2020年08月01日

7月場所、13日目

お相撲さんの四股名が興味深いです。

十両の朝弁慶の名前が変わっていて可笑しい。

アサベンケイって、朝だけ強いみたい。ウチベンケイは家の中でだけで強いひとのこと、ソトベンケイは家の外だけで強い。

トビザルとアクアってのもどんな力士か見たことはないけれど変わった名前。チュラノウミはぜったいに沖縄出身だな。把瑠都なんていうひねりのない四股名の力士もいたな。バルト海出身だからバルト。

それはさておき、大相撲7月場所13日目。

西の関脇、正代は横綱白鵬の休場により不戦勝で10勝、ラッキー。東の関脇、御嶽海も10勝して大関昇進の起点になる関脇での2桁勝利です。

そして、朝乃山と照ノ富士の新旧大関、1敗同士の直接対決は、なんと幕内最下位の照ノ富士が勝利。

番付がはるかに上の大関、朝乃山は屈辱的なダメ押しまでされて敗れてしまいました。相手が土俵から出ているのにさらに押す行為で、久しぶりにみました。

ダメ押しは相手に怪我を負わせることもあるし危険なので、大相撲ではよくないこととされて非難の対象となるのです。引退した朝青龍や白鵬もダメ押しで非難をされていた。

白鵬はじぶんが大相撲を観ていない時期に、横綱の品格ということをしきりに言われていました。懸賞金のもらいかた、ダメ押しにカチ上げにヒジ打ち。勝負だわらを踏みつけるなんてのもあった。

結界である勝負だわらは神聖なもの、踏まずにまたがねばならないそうです。そういうことを教えてもらえなかった不幸もあると思います。

相撲も格闘技、言ってみれば喧嘩みたいなもの。めっぽう気が強く喧嘩っぱやくて荒っぽいくらいでないとやっていけないところもある。

そうして、古代の相撲ではダメ押しは好ましくない行為ではなかったようです。

日本書紀に残る、ノミノスクネとタイマノケハヤによっておこなわれた天覧相撲の記述によれば、スクネは倒したケハヤに踏み付けのダメ押しをおこない、ケハヤの腰骨を踏み折って殺害する。

この勝負の結果、スクネは所領を得て垂仁天皇への仕官がかなったそうです。

ちなみに、このノミノスクネとタイマノケハヤの力比べが国技相撲の発祥とされるそうです。大相撲のそもそもの発祥が殺し合いだったのだな。

荒っぽくて当然です。

そういう意味で見れば、照ノ富士に比べると朝乃山は甘さがあったかもしれません。

さあ大相撲はいよいよ大詰め、あと2日。

1敗の照ノ富士が先頭をはしって、それを2敗で朝乃山が追う展開です。

どうなるか。

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『野見宿禰と當麻蹶速』

参照:奈良県葛城市ウェブサイト『相撲発祥と當麻蹶速』
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2020年08月02日

なぜ8月だったのか

8月に入りました。

新聞では、そろそろ“8月ジャーナリズム”がはじまっています。

8月は、広島への原爆投下と長崎への原爆投下、そして終戦が重なっていて戦争の話題が集中するのでそう言われるのです。

いまから75年前、1945年8月のアメリカ。

日本への人類史上初の原爆実戦投下で、21万人以上が亡くなるとアメリカ国内では推計されていた。

多忙を極めていたアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンは、そのことについて議論をしたり日本国民に思いを巡らせたりするどころではなかった。

そして「原爆の威力が隅々まで行き渡る、市民が暮らす都市部に原爆を落としたい。」という科学者たちの、知的好奇心をトルーマンは止めきれていなかった。

22億ドルがかかった兵器の責任者としてアメリカ国民に効果を証明しなければならないレスリー・グローヴス将軍は、もちろんそれに賛成していた。

グローヴスは、日本に原爆を大量投下することを計画していた。その数なんと17発。

東京も、もちろん投下目標になっていた。

「いや原爆を落とす場所は軍事施設に限り、決して女性や子どもをターゲットにしてはならない。」

トルーマンは、当時の日記にそう書き記している。

グローヴスは、人口が密集していて殺傷できる人数が多く効果が大きい京都へも原爆を落とすのがいちばんだと主張、京都駅も目標地点に選ばれていた。

しかし有識者や知識人のあいだから「アメリカがヒットラーを凌ぐほどの残虐行為をしてしまう。」「無差別爆撃にあたるのではないか。」と懸念の声があがっていた。

同時に親日派の軍人、ヘンリー・スティムソンが京都への原爆投下に反対していた。

グローブスがトルーマンに軍事都市であると強調した虚為の報告書は黙認され、人類がはじめて核を解き放つ場所に選ばれたのは広島だった。

「2発目以降は準備が出来次第投下せよ」とのグローヴスの命令があったとされている。

原子爆弾の大量投下で日本を壊滅させてそのあと本土へと上陸、火炎放射器や毒ガスやサリンをつかい生き残った人間も全滅させて無血占領するのがアメリカ軍の計画だった。

その名も“オリンピック作戦”と名付けられていた。

それにしても何故、8月だったのか。

気象学者の「8月は統計的に晴れの日が多い」という意見があったので、その意見に従ったのだそうです。

そんな学者の提言で真夏という残酷な季節が選ばれた。

原爆投下後の炎天下の腐乱腐臭地獄、大量のウジやハエの発生はそんな学者の一言で決まってしまったのです。

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『夏の花、文庫版スケッチ』

参照:2019年1月6日『原爆投下知られざる作戦を追う』NHK
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2020年08月03日

7月場所、14日目、千秋楽

大相撲7月場所、14日目。

13連敗していた阿武咲がようやく勝ちました。

館内からの拍手がいっそう大きかった。長かったトンネルを抜けられて良かったなあ。

さて、前日の勝ちで照ノ富士の復活が俄然話題になってきていましたが、惜しくも関脇正代に敗れて2敗と後退。

関脇、御嶽海は負けずに11勝。

13日目結びの一番、身長169センチの小兵力士の照強は立ち合い一髪、見事な足取りで188センチの朝乃山を土俵にひっくり返した。

照ノ富士と同じ部屋の照強は、兄弟子を援護射撃しようと前の晩から考えて狙っていたそうです。からだが大きいからとかならず勝てるわけではない。柔よく剛を制すではないけれど、間や気のものなんだろうな。

相撲というのは、ほんとうに面白いものです。

これで2敗の照ノ富士がふたたび単独トップで千秋楽に、3敗の御嶽海と勝負。朝乃山は正代と3敗同士の対決。

照ノ富士が勝てばその瞬間に優勝だが、敗れた場合は照ノ富士と御嶽海、そして朝乃山と正代の勝者が3敗で並ぶ。その3人でのともえ戦という優勝決定戦となるのです。そうなったらおもしろいなあ。

皆んなが虎視眈々と賜杯を狙っています。

観てるだけの気楽な身としてはもつれて欲しいですが、どうなるか・・・

そして千秋楽。

今場所は本来ならば名古屋でおこなわれる予定でしたが、感染のリスクを減らすために東京でおこなわれています。

観客席も枡席にひとりとあいだをあけています。けれどもマスク着用がルールのようなので、本来ならば間隔はあけなくてもいいはず。

飛沫のことを考えて人と人のあいだをあけるということだったのが、形骸化してきてとにかくあいだをあけるということになってきてしまっている。困ったなあ。

それはさておき、取り組みです。

前頭17枚目の照ノ富士と関脇、御嶽海の勝負は照ノ富士が寄り切って5年ぶりの復活優勝でした。

大関から陥落した力士の優勝は魁傑以来、44年ぶりだとか。一度は相撲の世界のいちばん下、序二段まで落ちていたがそこから這い上がってきた。

ともえ戦を観れずに残念・・・まあ、でもみんなの応援があと押しした感じか。

朝乃山は正代に勝ってなんとか大関の面目を保ちました。2横綱にもう1人の大関も休んでしまい新大関には荷が重かったと、元横綱北勝海の八角理事長が心中を察していた。

「つづけてきて良かったです。色んなことがあったけど、笑える日が来ると信じてました。」

そう照ノ富士はインタビューに答えていた。

じぶんもこの『ブログ?』をやめずになんとかつづけます。

そのうちいいことがあるでしょう。

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『おめでとう』
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2020年08月04日

木谷真一、70歳

キダニ家は広島市内で呉服屋を営んでいた。

キダニ家四代・キダニジツヘイが大成功。大阪、北海道、広島に店を出していた。

広島では市内の横町付近にて、シンイチが『丸さ呉服店』を任されていた。商売は戦争がはじまるまで順調で、結構手広くやっていたと聞く。

当時の広島は静かな城下町で川が豊かに流れる、ほんとうに住み心地の良い町だった。東京や大阪が大空襲を受けるなか、何故か広島だけは大した空襲はなかった。

しかし長女マサコの婿、シンスケが「軍港のある広島は危ないから早く淡路へ来るように」という手紙を淡路島に住む甥からうけとり、躊躇を感じながらも移住を決断。

妻のフミコと長女マサコ、長男サブロウ、次男トシオ、次女ナオコは、シンスケの生まれ故郷である淡路島洲本へと残務整理のため残るシンイチを残し、1945年3月下旬にさきに引っ越していた。

家族の出発のとき、長いあいだ親しくつきあったひとたちが大勢、お別れを惜しんで広島駅まで見送ってくれた。

あのひとたちは、皆んな8月6日に亡くなるのだった・・・

その日、キダニシンイチは早朝の空襲警報で目が覚めた。いつものように空襲はない。

またか、布団の中でそう思う。

最近誤報が多い。敗けつづきで軍部も混乱しているのだろう。目が覚めてしまい、しばらく布団の中で輾転としたが、もう夢の中へと戻ることはできなかった。

仕方なく起きるとメガネをかけて、灯火管制の黒幕を開ける。外は薄日が差しているがまだ太陽は照りつけていない。朝曇りのカンパチというが、今日はそうなりそうだ。

トイレに行き用を足そうとして、朝勃ちしていることに気づいた。

おや?どうしたというのだ、マイリトルボーイよ。

トイレからでて洗面所で顔を洗い歯を磨いた。誰もいない家はガランとして急に老け込んでしまったようである。

台所へいき簡単に朝ごはんを用意する。昨日の夜にお手伝いさんがつくってくれた残りものを、そのまま食べた。

男のひとり暮らしは、何かと不便でいけんのう。

そう思いながら寝室へと戻り浴衣を脱ぐとシャツとズボンに着替えて玄関へといき、帽子をかぶりステッキを持って日課である護国神社へのお参りに出かけた。

道中、やはり雲間から太陽があらわれはじめた。

蝉はまだ鳴いていないし、それほどは暑くない。人もまばらである。

お参りを終え、護国神社を7時半に出る。

始業の9時までにはまだ間があった。

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『キダニ家家族写真』1935年頃、市内の写真館にて。後列左よりマサコ、シンイチ、サブロウ。前列左よりナオコ、フミコ、トシオ。次女・ナオコさんだけが、まだご存命である。
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2020年08月05日

いつもの朝

1945年8月6日、7時半頃。

シンイチは毎朝の日課である、護国神社へのお参りをすませた。

今日はお手伝いのひとが2人来てくれる。そろそろ残務整理も終わり、すっかりと片付いてきていた。

一週間後には、淡路島へと旅立ち家族に会えるのだ。広島を離れるのは寂しいが、家族に会えるのはやはり嬉しい。

少し気分が明るくなったシンイチは、始業時間の9時まで散歩をすることにした。手に入るものなどないに等しいが、淡路にはないものをお土産にしてやろう。何がいいだろうか。

孫の陽子が好きなみかんの缶詰が手に入ればなあ。そんなことを考えながら相生橋の上へと入った。相生橋は本川と元安川をまたいでかかる、まるで猿股のような橋である。

アメリカならあ、さしずめ“ T ”じゃ。T-backじゃ。戦争がはじまるまで、外国語大学で英語を専攻していたシンイチは、そう思いひとりほくそ笑んだ。

まあ、ええか。

戦争で一切の財産も何もかも失いつつある。しかし、人生もこの川のようなもの。流れていって海へとかえり、終わる。それでいいのかもしれない。流れにただ身を任せれば・・・

ゆっくりと雄大にうねっていく元安川の流れを、橋の上から欄干に手をつき飽きるともなく惚れ惚れと見ていた。

ここ広島は水の都である。太田川は、よこがわの北側で六つの支流に別れる。満々と水をたたえ休むことなく流れつづける六つの川。ぼんやりと川面を見ていたが、蝉の声ではっと我にかえる。

もう8時か。

そろそろ店に帰って用意をはじめるか。懐中時計で時間を確認するとそう考えた。お洒落好きなシンイチは呉服屋にもかかわらず、普段は洋装で通していた。

中洲から木橋を渡り、広島県産業奨励館を右に見ながら歩きつづける。

幟町のおせんていまで来たときだった。盛大に鳴く蝉の声に混ざって、かすかに飛行機の飛ぶ音が聞こえた気がした。雲ひとつない夏の空を見上げる。

三機のB29が飛んでいるのが目に入った。爆撃にしては結構、高度が高かった。偵察か、呟いたときだった。あっ、何か落とした!そばにいた子どもたちが口々に叫んだ。

キラリと光るものが落ちてくるのが見える。

パラシュートか?シンイチはそんなふうに思った。

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とにかくお洒落さんだったのよ。次女のナオコさんはそう回想する。
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2020年08月06日

ふたつの太陽_2020

1945年8月6日 8時15分

広島の青空に、摂氏12000度の“ふたつの太陽”があらわれた。

太陽の表面温度が6000度。

太陽、ふたつ分の狂気が人類の手によって解き放たれた。そこにいた一人一人。そしてそのひとにつながるすべての命を永遠に絶つ光と熱と風。10万人のシンイチがその日、亡くなった。

まずは光。

“千の太陽を集めたよう”と形容されるその光で一瞬に消え去ったひと、多数。コンクリートの建ものには人間の影だけが残った。

そのあとの高温の爆風で一瞬で燃え尽きたひと、無数。爆心地周辺の地表の温度は摂氏4000度にも達した。いまだに死者の数の誤差が、プラスマイナス1万人といわれる所以である。

不幸にも生き延びてしまったひとは 火傷で全身を真っ黒に膨らませ 皮膚がベロベロにめくれ 腕が千切れ 腹が裂け 内臓がこぼれ落ち 目玉が飛び出る

爆心地から離れていたひとには 無数にガラスの破片が突き刺さる

そして あちこちで次々と起こる火事 逃げようにも逃げるところがない 川に救いを求めてなだれ込む人々は 次から次へと溺れ死ぬ 竜巻が巻き起こり 人々は天高く舞い上げられ 地面に叩きつけられて死ぬ・・・

その瞬間、まるで巨大なフラッシュをたいたように目の前が真っ白になった。

真っ白なのだけれどそのふちは、赤や緑や紫やいろんな色が気味悪く縁取っていた。

と、耳をつんざくような音がしてシンイチは吹き飛ばされた。耳が聴こえなくなって無音になった。ゆっくりと起き上がるとあたりは真っ暗で何も見えなかった。耳のつかえがとれた瞬間に人々の悲鳴と叫び声が聞こえてきた。

そばにいた子どもたちは吹き飛ばされて、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で死んでいた。

じぶんはどうなっているのか?顔を触ってみるがぶよぶよとしていて感覚がない。あたりからはたちまち火が上がり、あちこちで火事が起こりはじめたので慌てて歩きはじめる。

切れた電線が垂れ下がりばちばちと火花をあげている。一頭の馬が燃えながら走っていく。カラスが燃えながらぴょんぴょんとはねていく。

血を流していないひとは1人もいない。頭から、顔から、手から、裸のひとは胸から、背中から、腿から、どこからか血を流している。皮膚がだらんと垂れて、両手を幽霊のように前に出して歩いているひとが大勢いる。一糸まとわずに歩いているひとも大勢いる。

近くに爆弾でも落ちたのか・・・

なにが起こったのかまったくわからないまま、シンイチはとにかく丸さ呉服店を目指すのだった。

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『原爆投下直後』提供:広島平和記念資料館/撮影:米軍

参照・引用:『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫、『父と暮らせば』井上ひさし 新潮文庫、『ヒロシマを世界に』広島平和記念資料館編、『原爆詩集』峠三吉 平和文庫 日本ブックエース発行、『夏の花』原民喜 集英社文庫、『ヒロシマ・ノート』大江健三郎 岩波新書
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2020年08月07日

1945年8月6日、夕刻

シンイチは、ゲンバクの落ちたヒロシマの街を歩きつづけた。

泣きわめく声が聞こえるのであたりを見回すと、子どもが家に挟まってうごけなくなっていた。

よく見るとそれは知り合いの子だった。火はすぐそこまで迫っている。

からだはほとんど外に出ているのに、片足が柱と柱にはさまって引き出せないのだ。助けようとするがどうにもならなかった。周りを見ても全裸で狂ったように歩く真っ黒なひと、ひとばかり。もうすぐ楽になるからな。シンイチは、謝るように手を合わせ逃げるようにその場を立ち去った。

助けてあげられなくてごめんな。

流れる涙を拭うこともなく歩きつづけた。自分自身も全身大火傷を負っていた。服はズボンがかろうじて半分残っていた。真夏だというのにぞくぞくとするぐらいに寒い。

震えながら歩いていると、とつぜんはげしく雨が降りはじめた。真っ黒な雨だ。どろりと泥のように重たかった。黒い雨を浴びながら歩く。靴はいつの間にかなくなっている。腫れ上がり真っ黒で、ぶつかっても誰だかわからない顔・・・顔・・・

じぶんもそうなのだろう。

そんなことをぼんやりと考えながらシンイチは、火の手に流されるようになり逃げ惑う群衆に流されながらも、いろんな知り合いの安否を訪ねて回る。

声を限りに叫んでいる男、悲鳴をあげながら走る女性や子ども、苦痛を訴えるひと、道端に坐りこんで、助けをもとめるように空に向けて差し出した両手を振っているひと。

崩れ落ちた家のわきで、合掌瞑目して一心に祈っているおばあさん。四つん這いになって鳴き声をあげながら、わずかずつ進んでいる男。

いろんなひととすれ違う。

燃え上がって通れないところは遠く迂回しながら、夕方まで歩きつづけ死体の山の上を歩きつづける。皮膚が破けずるりとすべり、こけてしまうこともしばしばだ。

会うひと会うひとに名前を聞くが、誰だかまったくわからない。全員が全員、誰かを探している。みんな何処へ行ってしまったのか?わからない。

何もかもわけがわからないが、ひとつ確かなのは、誰かに「死ねばいい」と思われたということ。ぼやけた頭でそんなふうに思う。空は黒煙でどんよりと曇っている。午後にはすべての死体が腐りはじめていた。

日が落ちてくるとヒロシマの空は、炎で夕焼けのように真っ赤になっていた。

シンイチは歩きつづける。何度もなんども嘔吐して喉が乾いて仕方がない。鼻血も止まらない。

マサコ、もう会えんかもしれん・・・シンスケ君、みんなのことをよろしく頼む・・・フミコ、フミコ・・・水を・・・水をくれんか・・・

水を・・・みず・・・みずがのみたい・・・みず・・・

もうそれしか考えられなくなっていた。

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夕方、変わり果てた姿で丸さ呉服店に帰ってきた曽祖父。声でしか本人だとわからなかったという。
キダニシンイチ、享年70歳。没:1945年8月6日、夜「合掌」

参照:『夕凪の街 桜の国』こうの史代 双葉社、『この世界の片隅に』こうの史代 双葉社、『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫、図録『原爆の絵』広島平和記念資料館編 岩波書店、『原爆詩集』峠三吉 平和文庫 日本ブックエース発行、『夏の花』原民喜 集英社文庫、『ヒロシマ・ノート』大江健三郎 岩波新書
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2020年08月08日

8月6日、夜のこと

舞踏家集団『デュ社』の夏季舞踏合宿は中止にしました。

舞踏合宿は海外からの参加者がとても多いけれど、まだ海外からの入国が大幅に制限されている。

そして共同生活による感染のリスクもあるので、いまはまだ合宿というもの自体がなかなかにむずかしい。なによりもじぶんの移動が厳しく制限されているし、残念だけどしかがない。

大駱駝艦の特別体験舞踏合宿も、今年は中止か。そう思って調べてみたらなんと開催されたようです。底力のちがいか、環境のちがいか・・・

古巣、らくだかんの合宿には1994年から2012年まで18年間、従事しました。

合宿は朝の授業と昼の授業と夜の授業がありまして、夜は大駱駝艦主宰、麿赤兒の特別講義。

麿さんがいろいろと喋って、そのあと合宿生がじっさいに踊るのです。

あれはいつの合宿だったのか忘れてしまったけれど、合宿生を踊らせながら「あつい、あつい・・・」「いたい、いたい・・・」「くるしい、くるしい・・・」と麿さんがことばで誘導しはじめた。

電気を消して暗い中、師匠が擬音で色々と描写するのがすごく怖かったのを覚えている。

あとで考えたらその日は8月6日だった。らくだの合宿は8月の第1週におこなわれるので、8月6日が入るのです。

「そうか8時15分とかいって朝に追悼するからそれで終わりという気になってしまうが、8月6日の夜ってのもあるのだ」という当たり前のことに、そのときに思い至ったのでした。

電気はもちろんないから真っ暗な中で被爆者たちは、自分がどうなっているかもわからない。

まわりからは「あつい・・・いたい・・・くるしい・・・」という呻き声しか聞こえてこない。想像しただけで恐ろしいし、不安だったろうなあ。

蝉も鳩も雀もこおろぎも生けるものすべてが死に絶えているから完全なる静寂。あっ、蝿は凄まじく大量発生していたのか。放射能の影響か巨大化していたとか。

夜、山のほうへ避難していく被爆者の行列が通っていくとき、道沿いの家の門戸は固く閉ざされていたという。関わりあいになりたくないという残酷な心理・・・

麿赤兒講義のあとの野外稽古で、照明に無数の虫が集まってきていて皆んなビックリしていた。冗談ではなく、14万匹はいたかもしれない。

そしてその夜、宿舎の玄関の自動ドアが、誰も通っていないのに開いたり閉まったり一晩中していた。

ちょうどお盆だったし、霊が遊びに来ていたのかもしれません。

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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にて。
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2020年08月09日

繰り返された地獄

1945年8月9日11時02分、2発目の原子爆弾が長崎に実戦投下されました。

アメリカでは、広島への原爆投下は「戦争を終わらせるために必要だった」という意見がいまだに大多数を占める。

けれど、長崎に関しては疑問を感じるひとがアメリカ人の中にも多いようです。

長崎へ投下された“ファットマン”は、広島へ投下された“リトルボーイ”よりも威力は強大であった。

にもかかわらず被害が広島よりも少なかったのは、当時の長崎上空が曇っていて本来の投下目標だった市街地から外れたからでした。

最初の目標都市は小倉だった。

ところが小倉が曇っていたため原爆投下を断念、急遽長崎へと投下場所を変更した。

原爆搭載機ボックス・カーが長崎上空へ到達したとき長崎の市街も、小倉と同じく雲におおわれていた。

すでに燃料は基地へ戻れるぎりぎりだった。機長チャールス・スウィーニー少佐、25歳はレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。

爆弾投下まであと25秒。

そのとき、爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。

爆弾の投下は目視爆撃でおこなえということが重要命令だった。そこで、ここが急遽投弾目標となった。高度9,600メートルの上空から原子爆弾を長崎に投下。

まるで宿命に導かれるように、浦上天主堂のうえで炸裂。

プルトニウム239の核分裂反応によって初期瞬間温度は摂氏500万度となり、火の玉は直径280mになった。

原爆投下に随行したジャーナリスト、ウィリアムローレンス記者は当時を回想して語る。

「巨大な火の玉がまるで地球の奥深くから湧き上がってくるような光景を目撃した。

つぎに巨大な紫の炎の柱が地球から飛び出した流星のように上空へと駆けのぼるさまを、私たちは畏怖の念に打たれて見つめていた。それはまるで生きもののようだった。」

非人道的な戦略核兵器、原子爆弾の二度目の投下により死者 73,884人 重軽傷者 74,909人 合計148,793人が被爆した。

「悲劇の谷、浦上は世紀の大暴風が去った三日月の下にひらく死の砂漠であった。死者のすべてが虚空をつかんだ幽霊のすがたで焼けている。火の海の塗炭の苦しみをなめたあらわれであろう。

もはやこの惨状に対してあらゆる語彙が、今日かぎり私にとっては無力となった。」

陸軍報道部の撮影に同行し原爆投下後に長崎へと入った東潤は記している。

ヒロシマが最初の原爆実戦投下をされた都市ならば、ナガサキは最後の原爆実戦投下をされた都市です。

人類にとってこのことは非常に重要なことなのです。

広島につづき長崎へと原子爆弾を落とされても、まだ大日本帝国は敗北を認めようとしなかった。

テニアン島では3発目の原子爆弾の投下準備が進んでいた。

3発目の投下目標は東京の皇居だった。

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『ナガサキのキリスト』

参照・引用:長崎原爆資料館ウェブサイト | 2020年8月6日『証言と映像でつづる原爆投下・全記録』NHKスペシャル
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2020年08月10日

8月9日、長崎にて

谷口稜曄(たにぐちすみてる)さんは長崎で被爆した。

谷口さんは1945年8月9日、当時16歳の時に郵便配達のため長崎の爆心地から1.8キロの所を自転車で走っていた。

4000度ともいわれる石や鉄をも溶かす熱線と、目には見えない放射線によって背後から焼かれた。

次の瞬間、建ものを吹き飛ばし鉄骨をも曲げる秒速300メートルの爆風によって、自転車ごと4メートル近く飛ばされ道路に叩きつけられた。

しばらくして起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっている。

背中に手をやってみると、ヌルヌルと焼けただれ手に黒い物がベットリついてきた。

それまで乗っていた自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっている。近くの家はつぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていた。

谷口さんは苦しみ助けを求めている人たちを見ながら何もしてあげられなかったことを、今でも悔やんでいる。 多くの被爆者は、黒焦げになり、水を求め死んでいった。

彼は夢遊病者のように歩いて、近くのトンネル工場にたどり着いた。台に腰を下ろし女の人に頼んで、手に下がっている皮膚を切り取ってもらう。

そして、焼け残っていたシャツを切り裂いて、機械油で手のところだけ拭いてもらった。

工場の人たちは、工場を目標に攻撃されたと思っている。また攻撃されるかわからないので、他の所に避難するように言われた。

力をふりしぼって立ち上がろうとしたが、立つことも歩くことも出来ない。元気な人に背負われて山の上に運ばれて木の陰の草むらに、背中が焼けただれているためうつぶせで寝かしてもらう。

周りに居る人たちは、家族に伝えて欲しいと自分の名前と住所をいい「水を、水を」と、水を求めながら死んでいく。

夜になると方々が燃えていて明るいので、人のうごきを見てアメリカ軍の飛行機が機銃掃射して来た。その流れ弾が谷口さんの横の岩に当たって、草むらに落ちる。

地獄の苦しみの中にいるじぶんたちにアメリカは、なお爆撃をしてくるのだ。

夜中に雨がシトシト降り、木の葉から落ちるしずくを飲みながら一夜を過ごした。

夜が明けてみると、谷口さんの周りはみんな死んでいて生きている人は見当たらなかった。そこで2晩過ごし、3日目の朝、救護隊の人達に発見され27キロ離れた隣の市に送られた。

病院は満員で収容できず、小学校に収容される。

被爆してから6日目に傷から血がしたたり出るようになり、それと共に痛みがジワジワと襲ってきた。

1ヶ月以上治療らしき治療はなく、新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけ・・・

けれども谷口さんは生き延びる。

そこから2017年8月30日に88歳でがんにより亡くなるまで、壮絶な原爆後遺症との闘いの日々を送るのでした。

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被爆半年後の自分の写真を掲げながら演説する谷口稜曄さん。2010年5月7日、ニューヨークの国連本部にて。

参照・引用:2017年8月29日 Peace Philosophy Centrebased in Vancouver, Canada『Nagasaki A-bomb Survivor Taniguchi Sumiteru dies』
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2020年08月11日

長崎の被爆者、谷口すみてるさんの証言

「私は1945年8月9日、爆心地から1.8キロの所を自転車で走っていて被爆しました・・・

9月になって、大学病院が治療をしているとのことで送られました。

そこではじめて医学的な治療を受けました。まず輸血です。

でも、私の血管に輸血の血液が入っていかないのです。内臓が侵されていたのでしょう。貧血が激しくて、焼けた肉が腐りはじめました。

腐ったものがドブドブと、体内から流れ、からだの下に溜まるのです。下にボロ布を敷き、それに体内から流れ出る汚物を溜めては、一日に何回も捨てなければなりませんでした。

その当時、火傷や怪我をした被爆者のからだに、ウジ虫がわいて、傷の肉を食べていました。

私には一年過ぎてから、ウジ虫がわきました。私は身うごきひとつできず、ましてや、座ることも横になることもできません。

腹這いのままで、痛みと苦しみの中で殺してくれと叫んでいました。誰一人として、私が生きられると予想する人はいませんでした。医者や看護婦さんが、毎朝来ては"今日も生きてる、今日も生きてる"とささやいておられました。

家の方では、何時死んでも葬儀ができるよう準備していたそうです。私は死の地獄をさ迷い、滅び損ねて、生かされてきたのです。身うごきひとつできなかったので、胸が床ずれで骨まで腐りました。

いまでも、胸はえぐり取ったようになり、肋骨の間から、心臓がうごいているのが見えます。

1年9ヶ月たって、ようやくうごけるようになり、3年7ヶ月たって、全治しないまま病院を退院しました。その後も、入退院を繰り返し、1960年まで治療をつづけてきました。

1982年頃から、ケロイドの所に腫瘍ができて手術を受けました。

その後も医学的にも解明できない、石のような硬い物が出来て手術を繰り返しています。皮膚が焼け、肉が焼けているため、人間が生きていくために一番大切な皮下細胞、皮下脂肪がないため、石のようなものができるのだそうです。

『平和』がよみがえって、半世紀が過ぎました。

私は奇跡的に生き延びることができましたが、いまなお、私たち被爆者の全身には、原爆の呪うべき爪跡があります。

核兵器と人類は共存できない。

私が歩んできたようなこんな苦しみは、もう私たちだけで沢山です。世界の人類は平和に豊かに生きてほしいのです。そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつくりましょう。

人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません。

私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死んでいけません。

長崎を最後の被爆地とするため。

私を最後の被爆者とするため。

核兵器廃絶の声を全世界に。」

2010年8月8日、アメリカン大学と立命館大学の学生への谷口稜曄さんの証言を転載。

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谷口さんは、最後までじぶんのからだを原爆の証として公にさらしつづけた。photo by AP通信社「条約の 締結祈る語り部の 背中の傷は 未だに癒えず」伊藤史織、静岡県立藤枝東高校3年
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2020年08月12日

原爆連続投下について

アメリカ軍は、広島、長崎につづき東京に3発目の原子爆弾を投下する予定でした。

そのあとに最大で14発の原爆を連続投下する計画を立てていた。

ウラン型原子爆弾“リトルボーイ”は広島に投下、プルトニウム型原子爆弾“ファットマン”は長崎に投下された。

3番目のプルトニウム型原子爆弾“トウキョウジョー”は、長崎への原爆投下後にテニアン島で組み立てられていた。

8月10日にマンハッタン計画のリーダーの1人であったロスアラモス国立研究所のロバット・バヒェーアはプルトニウムの輸送を指示していた。

しかし原爆開発計画の責任者オッペンハイマー博士はトルーマン大統領の命令がないことから、輸送を取り消した。

トルーマンは、おなじ8月10日に原爆投下計画の中止を決断して全閣僚につたえていた。

輸送がされていたら、プルトニウムはサンフランシスコ経由でテニアン島に運ばれて、8月19日か20日に東京に投下される予定だった。

テニアン島には原爆を搭載した戦略爆撃機B-29が飛び立つための世界最大のウェストフィールド空軍基地があり、原爆を効率良く製造できるように設計された、生産ライン工場と原爆部品の倉庫も建設されていた。

マンハッタン計画でプルトニウムの精製がおこなわれていた、ワシントンの製造施設から定期的にテニアン島の工場へとプルトニウムを搬送。

大日本帝国が降伏するまで、原爆を製造、投下するというシステムがすでに出来上がっていたのでした。

アメリカ軍のジョン・エドウェン・ハル陸軍大将が原爆製造に関する情報を、部下に尋ねている会話のメモが公表されている。

そのなかで「投下命令がでれば、次の原爆は8月19日には投下でき、そのあとは10日ごとに1個、月に3個づつ製造できる」と部下が答えている。

アメリカ軍は原子爆弾の連続投下によって広島と長崎と東京以外に小倉、京都、横浜、新潟、札幌など、日本の都市インフラの完全破壊を計画していた。

広島と長崎だけで約21万人以上の犠牲者がでていた。

けれどもまだ本土決戦にこだわる大日本帝国の軍部・・・

さらなる戦略核兵器原子爆弾の投下で、膨大な国民の命が危機にさらされつづけていた。

1945年8月10日、深夜。

国家元首、昭和天皇がポツダム宣言の受諾を決定、あまりにも遅すぎるご聖断がようやく下されたのでした。

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『トウキョウの空にピカッとかく』

参照:2019年1月6日『原爆投下知られざる作戦を追う』NHK |『グローバルリスクコミュニケーション』TrendsWatcher
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2020年08月13日

原爆投下、一週間後

原子爆弾が実戦投下されて一週間が過ぎていた。

シンスケは義父・シンイチの安否を確認するため家族やみんなの反対を押し切り、単身ヒロシマへと向かうことを決心。

心配するひとたちに見送られ、朝早く洲本の家を出るとバスに揺られて岩屋へ。岩屋港から船に乗り神戸へと向かった。

船中もヒロシマに落ちたという新型爆弾のことで持ちきりだった。そしてどうやらナガサキにも落ちたとの噂だった。噂は混沌として判断に苦しむが、ヒロシマが壊滅的被害を受けたことは本当らしい。

しかしじぶんの眼で確かめるまでは信じたくなかった。

大阪からヒロシマ行きの汽車を探す。ひとで混雑する駅の構内に、ヒロシマへの電車が不通になっていることが、頻りにアナウンスされている。なんとか尾道まで行く汽車を探し、ぎゅうぎゅうの車内に身をこじ入れた。

途中、何度か空襲警報が鳴り止まったが何もなかった。そろそろ昼だからか車内は静かで、みんな騒ぎ疲れたかのように眠ったり黙りこくっている。

尾道で汽車を乗り換えると、一路、ヒロシマ市内を目指す。

今日は小雨交じりの空で涼しいぐらいだった。噂ではヒロシマに黒い雨が降ったとか。その雨に当たると髪の毛が抜けてしまうらしい。そんなことがあるのだろうか。シンスケには、わからなかった。

汽車でいけるのは、ヒロシマ駅のひとつ手前の矢賀駅までだった。そこから同じように、家族や知人の安否を確認するため市内へと入る人々とともに線路を歩く。

途中、軍のトラックが市内へと向けて何台も走って行った。

ヒロシマ駅の北にある東練兵場あたりまで来たとき、眼の前に広がる光景をみて彼は絶句した。なんなんじゃ、これは!!悲鳴をあげると地面に崩れ落ちて絶叫しつづけた。

ヒロシマの街が完全になくなっていた。

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爆心地『島病院』を中心に撮影された写真。左:原爆投下前、右:原爆投下後 撮影:米軍。

シンスケは、うずくまって泣きつづけた。その横を当たり前のように人々が通り過ぎていく。

しばらく放心状態でいたが、ひとしきり泣くと気分が落ち着いてきた。もしかしたら父はどこかに避難していて無事かもしれない。そんな淡い期待もこころに浮かんできた。鼻水と涙をぬぐい気を取り直して立ち上がると、再び歩きはじめた。

おせんていの前を通ると無数の死体が焼かれて煙を上げていた。同じようにあちこちで死体を焼く煙が上がっていた。シンスケは手ぬぐいで口を抑えながら、店のあった爆心地へと入っていった・・・

原爆投下一週間後のヒロシマでキダニシンスケは、いったい何を見たのか。淡路島に帰ってきた彼から親戚一同で話しを聞いた。

大人があんなに泣くのを、はじめて見た。そう当時5歳だったヨウコが回想する。

大黒柱を失って暗く沈むキダニ家だったが、シンイチの孫である五人姉妹は、焼け野原に咲く花のように美しく朗らかに成長していくのだった。

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キダニ家五姉妹。左から三女:ハルコ、長女:ヨウコ、次女:テルコ、五女:ツネコ、四女:キヌコ。
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2020年08月14日

PCR検査について

オペラシアターこんにゃく座新作公演『末摘花』の稽古がはじまりました。

それに先駆けてPCR検査を受けました。

こんにゃく座では新作の稽古へ向けて出演者、スタッフ全員がPCR検査を受けたのです。

みなさん陰性だったそうで、じぶん1人だけが陽性だったらどうしようと不安になったが陰性でした。

しかし無症状のひとのPCR検査は、その時は陰性でも検査の帰りに感染してしまったら元も子もない。

無症状だと感染しているかどうか何回も検査しないといけないので、費用がかかりつづけてしまうのです。

こんなへんなことスポーツのひとたちがやりはじめたのか。

Jリーグでの今期の検査費用は10億円にのぼるという。なぜ無症状で健康なスポーツ選手がPCR検査をはじめたのかというと、どうしても再開したかったので社会に対して安心安全をアピールするため。

トトの収益金という潤沢な資金があるJリーグはいいけれど、ほかの人たちがその真似をするのは無理がある。

無症状でのPCR検査の相場は、保険がきかないので1回20000円以上だという。

ちなみに先日、自主的に抗体検査を受けました。

こちらも保険がきかないけれど4500円とわりと安かったです。抗体検査はいま感染しているかどうかではなく、過去に感染したことがあるかどうかを調べるもの。

もし抗体があったら・・・早く感染して自粛せずに生きたい・・・しかし、残念ながら結果は陰性。

そうして、まだまだわからないことも多いので、抗体があったのでもうマスクもいらないしなにをやってもいいとはならない。

抗体があっても、もう一度感染したひとがいる。けれどもその場合は抗体がはたらいて、軽症で終わったとかでひとまず安心。

安心だけど、最近思うのはじぶんのことはどうでもいいのです。

今回のウィルス騒ぎが厄介なのは、他人に対してどうこうという常識がはたらいてしまっているところです。

万が一、じぶんが感染して娘にうつしてそのために高校の文化祭が中止になったらどうしようとか、高齢の両親にうつしてもしも亡くなってしまったらどうしようとかそんな心配や不安ばかりなのです。

なんでこんなことになってしまったのだろう。

どんな病気だって高齢者のほうが重症化しやすいのは常識、風邪で亡くなってしまったりもする。

誰かひとりでも感染したら学校すべてのイベントを中止してしまうなんて、乱暴で大げさだし厳しすぎる。

いのちを守るとか誰かが正義を振りかざしはじめて、じぶんたちでじぶんたちの首をしめて、どんどんうごきづらく生きにくくしてしまった・・・

そんななかでも合宿を敢行した大駱駝艦や、公演を敢行するこんにゃく座のようなところがある。

凄いなあと、ふかく感服するのです。

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『カニバライジング』

参照:2020年7月23日 朝日新聞
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2020年08月15日

戦争のおわり、平和のはじまり

1945年8月15日、正午。

夏の空はどこまでも青く、晴れ渡っていた。

ラジオの前に座ってシンスケは、かつて神と言われたものの声を聞きながら不思議と涙が出ない自分を冷静に見つめていた。

ながれてくる言葉はながながとわかりにくかったが、要するに「武器を置き、敵対行為をやめるように」と国民に訴えかけていた。戦争は終わったそうじゃ。シンスケは家族にそう教えてあげた。

妻のマサコは四女のキヌコを抱きながら泣いているが、安堵の涙だとわかった。

母、フミコは怒ったような顔をしていた。サブロウとトシオはわかったのかわかっていないのかわからないが、神妙にしている。長女のヨウコがテルコとハルコの面倒を見てくれている。まだ6歳だがここ半年のあいだに急に大人びたようだった。

最近、シンスケは夜眠れない日々を過ごしていた。

3日前にヒロシマで目撃した、この世のものとは思えない光景がまだ頭から離れないのだった。

完全に廃墟になってしまっていたヒロシマの街。燃やされつづける無数の死体からあがる煙。空き地に積み上げられた数えきれないほどの骸骨と骨。火傷をした人々の群れ。

未だに路上に放置されて荼毘に付されない死体の山。噂では朝鮮人だということだった。こんな状況になり死体になってもまだ差別する人間というものは、本当にどうしようもないと思った。

腹が立って、情けなかった。同じ人間ではないか。

そもそも日本人などと威張っているが、元々は大陸から渡ってきた人がほとんどだ。

日本列島にもともといた人間は縄文人で、いまは北海道と沖縄に追いやられているのだ。そんな当たり前のことが何故わからないのだろう。いや知らないだけなのだ。

差別は無知からくることを彼は知っていた。

神戸大学をでているシンスケは戦時中も、教養と知識が豊富にあったので日本軍の論法には矛盾と嘘を感じていた。軍港があるのに空襲がほとんどない広島を知り合いの軍人たちは誇っていたが、信じずに移住したのも何かがおかしいと感じたからだった。

そのお陰でいまも、こうして生きている。

シンスケは天皇の声がまだ流れつづけているラジオの前から、そっと立ち上がり薄暗い部屋から外へと出た。長生きしよう。庭へとでて美しい青空を天高く仰ぎみながら、思った。

死んでいった人たちの分まで長生きするのだ。

そうシンスケはこころに強く誓っていたのだった。

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『キダニシンスケ』
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2020年08月16日

オーバーキル

1945年8月6日、広島に、8月9日、長崎にレスリー・グローヴス将軍の命令通り原子爆弾が投下された。

そこからグローヴスの計画では、15都市への連続実戦投下が予定されていた。

原爆の3発目を用意していたアメリカ軍は、なぜそこまで連続投下にこだわったのか。

なんと、当時のアメリカ男には「爆弾は落とせば落とすほどカッコイイ」という常識があったのだといいいます。

自分のカッコつけのために、非人道的な子どもや女性への無警告無差別での原子爆弾投下を実行できる男たち・・・

この無謀な命令を止められるのは、もはや大統領だけだった。

「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある。」そうトルーマンは言っている。

「日本の女性や子どもたちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことが無念だ。」

1945年8月10日、これ以上の原爆投下を中止するとトルーマンは全閣僚に伝えた。

ようやく止まった日本への原爆投下。

この原爆実戦投下の責任の所在はいまだにアメリカの中で曖昧です。トルーマンは許可はしていないといい、グローヴスはトルーマンが許可したという。

しかし色々な文献やドキュメンタリーをみた結果、どうやらグローヴスがルーズベルトから原爆開発計画を引き継いだ主導者でありアメリカ軍部という存在が黒幕なのだとわかってくるのでした。

トルーマンはその後、無差別無警告での戦略核兵器の実戦投下を正当化していく。

「日本人を殺すためではなくて、アメリカ兵を救うために仕方なく日本に原爆を落とした」といういい訳です。

この時“命を救うために原爆をつかった”というストーリーが出来、“原爆投下=正しい”という公式が生まれた。

そして結果が出る。

トルーマンが原爆投下中止命令を出した、その4日後に昭和天皇が敗けを認めたのだった。あまりにも大き過ぎる犠牲を払い、あまりにも遅すぎる敗北宣言でした。

日本降伏のニュースにアメリカ国内には大歓声が響き渡り、トルーマンも大喜び。グローヴスとガッチリ握手。

エロス“生”への欲望とタナトス“死”への欲望という人間矛盾。こと核開発においてはタナトスが勝利をしたのだと言わざるを得ない。

14万人を一気に殺す方法は思いついても、自分一人の命を救うことも出来ない人類・・・

いま世界中には、およそ13,410発の核弾頭があると言われています。

地球上の生物すべてを複数回殺しうるという『オーバーキル』状態は、いまでも変わっていない。

そして核兵器開発競争は、まだまだつづいているのです。

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『ワシントンの空にピカッとかく』

参照:『原爆投下知られざる作戦を追う』NHK 2019年1月6日 | 長崎大学核兵器廃絶研究センターweb site
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2020年08月17日

稽古イン

オペラシアターこんにゃく座の新作『末摘花』の稽古がはじまりました。

まずは顔合わせ・・・

初っ端から人身事故の影響で遅刻。

出演者、スタッフそのほかこんにゃく座のメンバーがせい揃いしている稽古場に1人遅れて入ります。

「ごめんなさい」平身低頭着席します。

代表の萩京子さんから挨拶、作曲の寺嶋陸也さんから挨拶、演出の大石さとしさんから挨拶があったあと、はやばやと立ち稽古がはじまる。

今回の題材は源氏物語ですが、出演者は女性ばかりです。

すがたのみえない光源氏を思いながら生きる女性たちのものがたり。女性ばかりにかこまれた演出の大石さんが、さしずめ光源氏みたいなものなのかと思ったりします。

大石さんは若い頃はその美しい歌声と甘いマスクで、女性に圧倒的に人気があったそうで、まるで光源氏。

いまはすっかりくたびれたおじさんですが。

噂では喜劇にも関わらずむずかしい感じの曲だと聞いていました。緊張感の漂うなかのはじめての立ち稽古で、たしかに歌うのはむずかしそうだった。

こちらは、久しぶりの振付で楽しくなりそうな予感しかしない。

しかし振付するところがまったくなくて「なぜいるのか?」なんてことになったらどうしようと、不安な気持ちもよぎったりする・・・そんなことはあり得ないですが。

まだ本番4週間前なのに、皆さんすでに歌もセリフも入ってて本を手放していてさすが。

こんにゃく座は人数が多いので競争が激しいぶん、こういうところは厳しいのです。まあでもプロだからあたりまえなのか。

稽古では出演者はフェイスシールド着用、スタッフはマスクの常時着用がルール。そして万が一、出演者に感染者がでた場合を想定して、皆さん二役分のセリフと楽譜を覚えて大変です。

劇場入り前にもう一度、PCR検査を劇場入りをする人間が全員やるそうです。20000円かける、えーと50人で・・・

どうしてそこまでして公演をやるのか。待ってくれているファンがいるのもあるけれど、こうなってきたら執念だな。

そうしてそれを実現できる集団の底力を感じる。

じぶんもできるかぎり感染症対策に協力しつつ、作品がおもしろくなるように全力で良い加減で適当に遊び倒します。

振付なんてマジメは禁物、フザケてなんぼ。

毎日、仕事にいくというよりは遊びに出かける心もちでのぞむのです。

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『末摘花』宣伝チラシ イラスト:村田静穂 宣伝美術:小田善久
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2020年08月18日

75年という年月

8月15日は終戦の日でした。

なぜ敗戦ではなく終戦なのか?

終戦というと戦争じたいの痛みのようなものが良くいうとやわらぎ、悪くいうとごまかされている感じがする。

敗戦というと戦争責任を感じつつも、屈辱的な響きがあるので使われなくなったそうです。「戦争に敗れただけであり、またやったら勝つかもしれない」という意味あいもあったりするのでよくないのか。

1937年から大日本帝国がはじめた日中戦争と、その後の第二次世界大戦で亡くなったひとは約310万人です。

そのなかの太平洋戦争中の空襲で亡くなった約38万7000人のうち、約16万人の氏名がわからないと毎日新聞の調査で判明しました。

そんなことがあるのか?人数はわかるけれどその氏名がわからないなんて・・・だから“約”なのか。だいたいの死者数。ひどいなあ。

「残念な結果だ。名前は人格の象徴で死者にも人権がある。名前さえわからないまま忘れられていくのでは二重に殺されたようなもの。国がはじめた戦争なのだから犠牲者の名前は国が調査して記録に残すべき。

もと軍人・軍属への対比と比べ国が民間の犠牲者を差別してきたのは明らか。人間の道理として国には、今からでも責任をはたしてもらいたい。」

そう東京大空襲・戦災資料センター名誉館長で作家の早乙女勝元さんは話す。

国は、軍人・軍属やその遺族には補償と援護を、いまもつづけていて総額は約62兆円にのぼるという。

いっぽう民間の戦争被害者には、一般の重度障害年金だけ。そして死者への補償はまったくない。

じぶんの曽祖父、木谷真一は広島の原爆で亡くなりました。

2013年に平和公園のなかにある原爆死没者追悼平和祈念館へいって、原爆での死者名のアーカイブで検索してみたら名前が出てこなかった。

祈念舘ではいまも登録をすすめているので、そのあとに登録をしましたが、それまでは原爆で亡くなった人間のひとりとして数えられていなかったのです。

そんなひとがまだまだ沢山いるのだろうなあ・・・

幼い子どもや生まれたばかりの赤ちゃんは、戸籍すらなかっただろうから人数にはもちろん入っていない。

戦争というなにがなんだかわからない、メチャクチャな不条理なもの。

いのちを守るとか人間の尊厳なんてものが存在しない混乱と混沌のきわみ、戦争。

人数や名前を明確にしようと各自治体が個別にうごいたり、市民団体が調査を進めていたりするけれど戦争被害の全容把握はほぼ絶望的になっている。

戦後75年というどうしようもない年月。

どんどん風化していく戦争の記録と記憶なのです。

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『永遠に止まった時計』

参照・引用:2020年8月16日 毎日新聞
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2020年08月19日

Eine kleine Nachtmusik

だいぶん前ですが、娘が図書館で借りてきた本を読みました。

伊坂幸太郎著『アイネクライネナハトムジーク』

短編集なのだけど登場人物が絶妙に関係しながら、ほのぼのとつづいていく小説。

小説のなかに斉藤さんという吟遊詩人というか路上詩人というかが、要所要所で出てきます。占い師のように街頭にいて頼むとラジカセで、そのひとの悩みに寄り添うような歌や励ますような歌を聴かせてくれる。

その歌詞がありそうでなさそうな感じで、そこだけ浮いているような不思議な違和感があった。

あとがきに、ミュージシャンの斉藤和義さんから「恋愛をテーマにしたアルバムをつくるので『出会い』にあたる歌詞を書いてくれないか」という依頼をもらったのが、この短編集をつくるきっかけだったと書いてあった。

「作詞はできないので小説を書くならば」と返事をして短編集の『アイネクライネ』という一番目の物語を書いたそうです。

けれども伊坂さんは小説でも漫画でも映画でも“恋愛もの”と分類されるものにはあまり興味がないため、普通ならば断るところだったけれど斉藤和義さんの大ファンだったそうで一緒に仕事がしたいと必死だったとか。

いいなあ。大ファンのひとから仕事の依頼がくる。じぶんで考えたらば・・・考えてみたけれど、大ファンというひとは思いつかない。

「恋愛ものが苦手だからと変化球のような形で作品を書くのはずるい」と書き上げたのは、直球ど真ん中のけれどもべたべたとはしていない軽やかな、読んでいて幸せな気持ちになれる物語。

この短編の文章を使うかたちで、斉藤さんが『ベリーベリーストロング〜アイネクライネ』なる曲を作ってくれたそうです。

二番目の短編は『ベリーベリーストロング〜アイネクライネ』がシングルカットされることになり、その初回限定版の付録用に書き下ろしたもの。

せっかくだからこういった共同作業でしかできないことをやりたいと思い、考えついたのが斉藤和義さんの過去の曲から歌詞を引用することだったとか。

なるほど、それで違和感があったのか。

小説の最後にはげしいボクシングの試合のシーンが出てくる。

読んでいて手に汗を握りながら、大駱駝艦で同期だった大友透がたいへんな舞台の仕込みのときにへとへとで倒れそうなじぶんにかけたことばを思い出した。

「むかいさん、ここからだよ。ここからの頑張りが見たいんじゃん。」

そのことばは、いまでもじぶんのこころをときに挑発してときに励ましてくれるのです。

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『カニバライジング2』

参照・引用:『アイネクライネナハトムジーク』著者−伊坂幸太郎 発行−株式会社 幻冬社
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2020年08月20日

象に聴かせるおと

こんにゃく座、新作公演『末摘花』の稽古が連日つづいています。

自転車で40分ほど走って駅へといきますが汗だくになってたいへんです。

行きは炎天下でたいへんですが、帰りはわりと涼しくて快適。のんびりと自転車をこいで帰ります。半分ほど走ると自転車道に入るので安全です。

それまでは国道を走るので気が抜けない。車道に自転車はここを走れというようなマークがありますが、その上を車が猛スピードで走っていく。国のいうことを聞いていたら死んでしまうので歩道を徐行します。

「理不尽だなあ」とか思いながら今日も国道を無事に切り抜け、自転車道へと入ってほっとひと息、気楽に走ります。

途中で携帯に電話がかかってくる。

表示をみたら大駱駝艦の衣裳デザイナー堂本教子さんから。

最初は飲みの誘いかと思うけれど、教子さんの口調で誰かの訃報だと直感する。

電話は大阿久さんが亡くなったというしらせだった。8月16日に亡くなられたということ。すい臓がん。

古巣、大駱駝艦の音響をながくつとめられていた、大阿久和夫・・・

らくだかんがアメリカで公演したとき、ニューヨークタイムズに「大阿久の音は象に聴かせるのか」と書かれたという。

次に音響を担当していた関克郎さんには“難聴の大阿久”と言われていた。

とにかく音がデカかったのです。メインのボリュームを上げきったら、足でアンプのボリュームを上げていくとか伝説がいろいろと残っている。

音響が大阿久さんのときに、劇場でスピーカーの前に座っています。

時間になり照明が消えていって、だんだん暗くなって暗転になりました。

ト、スピーカーから「サーーーーー」というノイズが聞こえてくる。それがもの凄く怖い。そのあとの客を全員吹っ飛ばすほどの猛烈な爆音が予想されるのです。

そんな大阿久さんが、もうらくだの音響から退かれたあとに世田谷パブリックシアターでおこなわれる『海印の馬』の稽古にふらりとあらわれた。

しばらく見学していたら、おもむろに男性の群舞“安産祈願”のシーンで音響のフェーダーを握ってくれた。

とたんに、それまでダンサーが音を出していたときとまったく違って、びっくり仰天した。

目に見えて踊りが良くなった。

「音響ひとつでこんなにも変わるものか」と感動したのを、いまでもよく覚えているのです。

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『大阿久和夫さん』享年69歳「合掌」
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