2020年08月04日

木谷真一、70歳

今年も、わたくしの曽祖父・木谷真一の命日が近づいてきています。

木谷家は広島市内で呉服屋を営んでいた。

木谷家四代・木谷實平が大成功。大阪、北海道、広島に店を出していた。

広島では市内の横町付近にて、真一が『丸佐呉服店』を任されていた。商売は戦争がはじまるまで順調で、結構手広くやっていたと聞く。

当時の広島は静かな城下町で川が豊かに流れる、ほんとうに住み心地の良い町だった。東京や大阪が大空襲を受けるなか、何故か広島だけは大した空襲はなかった。

しかし長女正子の婿、真裕が「軍港のある広島は危ないから早く淡路へ来るように」という手紙を淡路島に住む甥からうけとり、躊躇を感じながらも移住を決断。

真一の妻文子と長女正子、長男三郎、次男俊夫、次女の直子は、真裕の生まれ故郷である淡路島洲本へと残務整理のため残る真一を残し、1945年3月下旬にさきに引っ越していた。

家族の出発のとき、長いあいだ親しくつきあったひとたちが大勢、お別れを惜しんで広島駅まで見送ってくれた。

あのひとたちは、皆んな8月6日に亡くなるのだった・・・

その日、木谷真一は早朝の空襲警報で目が覚めた。いつものように空襲はない。

「またか」布団の中でそう思う。

最近誤報が多い。敗けつづきで軍部も混乱しているのだろう。目が覚めてしまい、しばらく布団の中で輾転としたが、もう夢の中へと戻ることはできなかった。

仕方なく起きるとメガネをかけて、灯火管制の黒幕を開ける。外は薄日が差しているがまだ太陽は照りつけていない。朝曇りのカンパチというが、今日はそうなりそうだ。

トイレに行き用を足そうとして、朝勃ちしていることに気づいた。

「おや?どうしたというのだ、マイリトルボーイよ」

トイレからでて洗面所で顔を洗い歯を磨いた。誰もいない家はガランとして急に老け込んでしまったようである。

台所へ行き簡単に朝ごはんを用意する。昨日の夜にお手伝いさんが作ってくれた残りものを、そのまま食べた。

「男のひとり暮らしは、何かと不便でいけんのう」

そう思いながら寝室へと戻り浴衣を脱ぐとシャツとズボンに着替えて玄関へといき、帽子をかぶりステッキを持って日課である護国神社へのお参りに出かけた。

道中、やはり雲間から太陽があらわれはじめた。

蝉はまだ鳴いていないし、それほどは暑くない。人もまばらである。

お参りを終え、護国神社を7時半に出る。

始業の9時までにはまだ間があった。

kidani_family.jpg
『木谷家家族写真』1935年頃、市内の写真館にて。後列左より正子、真一、三郎。前列左より直子、文子、俊夫。次女・直子さんだけが、まだご存命である。
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 10:02| ブログ?