2020年08月10日

8月9日、長崎にて

谷口稜曄(たにぐちすみてる)さんは長崎で被爆した。

谷口さんは1945年8月9日、当時16歳の時に郵便配達のため長崎の爆心地から1.8キロの所を自転車で走っていた。

4000度ともいわれる石や鉄をも溶かす熱線と、目には見えない放射線によって背後から焼かれた。

次の瞬間、建ものを吹き飛ばし鉄骨をも曲げる秒速300メートルの爆風によって、自転車ごと4メートル近く飛ばされ道路に叩きつけられた。

しばらくして起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっている。

背中に手をやってみると、ヌルヌルと焼けただれ手に黒い物がベットリついてきた。

それまで乗っていた自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっている。近くの家はつぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていた。

谷口さんは苦しみ助けを求めている人たちを見ながら何もしてあげられなかったことを、今でも悔やんでいる。 多くの被爆者は、黒焦げになり、水を求め死んでいった。

彼は夢遊病者のように歩いて、近くのトンネル工場にたどり着いた。台に腰を下ろし女の人に頼んで、手に下がっている皮膚を切り取ってもらう。

そして、焼け残っていたシャツを切り裂いて、機械油で手のところだけ拭いてもらった。

工場の人たちは、工場を目標に攻撃されたと思っている。また攻撃されるかわからないので、他の所に避難するように言われた。

力をふりしぼって立ち上がろうとしたが、立つことも歩くことも出来ない。元気な人に背負われて山の上に運ばれて木の陰の草むらに、背中が焼けただれているためうつぶせで寝かしてもらう。

周りに居る人たちは、家族に伝えて欲しいと自分の名前と住所をいい「水を、水を」と、水を求めながら死んでいく。

夜になると方々が燃えていて明るいので、人のうごきを見てアメリカ軍の飛行機が機銃掃射して来た。その流れ弾が谷口さんの横の岩に当たって、草むらに落ちる。

地獄の苦しみの中にいるじぶんたちにアメリカは、なお爆撃をしてくるのだ。

夜中に雨がシトシト降り、木の葉から落ちるしずくを飲みながら一夜を過ごした。

夜が明けてみると、谷口さんの周りはみんな死んでいて生きている人は見当たらなかった。そこで2晩過ごし、3日目の朝、救護隊の人達に発見され27キロ離れた隣の市に送られた。

病院は満員で収容できず、小学校に収容される。

被爆してから6日目に傷から血がしたたり出るようになり、それと共に痛みがジワジワと襲ってきた。

1ヶ月以上治療らしき治療はなく、新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけ・・・

けれども谷口さんは生き延びる。

そこから2017年8月30日に88歳でがんにより亡くなるまで、壮絶な原爆後遺症との闘いの日々を送るのでした。

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被爆半年後の自分の写真を掲げながら演説する谷口稜曄さん。2010年5月7日、ニューヨークの国連本部にて。

参照・引用:2017年8月29日 Peace Philosophy Centrebased in Vancouver, Canada『Nagasaki A-bomb Survivor Taniguchi Sumiteru dies』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 11:14| ブログ?