2020年08月01日

7月場所、13日目

お相撲さんの四股名が興味深いです。

十両の朝弁慶の名前が変わっていて可笑しい。

アサベンケイって、朝だけ強いみたい。ウチベンケイは家の中でだけで強いひとのこと、ソトベンケイは家の外だけで強い。

トビザルとアクアってのもどんな力士か見たことはないけれど変わった名前。チュラノウミはぜったいに沖縄出身だな。把瑠都なんていうひねりのない四股名の力士もいたな。バルト海出身だからバルト。

それはさておき、大相撲7月場所13日目。

西の関脇、正代は横綱白鵬の休場により不戦勝で10勝、ラッキー。東の関脇、御嶽海も10勝して大関昇進の起点になる関脇での2桁勝利です。

そして、朝乃山と照ノ富士の新旧大関、1敗同士の直接対決は、なんと幕内最下位の照ノ富士が勝利。

番付がはるかに上の大関、朝乃山は屈辱的なダメ押しまでされて敗れてしまいました。相手が土俵から出ているのにさらに押す行為で、久しぶりにみました。

ダメ押しは相手に怪我を負わせることもあるし危険なので、大相撲ではよくないこととされて非難の対象となるのです。引退した朝青龍や白鵬もダメ押しで非難をされていた。

白鵬はじぶんが大相撲を観ていない時期に、横綱の品格ということをしきりに言われていました。懸賞金のもらいかた、ダメ押しにカチ上げにヒジ打ち。勝負だわらを踏みつけるなんてのもあった。

結界である勝負だわらは神聖なもの、踏まずにまたがねばならないそうです。そういうことを教えてもらえなかった不幸もあると思います。

相撲も格闘技、言ってみれば喧嘩みたいなもの。めっぽう気が強く喧嘩っぱやくて荒っぽいくらいでないとやっていけないところもある。

そうして、古代の相撲ではダメ押しは好ましくない行為ではなかったようです。

日本書紀に残る、ノミノスクネとタイマノケハヤによっておこなわれた天覧相撲の記述によれば、スクネは倒したケハヤに踏み付けのダメ押しをおこない、ケハヤの腰骨を踏み折って殺害する。

この勝負の結果、スクネは所領を得て垂仁天皇への仕官がかなったそうです。

ちなみに、このノミノスクネとタイマノケハヤの力比べが国技相撲の発祥とされるそうです。大相撲のそもそもの発祥が殺し合いだったのだな。

荒っぽくて当然です。

そういう意味で見れば、照ノ富士に比べると朝乃山は甘さがあったかもしれません。

さあ大相撲はいよいよ大詰め、あと2日。

1敗の照ノ富士が先頭をはしって、それを2敗で朝乃山が追う展開です。

どうなるか。

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『野見宿禰と當麻蹶速』

参照:奈良県葛城市ウェブサイト『相撲発祥と當麻蹶速』
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2020年08月02日

なぜ8月だったのか

8月に入りました。

新聞では、そろそろ“8月ジャーナリズム”がはじまっています。

8月は、広島への原爆投下と長崎への原爆投下、そして終戦が重なっていて戦争の話題が集中するのでそう言われるのです。

いまから75年前、1945年8月のアメリカ。

日本への人類史上初の原爆実戦投下で、21万人以上が亡くなるとアメリカ国内では推計されていた。

多忙を極めていたアメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンは、そのことについて議論をしたり日本国民に思いを巡らせたりするどころではなかった。

そして「原爆の威力が隅々まで行き渡る、市民が暮らす都市部に原爆を落としたい。」という科学者たちの、知的好奇心をトルーマンは止めきれていなかった。

22億ドルがかかった兵器の責任者としてアメリカ国民に効果を証明しなければならないレスリー・グローヴス将軍は、もちろんそれに賛成していた。

グローヴスは、日本に原爆を大量投下することを計画していた。その数なんと17発。

東京も、もちろん投下目標になっていた。

「いや原爆を落とす場所は軍事施設に限り、決して女性や子どもをターゲットにしてはならない。」

トルーマンは、当時の日記にそう書き記している。

グローヴスは、人口が密集していて殺傷できる人数が多く効果が大きい京都へも原爆を落とすのがいちばんだと主張、京都駅も目標地点に選ばれていた。

しかし有識者や知識人のあいだから「アメリカがヒットラーを凌ぐほどの残虐行為をしてしまう。」「無差別爆撃にあたるのではないか。」と懸念の声があがっていた。

同時に親日派の軍人、ヘンリー・スティムソンが京都への原爆投下に反対していた。

戦後の世論への配慮など議論が重ねられ紆余曲折を経て、人類がはじめて核を解き放つ場所に選ばれたのは広島だった。

「2発目以降は準備が出来次第投下せよ」とのグローヴスの命令があったとされている。

そこからグローヴスの計画では、17都市への連続原爆実戦投下が予定されていた。

原子爆弾の大量投下で日本を壊滅させてそのあと本土へと上陸、火炎放射器や毒ガスやサリンをつかい生き残った人間も全滅させて無血占領するのがアメリカ軍の計画だった。

その名も“オリンピック作戦”と名付けられていた。

それにしても何故、8月だったのか。

気象学者の「8月は統計的に晴れの日が多い」という意見があったので、その意見に従ったのだそうです。

そんな学者の提言で真夏という残酷な季節が選ばれた。

原爆投下後の炎天下の腐乱腐臭地獄、大量のウジやハエの発生はそんな学者の一言で決まってしまったのです。

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『夏の花、文庫版スケッチ』

参照:2019年1月6日『原爆投下知られざる作戦を追う』NHK
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2020年08月03日

7月場所、14日目、千秋楽

大相撲7月場所、14日目。

13連敗していた阿武咲がようやく勝ちました。

館内からの拍手がいっそう大きかった。長かったトンネルを抜けられて良かったなあ。

さて、前日の勝ちで照ノ富士の復活が俄然話題になってきていましたが、惜しくも関脇正代に敗れて2敗と後退。

関脇、御嶽海は負けずに11勝。

13日目結びの一番、身長169センチの小兵力士の照強は立ち合い一髪、見事な足取りで188センチの朝乃山を土俵にひっくり返した。

照ノ富士と同じ部屋の照強は、兄弟子を援護射撃しようと前の晩から考えて狙っていたそうです。からだが大きいからとかならず勝てるわけではない。柔よく剛を制すではないけれど、間や気のものなんだろうな。

相撲というのは、ほんとうに面白いものです。

これで2敗の照ノ富士がふたたび単独トップで千秋楽に、3敗の御嶽海と勝負。朝乃山は正代と3敗同士の対決。

照ノ富士が勝てばその瞬間に優勝だが、敗れた場合は照ノ富士と御嶽海、そして朝乃山と正代の勝者が3敗で並ぶ。その3人でのともえ戦という優勝決定戦となるのです。そうなったらおもしろいなあ。

皆んなが虎視眈々と賜杯を狙っています。

観てるだけの気楽な身としてはもつれて欲しいですが、どうなるか・・・

そして千秋楽。

今場所は本来ならば名古屋でおこなわれる予定でしたが、感染のリスクを減らすために東京でおこなわれています。

観客席も枡席にひとりとあいだをあけています。けれどもマスク着用がルールのようなので、本来ならば間隔はあけなくてもいいはず。

飛沫のことを考えて人と人のあいだをあけるということだったのが、形骸化してきてとにかくあいだをあけるということになってきてしまっている。困ったなあ。

それはさておき、取り組みです。

前頭17枚目の照ノ富士と関脇、御嶽海の勝負は照ノ富士が寄り切って5年ぶりの復活優勝でした。

大関から陥落した力士の優勝は魁傑以来、44年ぶりだとか。一度は相撲の世界のいちばん下、序二段まで落ちていたがそこから這い上がってきた。

ともえ戦を観れずに残念・・・まあ、でもみんなの応援があと押しした感じか。

朝乃山は正代に勝ってなんとか大関の面目を保ちました。2横綱にもう1人の大関も休んでしまい新大関には荷が重かったと、元横綱北勝海の八角理事長が心中を察していた。

「つづけてきて良かったです。色んなことがあったけど、笑える日が来ると信じてました。」

そう照ノ富士はインタビューに答えていた。

じぶんもこの『ブログ?』をやめずになんとかつづけます。

そのうちいいことがあるでしょう。

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『おめでとう』
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2020年08月04日

木谷真一、70歳

今年も、わたくしの曽祖父・木谷真一の命日が近づいてきています。

木谷家は広島市内で呉服屋を営んでいた。

木谷家四代・木谷實平が大成功。大阪、北海道、広島に店を出していた。

広島では市内の横町付近にて、真一が『丸佐呉服店』を任されていた。商売は戦争がはじまるまで順調で、結構手広くやっていたと聞く。

当時の広島は静かな城下町で川が豊かに流れる、ほんとうに住み心地の良い町だった。東京や大阪が大空襲を受けるなか、何故か広島だけは大した空襲はなかった。

しかし長女正子の婿、真裕が「軍港のある広島は危ないから早く淡路へ来るように」という手紙を淡路島に住む甥からうけとり、躊躇を感じながらも移住を決断。

真一の妻文子と長女正子、長男三郎、次男俊夫、次女の直子は、真裕の生まれ故郷である淡路島洲本へと残務整理のため残る真一を残し、1945年3月下旬にさきに引っ越していた。

家族の出発のとき、長いあいだ親しくつきあったひとたちが大勢、お別れを惜しんで広島駅まで見送ってくれた。

あのひとたちは、皆んな8月6日に亡くなるのだった・・・

その日、木谷真一は早朝の空襲警報で目が覚めた。いつものように空襲はない。

「またか」布団の中でそう思う。

最近誤報が多い。敗けつづきで軍部も混乱しているのだろう。目が覚めてしまい、しばらく布団の中で輾転としたが、もう夢の中へと戻ることはできなかった。

仕方なく起きるとメガネをかけて、灯火管制の黒幕を開ける。外は薄日が差しているがまだ太陽は照りつけていない。朝曇りのカンパチというが、今日はそうなりそうだ。

トイレに行き用を足そうとして、朝勃ちしていることに気づいた。

「おや?どうしたというのだ、マイリトルボーイよ」

トイレからでて洗面所で顔を洗い歯を磨いた。誰もいない家はガランとして急に老け込んでしまったようである。

台所へ行き簡単に朝ごはんを用意する。昨日の夜にお手伝いさんが作ってくれた残りものを、そのまま食べた。

「男のひとり暮らしは、何かと不便でいけんのう」

そう思いながら寝室へと戻り浴衣を脱ぐとシャツとズボンに着替えて玄関へといき、帽子をかぶりステッキを持って日課である護国神社へのお参りに出かけた。

道中、やはり雲間から太陽があらわれはじめた。

蝉はまだ鳴いていないし、それほどは暑くない。人もまばらである。

お参りを終え、護国神社を7時半に出る。

始業の9時までにはまだ間があった。

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『木谷家家族写真』1935年頃、市内の写真館にて。後列左より正子、真一、三郎。前列左より直子、文子、俊夫。次女・直子さんだけが、まだご存命である。
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2020年08月05日

いつもの朝

1945年8月6日、7時半頃。

木谷真一は毎朝の日課である、護国神社へのお参りをすませた。

今日はお手伝いのひとが2人来てくれる。そろそろ残務整理も終わり、すっかりと片付いてきていた。

一週間後には、淡路島へと旅立ち家族に会えるのだ。広島を離れるのは寂しいが、家族に会えるのはやはり嬉しい。

少し気分が明るくなった真一は、始業時間の9時まで散歩をすることにした。手に入るものなどないに等しいが、淡路にはないものをお土産にしてやろう。何がいいだろうか。

孫の陽子が好きなみかんの缶詰めが手に入ればなあ。そんなことを考えながら相生橋の上へと入った。

相生橋は本川と元安川をまたいでかかる、まるで猿股のような橋である。

「アメリカならあ、さしずめ“ T ”じゃ。T-backじゃ」戦争がはじまるまで、外国語大学で英語を専攻していた真一は、そう思いひとりほくそ笑んだ。

「まあ、ええか」

戦争で一切の財産も何もかも失いつつある。しかし、人生もこの川のようなもの。流れていって海へとかえり、終わる。それでいいのかもしれない。流れにただ身を任せれば・・・

ゆっくりと雄大にうねっていく元安川の流れを、橋の上から欄干に手をつき飽きるともなく惚れ惚れと見ていた。

ここ広島は水の都である。太田川は、よこがわの北側で六つの支流に別れる。

満々と水をたたえ休むことなく流れつづける六つの川。ぼんやりと川面を見ていたが、蝉の声で「はっ」と我にかえる。

「もう8時か」

そろそろ店に帰って用意をはじめるか。懐中時計で時間を確認するとそう考えた。お洒落好きな真一は呉服屋にもかかわらず、普段は洋装で通していた。

中洲から木橋を渡り、広島県産業奨励館を右に見ながら歩きつづける。

幟町のおせんていまで来たときだった。盛大に鳴く蝉の声に混ざって、かすかに飛行機の飛ぶ音が聞こえた気がした。

雲ひとつない夏の空を見上げる。

三機のB29が飛んでいるのが目に入った。爆撃にしては結構、高度が高かった。「偵察か」呟いたときだった。

「あっ、何か落とした!」そばにいた子どもたちが口々に叫んだ。

キラリと光るものが落ちてくるのが見える。

「パラシュートか?」真一はそんなふうに思った。

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「とにかくお洒落さんだったのよ」次女の直子さんはそう回想する。
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2020年08月06日

ふたつの太陽_2020

1945年8月6日 8時15分

広島の青空に、摂氏12000度の“ふたつの太陽”があらわれた。

太陽の表面温度が6000度。

太陽、ふたつ分の狂気が人類の手によって解き放たれた。

そこにいた一人一人。そしてその人につながるすべての命を永遠に絶つ光と熱と風。

10万人の木谷真一がその日、亡くなった。

まずは光。

“千の太陽を集めたよう”と形容されるその光で一瞬に消え去った人、多数。コンクリートの建ものには人間の影だけが残った。

そのあとの高温の爆風で一瞬で燃え尽きた人、無数。爆心地周辺の地表の温度は摂氏4000度にも達した。

いまだに死者の数の誤差が、+−1万人といわれる所以である。

不幸にも生き延びてしまったひとは 火傷で全身を真っ黒に膨らませ 皮膚がベロベロにめくれ 腕が千切れ 腹が裂け 内臓がこぼれ落ち 目玉が飛び出る 

爆心地から離れていたひとには 無数にガラスの破片が突き刺さる

そして あちこちで次々と起こる火事 逃げようにも逃げるところがない 川に救いを求めてなだれ込む人々は 次から次へと溺れ死ぬ

竜巻が巻き起こり 人々は天高く舞い上げられ 地面に叩きつけられて死ぬ・・・

その瞬間、まるで巨大なフラッシュをたいたように目の前が真っ白になった。

真っ白なのだけれどそのふちは、赤や緑や紫やいろんな色が気味悪く縁取っていた。

と、耳をつんざくような音がして真一は吹き飛ばされた。耳が聴こえなくなって無音になった。ゆっくりと起き上がるとあたりは真っ暗で何も見えなかった。

耳のつかえがとれた瞬間に、人々の叫び声が聞こえてきた。

そばにいた子どもたちは吹き飛ばされて、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で死んでいた。

じぶんはどうなっているのか?顔を触ってみるがぶよぶよとしていて感覚がない。

あたりからはたちまち火が上がり、あちこちで火事が起こりはじめたので慌てて立ち上がり歩きはじめる。

切れた電線が垂れ下がりばちばちと火花をあげている。一頭の馬が燃えながら走っていく。カラスが燃えながらぴょんぴょんとはねていく。

血を流していないひとは1人もいない。

頭から、顔から、手から、裸のひとは胸から、背中から、腿から、どこからか血を流している。

皮膚がだらんと垂れて、両手を幽霊のように前に出して歩いているひとが大勢いる。

一糸まとわず、歩いているひとも大勢いる。

近くに爆弾でも落ちたのか・・・

なにが起こったのかまったくわからないまま、真一はとにかく丸さ呉服店を目指すのだった。

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『原爆投下直後』提供:広島平和記念資料館/撮影:米軍

参照・引用:『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫、『父と暮らせば』井上ひさし 新潮文庫、『ヒロシマを世界に』広島平和記念資料館編、『原爆詩集』峠三吉 平和文庫 日本ブックエース発行、『夏の花』原民喜 集英社文庫、『ヒロシマ・ノート』大江健三郎 岩波新書
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2020年08月07日

1945年8月6日、夕刻

木谷真一は、原爆の落ちた広島の街を歩きつづけた。

泣きわめく声が聞こえるのであたりを見回すと、子どもが家に挟まってうごけなくなっていた。

よく見るとそれは知り合いの子だった。火はすぐそこまで迫っている。

からだはほとんど外に出ているのに、片足が柱と柱にはさまって引き出せないのだ。助けようとするがどうにもならなかった。周りを見ても全裸で狂ったように歩く真っ黒な人、人ばかり。

「もうすぐ楽になるからな」真一は、謝るように手を合わせ逃げるようにその場を立ち去った。

「助けてあげられなくてごめんな」

流れる涙を拭うこともなく歩きつづけた。自分自身も全身大火傷を負っていた。服はズボンがかろうじて半分残っていた。

真夏だというのにぞくぞくとするぐらいに寒い。

震えながら歩いていると、とつぜんはげしく雨が降りはじめた。真っ黒な雨だ。どろりと泥のように重たかった。

黒い雨を浴びながら歩く。靴はいつの間にかなくなっている。腫れ上がり真っ黒で、ぶつかっても誰だかわからない顔・・・顔・・・

「自分もそうなのだろう」

そんなことをぼんやりと考えながら真一は、火の手に流されるようになり逃げ惑う群衆に流されながらも、いろんな知り合いの安否を訪ねて回る。

声を限りに叫んでいる男、悲鳴をあげながら走る女性や子ども、苦痛を訴えるひと、道端に坐りこんで、助けをもとめるように空に向けて差し出した両手を振っているひと。

崩れ落ちた家のわきで、合掌瞑目して一心に祈っているおばあさん。四つん這いになって鳴き声をあげながら、わずかずつ進んでいる男。

いろんなひととすれ違う。

燃え上がって通れないところは遠く迂回しながら、夕方まで歩きつづけ死体の山の上を歩きつづける。

皮膚が破けずるりとすべり、こけてしまうこともしばしばだ。

会う人会う人に名前を聞くが、誰だかまったくわからない。全員が全員、誰かを探している。みんな何処へ行ってしまったのか?わからない。

何もかもわけがわからないが、ひとつ確かなのは、誰かに「死ねばいい」と思われたということ。ぼやけた頭でそんなふうに思う。

空は黒煙でどんよりと曇っている。午後にはすべての死体が腐りはじめていた。

日が落ちてくると広島の空は、炎で夕焼けのように真っ赤になっていた。

真一は歩きつづける。何度もなんども嘔吐して喉が乾いて仕方がない。

「正子、もう会えんかもしれん・・・真裕君、みんなのことをよろしく頼む・・・文子、文子・・・水を・・・水をくれんか・・・水を・・・みず・・・みずがのみたい・・・みず・・・」

もうそれしか考えられなくなっていた。

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夕方、変わり果てた姿で丸さ呉服店に帰ってきた曽祖父。声でしか本人だとわからなかったという。
木谷真一、享年70歳。没:1945年8月6日、夜「合掌」

参照:『夕凪の街 桜の国』こうの史代 双葉社、『この世界の片隅に』こうの史代 双葉社、『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫、図録『原爆の絵』広島平和記念資料館編 岩波書店、『原爆詩集』峠三吉 平和文庫 日本ブックエース発行、『夏の花』原民喜 集英社文庫、『ヒロシマ・ノート』大江健三郎 岩波新書
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2020年08月08日

8月6日、夜のこと

舞踏家集団『デュ社』の夏季舞踏合宿は中止にしました。

舞踏合宿は海外からの参加者がとても多いけれど、まだ海外からの入国が大幅に制限されている。

そして共同生活による感染のリスクもあるので、いまはまだ合宿というもの自体がなかなかにむずかしい。なによりもじぶんの移動が厳しく制限されているし、残念だけどしかがない。

大駱駝艦の特別体験舞踏合宿も、今年は中止か。そう思って調べてみたらなんと開催されたようです。底力のちがいか、環境のちがいか・・・

古巣、らくだかんの合宿には1994年から2012年まで18年間、従事しました。

合宿は朝の授業と昼の授業と夜の授業がありまして、夜は大駱駝艦主宰、麿赤兒の特別講義。

麿さんがいろいろと喋って、そのあと合宿生がじっさいに踊るのです。

あれはいつの合宿だったのか忘れてしまったけれど、合宿生を踊らせながら「あつい、あつい・・・」「いたい、いたい・・・」「くるしい、くるしい・・・」と麿さんがことばで誘導しはじめた。

電気を消して暗い中、師匠が擬音で色々と描写するのがすごく怖かったのを覚えている。

あとで考えたらその日は8月6日だった。らくだの合宿は8月の第1週におこなわれるので、8月6日が入るのです。

「そうか8時15分とかいって朝に追悼するからそれで終わりという気になってしまうが、8月6日の夜ってのもあるのだ」という当たり前のことに、そのときに思い至ったのでした。

電気はもちろんないから真っ暗な中で被爆者たちは、自分がどうなっているかもわからない。

まわりからは「あつい・・・いたい・・・くるしい・・・」という呻き声しか聞こえてこない。想像しただけで恐ろしいし、不安だったろうなあ。

蝉も鳩も雀もこおろぎも生けるものすべてが死に絶えているから完全なる静寂。あっ、蝿は凄まじく大量発生していたのか。放射能の影響か巨大化していたとか。

夜、山のほうへ避難していく被爆者の行列が通っていくとき、道沿いの家の門戸は固く閉ざされていたという。関わりあいになりたくないという残酷な心理・・・

麿赤兒講義のあとの野外稽古で、照明に無数の虫が集まってきていて皆んなビックリしていた。冗談ではなく、14万匹はいたかもしれない。

そしてその夜、宿舎の玄関の自動ドアが、誰も通っていないのに開いたり閉まったり一晩中していた。

ちょうどお盆だったし、霊が遊びに来ていたのかもしれません。

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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にて。
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2020年08月09日

繰り返された地獄

1945年8月9日11時02分、2発目の原子爆弾が長崎に実戦投下されました。

アメリカでは、広島への原爆投下は「戦争を終わらせるために必要だった」という意見がいまだに大多数を占める。

けれど、長崎に関しては疑問を感じるひとがアメリカ人の中にも多いようです。

長崎へ投下された“ファットマン”は、広島へ投下された“リトルボーイ”よりも威力は強大であった。

にもかかわらず被害が広島よりも少なかったのは、当時の長崎上空が曇っていて本来の投下目標だった市街地から外れたからでした。

最初の目標都市は小倉だった。

ところが小倉が曇っていたため原爆投下を断念、急遽長崎へと投下場所を変更した。

原爆搭載機ボックス・カーが長崎上空へ到達したとき長崎の市街も、小倉と同じく雲におおわれていた。

すでに燃料は基地へ戻れるぎりぎりだった。機長チャールス・スウィーニー少佐、25歳はレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。

爆弾投下まであと25秒。

そのとき、爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。

爆弾の投下は目視爆撃でおこなえということが重要命令だった。そこで、ここが急遽投弾目標となった。高度9,600メートルの上空から原子爆弾を長崎に投下。

まるで宿命に導かれるように、浦上天主堂のうえで炸裂。

プルトニウム239の核分裂反応によって初期瞬間温度は摂氏500万度となり、火の玉は直径280mになった。

原爆投下に随行したジャーナリスト、ウィリアムローレンス記者は当時を回想して語る。

「巨大な火の玉がまるで地球の奥深くから湧き上がってくるような光景を目撃した。

つぎに巨大な紫の炎の柱が地球から飛び出した流星のように上空へと駆けのぼるさまを、私たちは畏怖の念に打たれて見つめていた。それはまるで生きもののようだった。」

非人道的な戦略核兵器、原子爆弾の二度目の投下により死者 73,884人 重軽傷者 74,909人 合計148,793人が被爆した。

「悲劇の谷、浦上は世紀の大暴風が去った三日月の下にひらく死の砂漠であった。死者のすべてが虚空をつかんだ幽霊のすがたで焼けている。火の海の塗炭の苦しみをなめたあらわれであろう。

もはやこの惨状に対してあらゆる語彙が、今日かぎり私にとっては無力となった。」

陸軍報道部の撮影に同行し原爆投下後に長崎へと入った東潤は記している。

ヒロシマが最初の原爆実戦投下をされた都市ならば、ナガサキは最後の原爆実戦投下をされた都市です。

人類にとってこのことは非常に重要なことなのです。

広島につづき長崎へと原子爆弾を落とされても、まだ大日本帝国は敗北を認めようとしなかった。

テニアン島では3発目の原子爆弾の投下準備が進んでいた。

3発目の投下目標は東京の皇居だった。

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『ナガサキのキリスト』

参照・引用:長崎原爆資料館ウェブサイト | 2020年8月6日『証言と映像でつづる原爆投下・全記録』NHKスペシャル
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2020年08月10日

8月9日、長崎にて

谷口稜曄(たにぐちすみてる)さんは長崎で被爆した。

谷口さんは1945年8月9日、当時16歳の時に郵便配達のため長崎の爆心地から1.8キロの所を自転車で走っていた。

4000度ともいわれる石や鉄をも溶かす熱線と、目には見えない放射線によって背後から焼かれた。

次の瞬間、建ものを吹き飛ばし鉄骨をも曲げる秒速300メートルの爆風によって、自転車ごと4メートル近く飛ばされ道路に叩きつけられた。

しばらくして起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっている。

背中に手をやってみると、ヌルヌルと焼けただれ手に黒い物がベットリついてきた。

それまで乗っていた自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっている。近くの家はつぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていた。

谷口さんは苦しみ助けを求めている人たちを見ながら何もしてあげられなかったことを、今でも悔やんでいる。 多くの被爆者は、黒焦げになり、水を求め死んでいった。

彼は夢遊病者のように歩いて、近くのトンネル工場にたどり着いた。台に腰を下ろし女の人に頼んで、手に下がっている皮膚を切り取ってもらう。

そして、焼け残っていたシャツを切り裂いて、機械油で手のところだけ拭いてもらった。

工場の人たちは、工場を目標に攻撃されたと思っている。また攻撃されるかわからないので、他の所に避難するように言われた。

力をふりしぼって立ち上がろうとしたが、立つことも歩くことも出来ない。元気な人に背負われて山の上に運ばれて木の陰の草むらに、背中が焼けただれているためうつぶせで寝かしてもらう。

周りに居る人たちは、家族に伝えて欲しいと自分の名前と住所をいい「水を、水を」と、水を求めながら死んでいく。

夜になると方々が燃えていて明るいので、人のうごきを見てアメリカ軍の飛行機が機銃掃射して来た。その流れ弾が谷口さんの横の岩に当たって、草むらに落ちる。

地獄の苦しみの中にいるじぶんたちにアメリカは、なお爆撃をしてくるのだ。

夜中に雨がシトシト降り、木の葉から落ちるしずくを飲みながら一夜を過ごした。

夜が明けてみると、谷口さんの周りはみんな死んでいて生きている人は見当たらなかった。そこで2晩過ごし、3日目の朝、救護隊の人達に発見され27キロ離れた隣の市に送られた。

病院は満員で収容できず、小学校に収容される。

被爆してから6日目に傷から血がしたたり出るようになり、それと共に痛みがジワジワと襲ってきた。

1ヶ月以上治療らしき治療はなく、新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけ・・・

けれども谷口さんは生き延びる。

そこから2017年8月30日に88歳でがんにより亡くなるまで、壮絶な原爆後遺症との闘いの日々を送るのでした。

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被爆半年後の自分の写真を掲げながら演説する谷口稜曄さん。2010年5月7日、ニューヨークの国連本部にて。

参照・引用:2017年8月29日 Peace Philosophy Centrebased in Vancouver, Canada『Nagasaki A-bomb Survivor Taniguchi Sumiteru dies』
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2020年08月11日

長崎の被爆者、谷口すみてるさんの証言

「私は1945年8月9日、爆心地から1.8キロの所を自転車で走っていて被爆しました・・・

9月になって、大学病院が治療をしているとのことで送られました。

そこではじめて医学的な治療を受けました。まず輸血です。

でも、私の血管に輸血の血液が入っていかないのです。内臓が侵されていたのでしょう。貧血が激しくて、焼けた肉が腐りはじめました。

腐ったものがドブドブと、体内から流れ、からだの下に溜まるのです。下にボロ布を敷き、それに体内から流れ出る汚物を溜めては、一日に何回も捨てなければなりませんでした。

その当時、火傷や怪我をした被爆者のからだに、ウジ虫がわいて、傷の肉を食べていました。

私には一年過ぎてから、ウジ虫がわきました。私は身うごきひとつできず、ましてや、座ることも横になることもできません。

腹這いのままで、痛みと苦しみの中で殺してくれと叫んでいました。誰一人として、私が生きられると予想する人はいませんでした。医者や看護婦さんが、毎朝来ては"今日も生きてる、今日も生きてる"とささやいておられました。

家の方では、何時死んでも葬儀ができるよう準備していたそうです。私は死の地獄をさ迷い、滅び損ねて、生かされてきたのです。身うごきひとつできなかったので、胸が床ずれで骨まで腐りました。

いまでも、胸はえぐり取ったようになり、肋骨の間から、心臓がうごいているのが見えます。

1年9ヶ月たって、ようやくうごけるようになり、3年7ヶ月たって、全治しないまま病院を退院しました。その後も、入退院を繰り返し、1960年まで治療をつづけてきました。

1982年頃から、ケロイドの所に腫瘍ができて手術を受けました。

その後も医学的にも解明できない、石のような硬い物が出来て手術を繰り返しています。皮膚が焼け、肉が焼けているため、人間が生きていくために一番大切な皮下細胞、皮下脂肪がないため、石のようなものができるのだそうです。

『平和』がよみがえって、半世紀が過ぎました。

私は奇跡的に生き延びることができましたが、いまなお、私たち被爆者の全身には、原爆の呪うべき爪跡があります。

核兵器と人類は共存できない。

私が歩んできたようなこんな苦しみは、もう私たちだけで沢山です。世界の人類は平和に豊かに生きてほしいのです。そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつくりましょう。

人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません。

私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死んでいけません。

長崎を最後の被爆地とするため。

私を最後の被爆者とするため。

核兵器廃絶の声を全世界に。」

2010年8月8日、アメリカン大学と立命館大学の学生への谷口稜曄さんの証言を転載。

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谷口さんは、最後までじぶんのからだを原爆の証として公にさらしつづけた。photo by AP通信社「条約の 締結祈る語り部の 背中の傷は 未だに癒えず」伊藤史織、静岡県立藤枝東高校3年
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 08:32| ブログ?