意をしてくれるけれど恐縮。水はどこかの井戸から奥さんが汲んでくるようで、つかうのが申し訳なかった。いつもザッと水を浴びるだけにしていた。

一緒に泊まっているジャーナリストだというプロレスラーのスタンハンセンみたいなおじさんが、水をザバザバつかって水浴びしていていて音を聞いているだけでひやひやした。「もう少し遠慮しろい」とこころのなかで思っていた。

部屋は寝ているとハエが耳元にブンブン飛んできて、ディズニーランドの『プーさんのハニーハント』のようだった。

ハエがやけに多いなあと思っていたら、向かいの部屋が牛小屋だったのでした。

今日も昼ごはんは、テントで食べるので移動です。

とり肉のクスクスでめちゃうまだった。食べ終わるとまた村人が演奏をはじめます。昨日はわからなかったけれど、マスター・ミュージシャンも何人か入っている。

チャルメラのような楽器“ライタ”をつかうのは夜のフェスのときだけのようで、昼間は笛をつかっていた。太鼓とあと昨日はライタを吹いていたおじさんがバイオリンを弾いて、それがとてもエキサイティングで盛り上がった。

昼間は歌もうたっていた。ひとりがなにかを問いかけると、他がそれに答えるという問答形式になっていて絵解き曼荼羅のようでかっこよかったなあ。

いろいろと世話をしてくれるリーダーの息子、ビラルが調子のりで演奏中におどりだしたりする。

太鼓も好きなようで、しかし下手くそなのでかれが叩きはじめるといっせいにみんなが演奏をやめてどこかへいってしまったのが可笑しかった。踊るのは許されるけれど太鼓はだめなのだな。

ビラルは太鼓は下手だけど笛は素晴らしく上手で夜に吹いてくれたけれど、どこかさびしげな音が美しくこころへ響いた。

父親はマスター・ミュージシャン・オブ・ジャジューカのリーダーであり、偉大な太鼓叩きでありそんな父親に憧れているけれど、彼には笛のほうに才能があるという運命のいたずら。好きなことと得意なことは違うのだ。

いつかビラルは、ライタでジャジューカを率いるようになるのかもしれない。

夕方にまたテントにもどって晩ご飯をたべてそのあと、暗くなった頃にマスターたちがあらわれます。

はじまったらエンドレスループ、昨日よりもながく演奏がつづいて音の洪水に夜通しおぼれつづけたのでした。

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『山羊とすれちがう戌井氏』
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2020年06月26日

まつりのおわり

まだまだ、海外へいくなんてとんでもない感じなので、ひきつづきジャジューカの思い出をひもときます。

2015年6月7日、今日はジャジューカフェスティバル最終日です。

朝起きていつものようにほかの滞在者たちと朝ごはんを頂きます。

旅慣れた戌井君がみんなとブロークンイングリッシュでよく喋っていたけれど、じぶんはことばの壁にはばまれてあんまり喋れなかった。

面白そうなひとがたくさんいたのだけどなあ・・・残念。

けれど、ほかにも何人かいた日本人であつまったりして閉鎖的になるのは嫌だったので臆することなくランチの時などは、ほかのグループに突っ込んでいった。みなさん気さくでやっぱり面白かった。

午後は伝説がのこる洞窟へ。

“ある日、ジャジューカ村にやってきたアッタールという旅人が、近くの丘にある洞窟で眠っていた。その洞窟で、からだが半分山羊で半分男の“ブージュルード”に遭遇する。

彼はブージュルードたちから村人には秘密にすることを条件に、美しいフルート音楽の演奏を教わった。

しかしアッタールが村人にそれを教えてしまったため、ブージュルードは怒り狂い村にやってきた。村人は村の娘をブージュルードに差し出して、音楽で彼らを踊らせた。

疲れたブージュルードたちは洞窟へ帰った。その後、たびたび村へ踊りにあらわれるようになった。

ブージュルードの出現が村の土地を肥やし村人たちを豊かにしたので、五穀豊穣を願う儀式としてこの演奏が根づいたという。

ブージュルードたちが洞窟を去ってからは、彼を装った村のダンサーが主役となり、毎年『エイド・エル・カビール』というお祭りにおいてジャジューカが演奏されている”

洞窟へいった帰りにブージュルード役をやっているおじいさんと若ものが、ほんの少しのお金をめぐって真剣に殴り合いの喧嘩をしていたのが可笑しかった。ほんとうにたいした額ではなかったのに。

そういえば、毎晩テントに若者が大勢やってくるのだけど、みんないま風の服装でスマホを手にしてチャラチャラしていて、正装で繰り広げられる真剣で伝統的な音楽とのギャップが凄まじかった。

さて、フェスティバルは今晩でおわり。ミュージシャンたちはだんだんと調子を上げてきているようで、噂では今日は朝まで演奏するとか。

昨日までテントのまえにいたかわいい山羊を観ながら、戌井君がジャジューカ村を舞台にした映画のイメージをかき立てていた。その山羊が今日はいなくなっているのでどうしたのだろうと思っていたら、晩ご飯にでてきた。

合掌してありがたく命を頂きます。

みんなで山羊をたべて神さまに近づいていくのです。

演奏がいつものようにはじまったらエンドレスループ、最後はみんなでトランス状態で踊って終了。

気づいたらあたりが明るくなっていたのでした。

The Master Musicians of Joujouka Festival 2013 (Boujeloud ghiata)

参照:PHASHION.jp
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2020年06月27日

ジャジューカおわり、帰国、春の祭典

楽しいときはあっというまに過ぎ去ってしまうもの。

三日間におよんだ、モロッコ・ジャジューカ村でおこなわれたフェスティバルは終わってしまった。

2015年6月8日、リーダーや息子のビラルと再会を誓いつつ、みんなにお別れをつげてタクシーにて最寄りの“El kebir”駅へ。

そこから約1時間かけて列車でガタンゴトンとゆられながら、ジャジューカでの非現実の極致の野生的で濃厚な体験の余韻にひたります。

タンジェの駅からタクシーで街に一歩入ると、クラクションやひとの声といった喧騒でいっきに現実へと引き戻された。

今日は、画家のアンリ・マティスが長期滞在して絵を描いていたことでも有名な大通りにめんした最高級ホテル“エルミンザ”に宿泊です。といっても円が強いので、1人1万円もしないのです。

エルミンザのバーでピアノを聴きながら戌井昭人氏とビールで乾杯。

「生きててよかった」

じぶんの人生でもおそらく3本指に入るビールのうまさだった。ジャジューカ村は厳格なイスラム教で飲酒が厳禁、飲んだら帰されると言われていたのでした。

しかもめちゃくちゃ暑いのだけど冷蔵庫などないので、冷たい飲み物をつねに欲していた。

そのあとはホテルのまわりをうろうろしてお土産を買ったりして、夜はどうしたのか?

次の日は朝6時半に戌井君にわかれを告げてホテルを出発。かれはあと一週間のこって旅をつづける。北のほうに友達がいるといっていた。

タクシーにて駅まで移動してそこから空港へ。

14:30、空港を出発。「さらばモロッコ、また来ます。」機内では『モロッコ流謫』のつづきを読みながら余韻を反芻します。

6月10日夕方、約20時間かけて成田空港へ到着。梅雨空の東京へともどってきました。満員の山手線にのって帰宅。

さあ、次の日から新作『春の祭典』の稽古です。今回のジャジューカへの旅は、新作の取材も兼ねていたのです。

春の祭典はストラビンスキーにとって異教である、イスラムの祝祭を題材にした楽曲。そうして生け贄が主題であったりと、まさにジャジューカの世界なのです。

そこから約2ヶ月のあいだ、意気込んで必死で頑張って制作にはげんだ。

結果、春の祭典史上前代未聞、全編無音の春の祭典ができあがった。音響の牛川紀政さんは大絶賛してくれたが、観客の評判は賛否両論だった。

賛否両論だったけれど、春の祭典の初演のときのような事件にはならず話題にもならずに終わってしまった。ちから及ばず・・・

どこかの劇場でひさしぶりに元パブリックシアターのかじやさんに会ったら「春の祭典観たよ、最高だった」とほめてくれた。けれど「賛否両論でした」と答えたら「そうだろうね」と笑っていたな。

そのあと再演をなんども目論んだけれど、立ち消えになっていまに至っているのでした。

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舞踏家集団デュ社第2回公演『春の祭典』@D-倉庫 Photo by bozzo
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2020年06月28日

打ち合わせ2回目

昨日はオペラシアターこんにゃく座にて新作オペラ『末摘花』の2回目打ち合わせでした。

本日は雨ではないので自転車で30分ほど走って川崎にちかい電車の駅へ。

駅についたらマスクをします。全員がマスクをしています。電車にのってもほとんど全員がマスクをしていた。こうなったらマナーとかルールとかではなくて常識みたいなものなのか。

すいていてまわりにひとがいなかったのでマスクを外し、だんだん混んできたのでマスクをします。

なぜマスクをするのか?

常識にはしてしまわずに、考えて臨機応変にいきたいものです。まわりにひとがいないのにマスクをし続けるのは、晴れているのに傘をさし続けるようなものです。

だんだん混んできて隣におばさんが平気で座るのでギョッとします。劇場では席を3つあける努力をしているというのに、電車の中はお構いなしというのはおかしいしのではないか。いったいなんなんだろう。

最寄りの駅についたらマスクを外して、ほっとひと息せいせいします。

そこから10分ほど歩いてこんにゃく座に到着。前回、リモート参加だった美術の杉山至さんも今日はリアル参加。

zoomというのは、全員がオンラインでの会議ならば向いているけれど1人だけzoomで参加だと、声がほとんど聞こえなくて前回の内容は3割ほどしか分からなかったそうです。

俳優座の席は1席飛ばしでいけそうで良かった。けれども客席でのお芝居はダメ、通るのもダメ、花道を使うならば客席を減らすとか注文は多いようです。

役者同士の飛沫感染の対策も求められるようですが、そこは目をつぶって最終的に何かあったら代表が責任をとる覚悟のようで頼もしい。

「長官なんて責任とってやめるためにいる」という前文化庁長官、青柳正規さんのことばを思い出した。

終わったら飲みにいきたいところですが、本日は帰ります。

娘の学校の文化祭が無観客でおこなわれることが決まったけれど、だれかひとりでも感染したら中止だそうです。父親がインドカレー屋で感染して、娘にうつしてしまったらたいへんなので協力するのです。

けれど話しを聞いて「厳しすぎないか?」と感じたし、連帯責任みたいなやりかたが気に食わないと思った。犯人探しみたいにならないように願います。

感染するのが悪いことという考えかたと、絶対感染してはいけないみたいな風潮がなあ・・・感染なんて不可抗力だと思います。感染するかどうかなんて運不運みたいなところもある。

感染しないように最低限、できる限りのことはやりますが。

とかとか思いながら自転車で帰っていたら、肉の『スタミナキング』を発見。

今日は働いたし豪勢に上レバーを買って帰りました。

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『自画像にらくがき』
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2020年06月29日

沖縄戦の断片

6月23日は沖縄戦の『慰霊の日』でした。

なぜ23日かというと、沖縄南部にいた日本軍トップが自決したのが23日だからとか。

けれどそのあとも、追い詰められた日本兵が住民を殺害するなど惨劇は終戦までつづいたという。

沖縄は太平洋戦争末期に大日本帝国陸軍によって、本土防衛の時間稼ぎの捨て石にされてしまった。

その結果、3ヶ月におよぶ住民をまきこんだ激烈な地上戦がおこなわれ、約9万4000人の非戦闘員の沖縄のかたがたが亡くなった。かき集められた沖縄出身戦闘員も2万8228人が亡くなり県民の4人に1人が犠牲になったといわれる。

一般島民が多数犠牲になった理由は、首里城の地下にあった司令部から多くのひとがいた島の最南端へと日本軍トップが退却していったからだという。

いちばんの激戦地は前田高地。沖縄戦のなかで「ありったけの地獄をひとつに集めた」といわれる凄絶な白兵戦が日本兵とアメリカ兵のあいだでおこなわれた。

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1945年5月、焼け野原と化した那覇市街上空を飛行する米軍観測連絡機。Photo by Wikipedia.

集団自決という悲劇もおこった。

一部のひとたちは「米軍につかまれば男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けたうえでひどい殺されかたをする」と日本軍将兵たちから恐怖を植えつけられていた。

「敵が上陸してきたら全員玉砕だ」とも訓示されていた。

読谷村のチビリガマといわれる、自然洞窟の壕へと140人が避難していた。

「ころさない、でてきなさい」とのアメリカ兵の呼びかけに応じることなく、みずから火を放つなどして肉親相互が殺しあい83人が死に至ってしまった。

そのチビリガマから1キロはなれたシムクガマには、約1000人の島民が避難していた。

米兵がやはり投降を呼びかけるけれど「米軍は鬼畜、自決するべき」と声があがる。

その混乱の中、ハワイからの帰国者、比嘉平治さんと比嘉平三さんの2人が「アメリカ人はひとを殺さないよ」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、手ぶらで外へとでていった。

英語で米兵と話しをして全員を投降へと導き、1000人の避難民の命が助かった。この2人のおじいさんは、普段はなにかと日本兵にたてつく存在でみんなからは“非国民”と呼ばれていたそうです。

どんなときでも冷静な引いた視線が必要だという教訓です。

最終的に沖縄戦では約19万人が亡くなった。19万?

たいへんな数です。想像もつかない。東京都三鷹市の人口が19万だというので、三鷹の全員が死んだということか。

それもウィルスで亡くなるとかではなくて、殺しあいながら死んでいく。とんでもないことです。

19万人のひとりひとりに両親がいて兄弟がいて妻がいて夫がいて子どもがいた。猫も飼っていたかもしれない。

永遠に失われてしまった19万のいのち。

それでもまだ、大日本帝国は降伏しなかった・・・

ことしも刻一刻と原爆投下の瞬間が近づいてきています。

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伊江島で戦死した直後のピューリッツァー賞受賞の従軍カメラマン、アーニー・パイル。享年44歳。合掌。Photo by Wikipedia.

参照・引用:2020年6月23日 毎日新聞 | 2020年6月23日、24日 朝日新聞 | 沖縄県読谷村総合情報サイト | フォーラム『沖縄戦における「集団自決」と教科書検定』林 博史 | Wikipedia
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2020年06月30日

戦争とわたし

沖縄戦でのいちばんの激戦地、前田高地を舞台にした映画『HACKSAW RIDGE』を観ました。

主人公のデズモンド・T・ドスは実在の人物。

かれはキリスト教の敬虔な信徒であり、銃をもつことを拒否する“良心的兵役拒否者”として志願する。良心的兵役拒否者とは、信仰や信条によって武器をもって戦うことを拒否する者。

そんな息子に従軍経験のある父親は「戦争はひとを殺すことだぞ」と教える。

入隊してからも銃をもつことを拒否しつづけて上官から嫌がらせをうけ、仲間からいじめをうける。そりゃあそうです、矛盾してる。隊長からは除隊をしろと言われるけれどドスはそうしない。

上官の命令に背いた罪で軍事裁判にかけられて、婚約者がかけつけてきて説得するけれどかれは答える。「信念を捨ててひとを殺せというのか?」

「戦争でひとを殺すことは罪ではないのか?」という議論は、戦争がこの世界にあるかぎるつづくでしょう。

けれども合法とかルールがあるとかいくら言っても、良いことであると胸をはって子どもたちに言えるひとはなかなかいないのではないか。

天皇のため神のため国を守るためと大義名分が必要になってくる。しかしそれは人間にひとを殺させるための詭弁ではないのか?

「ならば、相手が武器をもって襲いかかってきたらどうする?無抵抗でやられるのか?」主人公は仲間から殴られて、そう問いかけられてもやはり暴力をつかわない。

その姿はたしかに美しいけれどそれでいいのか?最愛のひとが暴行を受けていても闘わないというのか?

「あした僕は名も知らぬ街で 名も知らぬひとを銃で撃つのさ あした僕は君を守るためと 自分に言い聞かせて ひとを撃っちまうのさ」

観ながらサンボマスターの名曲『戦争と僕』を思い出した。

「わたしは衛生兵として仲間を助けたいのです。ひとりぐらい戦場に殺すものではなく、助けるものがいてもいいのではないですか。」ドスはそう訴え、最後はみとめられて戦場へといく。

その言葉どおりにかれは敵も味方もわからないような前線にて75人の負傷兵の命を救い、良心的兵役拒否者としてはじめてアメリカ名誉勲章を授与された。

75人か・・・殺すことの簡単さにくらべて、助けることのなんとむずかしいことか。

ライフルによって脳みそが吹っ飛び、機関銃によって上半身がハチの巣になり、手榴弾によって下半身がなくなり、火炎放射器によって燃え上がり、砲弾によって粉々に飛び散って死んでいく兵士たち。

残酷だといわれる描写もあったけれど、現実はあんなものではなかったのでしょう。

「おそろしさも、苦しさも、悲しさも感じうる人間感情の極限であった」

前田高地の激戦で生き残った沖縄の学者、外間守善(ほかましゅぜん)さんの回想より。

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『デズモンド・トーマス・ドス 』戦後は後遺症との闘いの連続であったが87歳まで生きた。

引用:2020年6月23日 毎日新聞
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