2021年08月01日

かんけいなくいきるのは

うつったひとの増加が止まりません。

けれども大騒ぎせずに暮らしたい。

ひとはいつか亡くなる。確率は100%。だからこそ、過剰におそれずに、いまこの瞬間をたいせつに生きたい。

うつったひとは増えているけれど、亡くなるひとは逆に減っているとか。すでにちがう段階へと入っていることに気づきたいところですが、またまた医療逼迫とも言われている。困ったなあ・・・

パチンコのせいにして、酒のせいにしてつぎはなんのせいにするのか。しかし、オリンピックのせいにはならない不思議。

この世の中は理不尽なもの、為政者の思惑どおりにうごいていく。SNSにいくら投稿したところで無視されておわり。悔しいけれど国家なんてそんなもの。

理不尽さを抱えつつ、気をつけつつ生きていきたい。

そうして8月に入りました。8月ジャーナリズムのはじまり・・・太平洋戦争の戦局の悪化、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下、終戦と戦争の記憶がつぎつぎとよみがえる季節です。

この『ブログ?』でも8月中盤まではいっかんして今年も原爆の話題です。じぶんの曽祖父、戸籍上は祖父ですが木谷真一(キダニシンイチ)が8月6日、広島におとされた原子爆弾で亡くなっているので鎮魂の連載です。

理不尽な戦争につきすすみ敗北した国の犠牲になったイチ国民の祖父ですが、あの戦争で亡くなった大勢の国民とおなじようになんの補償もありません。

いっぽうで軍人や軍属には何十兆円もの補償が、いまも支払われているなんていう話しを聞くと疑問が湧いてきます。湧いてきますがどうしようもない。

理不尽さを抱えつつ、疑問をもちつづけつつ生きていこう。

8月4日はキラリふじみにて全体リハーサルです。劇場をつかっての練習は、はじめてなのでわくわく、楽しみ。合宿の映像を観たらなかなかよかった。さすがは巻上公一さんの音楽という感じだった。

8月5日に都志へとはいって準備、7日からデュ社『舞踏?』夏合宿のはじまり。

ワークインプログレスとしてすすめていこうとかんがえているので、公演が目的ではなく過程がすべて。生まれてから死ぬまでの過程がすべての人生とおなじ。

8月15日までの合宿期間中のあらゆる瞬間をたいせつに、あそび、たのしみ尽くすのです。

graffiti202181.jpeg
『鉛筆画_2021_8_01』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 17:21| ブログ?

2021年08月02日

残酷な季節

いまから75年前、1945年8月のアメリカ。

日本への人類史上初の原爆実戦投下で、21万人以上が亡くなると推計されていた。

アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンは多忙を極めていて、そのことについて議論をしたり日本国民に思いを巡らせたりするどころではなかった。

そして「原爆の威力が隅々まで行き渡る、市民が暮らす都市部に原爆を落としたい。」という科学者たちの、知的好奇心をトルーマンは止めきれていなかった。

22億ドルがかかった兵器の責任者としてアメリカ国民に効果を証明しなければならないレスリー・グローヴス将軍は、もちろんそれに賛成していた。グローヴスは、日本に原爆を大量投下することも計画していた。その数なんと17発。

「いや原爆を落とす場所は軍事施設に限り、決して子どもや女性をターゲットにしてはならない。」

トルーマンは、当時の日記にそう書き記している。

グローヴスは、人口が密集していて殺傷できる人数が多く効果が大きい京都へ原爆を落とすのがいちばんだと主張、京都駅が目標地点に選ばれていた。

しかし有識者や知識人のあいだから「アメリカがヒットラーを凌ぐほどの残虐行為をしてしまう。」「無差別爆撃にあたるのではないか。」と懸念の声があがっていた。

同時に親日派の軍人、ヘンリー・スティムソンが京都への原爆投下に反対していた。

グローブスがトルーマンに軍事都市であると強調した虚為の報告書により、人類がはじめて核を解き放つ場所に選ばれたのは広島だった。

「2発目以降は準備が出来しだい投下せよ」とのグローヴスの命令があったとされている。

原子爆弾の大量投下で日本を壊滅させてそのあと本土へと上陸、火炎放射器や毒ガスやサリンをつかい生き残った人間も全滅させて無血占領するのがアメリカ軍の計画だった。

その名も“オリンピック作戦”と名付けられていた。

それにしても何故、8月だったのか・・・

気象学者の「8月は統計的に晴れの日が多い」という意見があったので、その意見に従ったのだという。

原爆投下後の真夏の炎天下の腐乱腐臭地獄、大量のウジやハエの発生はそんな学者の一言で決まってしまったのだった。

summer.jpg
『夏の花、文庫版スケッチ』

参照:2019年1月6日『原爆投下知られざる作戦を追う』NHK
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 15:31| ブログ?

2021年08月03日

ことばのちから、おどりのちから

伊坂幸太郎さん著『首折り男のための協奏曲』を読了。

娘が夏休みに読むため学校から借りてきて、はやばやと読み終わった本だった。

もともといくつかの雑誌のために書いた短編をまとめたもので、それぞれ「恋愛ものを」であるとか「怪談話を」であるとか、べつべつの依頼で書いた短編だとか。

登場人物が微妙にシンクロしつつ、関係あるようにないようにながれていくお話しでいじめであったり殺しであったりよくないことが起こっていやな気持ちになったりする。

しかし最終的にはよくないことをしているひとたちに天罰のようなことが起き、救われる。

起こっていることは深刻なのに登場人物が深刻にとらえないということもあって軽やかな雰囲気の、ふしぎな読了感のある小説だった。

合コンに参加した冴えない男性が帰り道にある楽器店でピアノを弾くときの描写がすばらしくて、ページから舞い上がるすてきなことばのかずかずと、そのことばたちがまるで音楽のように色あざやかに飛び跳ねることに興奮した。

ことばでなにかをあらわすというのはこういうことなのだなと感じ、じぶんがまいにち記しているこの『ブログ?』のことを振り返ってしまった。

こちらは仕事ではなく金銭的な責任もまったくないので気楽につづけている。けれども規模こそまったくちがえども、世に発表するものなので推敲をくりかえす。

いっぽう、プロであって文章に金銭的な責任が発生している伊坂さんのことばの推敲の精度のちがいというか、ことばの表現力のちがいを痛感。

痛感しつつ同時におどりでおなじようなことができるかどうかも考える。

それは小説のなかの逸話のようにおどりで通りすがりのだれかに背筋が寒くなるほどの感動と驚きをあたえることができるかどうかの問いかけであり、おどりとことばとの表現力の対比でもあった。

怪談話をと依頼をうけて書いたというように、読んでいてゾッとするお話しもあった。写るはずのない人間がくっきり写っているという心霊写真。

ちょうど、そのときに黒い影がゆっくり横切って驚いたら猫だった。

びっくりさせやがって。

graffiti_20210803.jpeg
『鉛筆画20210803』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 14:14| ブログ?

2021年08月04日

キダニシンイチ、70歳

1945年、8月6日。

当時の広島は静かな城下町で川が豊かに流れる、ほんとうに住み心地の良い町だった。

東京や大阪が大空襲を受けるなか、何故か広島だけは大した空襲はなかった。

しかし長女マサコの婿、シンスケが「軍港のある広島は危ないから早く淡路へ来るように」という手紙を淡路島に住む甥からうけとり、躊躇を感じながらも移住を決断。

妻のフミコと長女マサコ、長男サブロウ、次男トシオ、次女ナオコは、シンスケの生まれ故郷である淡路島洲本へと残務整理のため残るシンイチを残し、1945年3月下旬にさきに引っ越していた。

家族の出発のとき、長いあいだ親しくつきあったひとたちが大勢、お別れを惜しんで広島駅まで見送ってくれた。

あのひとたちは、皆んな8月6日に亡くなるのだった・・・

その日、キダニシンイチは早朝の空襲警報で目が覚めた。いつものように空襲はない。

またか、布団の中でそう思う。

最近誤報が多い。敗けつづきで軍部も混乱しているのだろう。目が覚めてしまい、しばらく布団の中で輾転としたが、もう夢の中へと戻ることはできなかった。

仕方なく起きるとメガネをかけて、灯火管制の黒幕を開ける。外は薄日が差しているがまだ太陽は照りつけていない。朝曇りのカンパチというが、今日はそうなりそうだ。

トイレに行き用を足そうとして、朝勃ちしていることに気づいた。

おや?どうしたというのだ、マイリトルボーイよ。

トイレからでて洗面所で顔を洗い歯を磨いた。誰もいない家はガランとして急に老け込んでしまったようである。

台所へいき簡単に朝ごはんを用意する。昨日の夜にお手伝いさんがつくってくれた残りものを、そのまま食べた。

男のひとり暮らしは、何かと不便でいけんのう。

そう思いながら寝室へと戻り浴衣を脱ぐとシャツとズボンに着替えて玄関へといき、帽子をかぶりステッキを持って日課である護国神社へのお参りに出かけた。

道中、やはり雲間から太陽があらわれはじめた。

蝉はまだ鳴いていないし、それほどは暑くない。人もまばらである。

お参りを終え、護国神社を7時半に出る。

始業の9時までにはまだ間があった。

kidani_family.jpg
『キダニ家家族写真』1935年頃、市内の写真館にて。後列左よりマサコ、シンイチ、サブロウ。前列左よりナオコ、フミコ、トシオ。次女・ナオコさんだけが、まだご存命である。
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 10:08| ブログ?

2021年08月05日

いつもの朝

1945年8月6日、7時半頃。

シンイチは毎朝の日課である、護国神社へのお参りをすませた。

今日はお手伝いのひとが2人来てくれる。そろそろ残務整理も終わり、すっかりと片付いてきていた。

一週間後には、淡路島へと旅立ち家族に会えるのだ。広島を離れるのは寂しいが、家族に会えるのはやはり嬉しい。

少し気分が明るくなったシンイチは、始業時間の9時まで散歩をすることにした。手に入るものなどないに等しいが、淡路にはないものをお土産にしてやろう。何がいいだろうか。

孫のヨウコが好きなみかんの缶詰が手に入ればなあ。そんなことを考えながら相生橋の上へと入った。相生橋は本川と元安川をまたいでかかる、まるで猿股のような橋である。

アメリカならあ、さしずめ“ T ”じゃ。T-backじゃ。学生のころ外国語大学で英語を専攻していたシンイチは、そう思いひとりほくそ笑んだ。

まあ、ええか。

戦争で一切の財産も何もかも失いつつある。しかし、人生もこの川のようなもの。流れていって海へとかえり、終わる。それでいいのかもしれない。流れにただ身を任せれば・・・

ゆっくりと雄大にうねっていく元安川の流れを、橋の上から欄干に手をつき飽きるともなく惚れ惚れとながめていた。

ここ広島は水の都である。太田川は、よこがわの北側で六つの支流に別れる。満々と水をたたえ休むことなく流れつづける六つの川。ぼんやりと川面を見ていたが、蝉の声ではっと我にかえる。

もう8時か。

そろそろ店に帰って用意をはじめるか。懐中時計で時間を確認するとそう考えた。お洒落好きなシンイチは呉服屋にもかかわらず、普段は洋装で通していた。

中洲から木橋を渡り、広島県産業奨励館を右に見ながら歩きつづける。

のぼり町のおせんていまで来たときだった。盛大に鳴く蝉の声に混ざって、かすかに飛行機の飛ぶ音が聞こえた気がした。雲ひとつない夏の空を見上げる。

三機のB29が飛んでいるのが目に入った。爆撃にしては結構、高度が高かった。偵察か、呟いたときだった。あっ、何か落とした!そばにいた子どもたちが口々に叫んだ。

キラリと光るものが落ちてくるのが見える。

パラシュートか?シンイチはそんなふうに思った。

00:08:14:55
00:08:14:56
00:08:14:57
00:08:14:58
00:08:14:59...

shinichi.jpg
とにかくお洒落さんだったのよ。次女のナオコさんはそう回想する。
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 12:14| ブログ?

2021年08月06日

ふたつの太陽_2021

1945年8月6日 8時15分

広島の青空に、摂氏12000度の“ふたつの太陽”があらわれた。

太陽の表面温度が6000度。

太陽、ふたつ分の狂気が人類の手によって解き放たれた。そこにいた一人一人。そしてそのひとにつながるすべての命を永遠に絶つ光と熱と風。10万人のシンイチがその日、亡くなった。

まずは光。

“千の太陽を集めたよう”と形容されるその光で一瞬に消え去ったひと、多数。コンクリートの建ものには人間の影だけが残った。

そのあとの高温の爆風で一瞬で燃え尽きたひと、無数。爆心地周辺の地表の温度は摂氏4000度にも達した。いまだに死者の数の誤差が、プラスマイナス1万人といわれる所以である。

不幸にも生き延びてしまったひとは 火傷で全身を真っ黒に膨らませ 皮膚がベロベロにめくれ 腕が千切れ 腹が裂け 内臓がこぼれ落ち 目玉が飛び出る

爆心地から離れていたひとには 爆風とともにガラスの破片が突き刺さる

そして あちこちで次々と起こる火事 逃げようにも逃げるところがない 川に救いを求めてなだれ込む人々は 次から次へと溺れ死ぬ 竜巻が巻き起こり 人々は天高く舞い上げられ 地面に叩きつけられて死ぬ・・・

その瞬間、まるで巨大なフラッシュをたいたように目の前が真っ白になった。

真っ白なのだけれどそのふちは、赤や緑や紫やいろんな色が気味悪く縁取っていた。

と、耳をつんざくような音がしてシンイチは吹き飛ばされた。耳が聴こえなくなって無音になった。ゆっくりと起き上がるとあたりは真っ暗で何も見えなかった。耳のつかえがとれた瞬間に人々の悲鳴と叫び声が聞こえてきた。

そばにいた子どもたちは吹き飛ばされて、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で死んでいた。

じぶんはどうなっているのか?顔を触ってみるがぶよぶよとしていて感覚がない。あたりからはたちまち火が上がり、あちこちで火事が起こりはじめたので慌てて歩きはじめる。

切れた電線が垂れ下がりばちばちと火花をあげている。一頭の馬が燃えながら走っていく。カラスが燃えながらぴょんぴょんとはねていく。

血を流していないひとは1人もいない。頭から、顔から、手から、裸のひとは胸から、背中から、腿から、どこからか血を流している。

皮膚がだらんと垂れて、両手を幽霊のように前に出して歩いているひとが大勢いる。一糸まとわずに歩いているひともいる。

近くに爆弾でも落ちたのか・・・

なにが起こったのかまったくわからないまま、シンイチはとにかく丸佐呉服店を目指すのだった。

5_hiroshima.jpg
『原爆投下直後』提供:広島平和記念資料館/撮影:米軍

参照・引用:『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫、『父と暮らせば』井上ひさし 新潮文庫、『ヒロシマを世界に』広島平和記念資料館編、『原爆詩集』峠三吉 平和文庫 日本ブックエース発行、『夏の花』原民喜 集英社文庫、『ヒロシマ・ノート』大江健三郎 岩波新書
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 08:15| ブログ?

2021年08月07日

1945年8月6日、夕刻

シンイチは、ゲンバクの落ちたヒロシマの街を歩きつづけた。

泣きわめく声が聞こえるのであたりを見回すと、子どもが家に挟まってうごけなくなっていた。

よく見るとそれは知り合いの女の子だった。火はすぐそこまで迫っている。

からだはほとんど外に出ているのに、片足が柱と柱にはさまって引き出せないのだ。助けようとするがどうにもならなかった。周りを見ても全裸で狂ったように歩く真っ黒なひと、ひとばかり。もうすぐ楽になるからな。シンイチは、謝るように手を合わせ逃げるようにその場を立ち去った。

助けてあげられなくてごめんな。

流れる涙を拭うこともなく歩きつづけた。自分自身も全身大火傷を負っていた。服はズボンがかろうじて半分残っていた。真夏だというのにぞくぞくとするぐらいに寒い。

震えながら歩いていると、とつぜんはげしく雨が降りはじめた。真っ黒な雨だ。どろりと泥のように重たかった。黒い雨を浴びながら歩く。靴はいつの間にかなくなっている。腫れ上がり真っ黒で、ぶつかっても誰だかわからない顔・・・顔・・・

じぶんもそうなのだろう。

そんなことをぼんやりと考えながらシンイチは、火の手に流されるようになり逃げまどう群衆に流されながらも、いろんな知り合いの安否を訪ねてまわる。

声を限りに叫んでいる男、悲鳴をあげながら走る女性や子ども、苦痛を訴えるひと、道端に坐りこんで、助けをもとめるように空に向けて差し出した両手を振っているひと。

崩れ落ちた家のわきで、合掌瞑目して一心に祈っているおばあさん。四つん這いになって鳴き声をあげながら、わずかずつ進んでいる男。

いろんなひととすれ違う。

燃え上がって通れないところは遠く迂回しながら、夕方まで歩きつづけ死体の山の上を歩きつづける。皮膚が破けずるりとすべり、こけてしまうこともしばしばだ。

会うひと会うひとに名前を聞くが、誰だかまったくわからない。全員が全員、誰かを探している。みんな何処へ行ってしまったのか?わからない。

何もかもわけがわからないがひとつ確かなのは、誰かに「死ね」と思われたということ。ぼやけた頭でそんなふうに考える。空は黒煙でどんよりと曇っている。午後には、すべての死体が腐りはじめていた。

日が落ちてくるとヒロシマの空は、炎で夕焼けのように真っ赤になっていた。

シンイチは歩きつづける。何度もなんども嘔吐して喉が乾いて仕方がない。鼻血も止まらない。

マサコ、もう会えんかもしれん・・・シンスケ君、みんなのことをよろしく頼む・・・フミコ、フミコ・・・水を・・・水をくれんか・・・

水を・・・みず・・・みずがのみたい・・・みず・・・

もうそれしか考えられなくなっていた。

1945_8_6.jpg
キダニシンイチ、享年70歳。没:1945年8月6日、夜「合掌」

参照:『夕凪の街 桜の国』こうの史代 双葉社、『この世界の片隅に』こうの史代 双葉社、『黒い雨』井伏鱒二 新潮文庫、図録『原爆の絵』広島平和記念資料館編 岩波書店、『原爆詩集』峠三吉 平和文庫 日本ブックエース発行、『夏の花』原民喜 集英社文庫、『ヒロシマ・ノート』大江健三郎 岩波新書
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 14:23| ブログ?

2021年08月08日

8月6日、夜のこと

舞踏家集団『デュ社』の夏季舞踏?合宿がはじまりました。

デュ社はじめての記念すべき合宿なのです。

そうして古巣、大駱駝艦の特別体験舞踏合宿はなんと中止。

人数が多いからなあ・・・こちらは超少人数、密になどなりようのない人数なので大丈夫です。参加者は重症化しにくい年令で、亡くなったひとはいない年令。

リスクがあるとしたらじぶんですが、もしかかったらそれでしかたない。もしも万が一、亡くなっても生きていくうえでの、ほかのあらゆるリスクとおなじです。

ひとはかならず死ぬ。死を怖れすぎずに十分に気はつけつつおこないます。

らくだかんの合宿には1994年から2012年まで18年間、従事しました。合宿最大の目玉は大駱駝艦主宰、麿赤兒の特別講義。

麿さんがいろいろと喋って、そのあと合宿生がじっさいに踊るのです。

あれはいつの合宿だったのか忘れてしまったけれど、合宿生を踊らせながら「あつい、あつい・・・」「いたい、いたい・・・」「くるしい、くるしい・・・」と麿さんがことばで誘導しはじめた。

電気を消して暗い中、師匠が擬音で色々と描写するのがすごく怖かったのを覚えている。

あとで考えたらその日は8月6日だった。らくだの合宿は8月の第1週におこなわれるので、6日が入るのです。

「そうか8時15分とかいって朝に追悼するからそれで終わりという気になってしまうが、夜ってのもあるのだ」という当たり前のことに、そのときに思い至ったのでした。

電気はもちろんないから真っ暗な中で被爆者たちは、自分がどうなっているかもわからない。

まわりからは「あつい・・・いたい・・・くるしい・・・」という呻き声しか聞こえてこない。想像しただけで恐ろしいし、不安だったろうなあ。

夜、山のほうへ避難していく被爆者の行列が通っていくとき、道沿いの家の門戸は固く閉ざされていたという。関わりあいになりたくないという残酷な心理・・・

麿赤兒講義のあとの野外稽古で、照明に無数の虫が集まってきていて皆んなビックリしていた。冗談ではなく、14万匹はいたかもしれない。

そしてその夜、宿舎の玄関の自動ドアが、誰も通っていないのに開いたり閉まったり一晩中していた。

ちょうどお盆だったし、霊が遊びに来ていたのかもしれません。

1945_8_7.jpg
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にて。
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 14:23| ブログ?

2021年08月09日

繰り返された地獄

1945年8月9日11時02分、2発目の原子爆弾が長崎に実戦投下された。

アメリカでは、広島への原爆投下は「戦争を終わらせるために必要だった」という意見がいまだに大多数を占める。

けれど、長崎に関しては疑問を感じるひとがアメリカ人の中にも多い。

長崎へ投下された“ファットマン”は、広島へ投下された“リトルボーイ”よりも威力は強大であった。にもかかわらず被害が広島よりも少なかったのは、当時の長崎上空が曇っていて本来の投下目標だった市街地から外れたからだった。

最初の目標都市は小倉。

ところが小倉が曇っていたため原爆投下を断念、急遽長崎へと投下場所を変更した。原爆搭載機“ボックス・カー”が長崎上空へ到達したとき長崎の市街も、小倉と同じく雲におおわれていた。

すでに燃料は基地へ戻れるぎりぎりだった。機長チャールス・スウィーニー少佐、25歳はレーダーによる爆弾投下もやむなし、と決断していた。

爆弾投下まであと25秒。

そのとき、爆撃手ビーハンの目に雲の切れ間から市街の一部がわずかに見えた。

爆弾の投下は目視爆撃でおこなえということが重要命令だった。そこで、ここが急遽投弾目標となった。高度9,600メートルの上空から原子爆弾を長崎に投下。

まるで宿命に導かれるように、浦上天主堂のうえで炸裂。

長崎ではいまだに、あの原爆はナガサキではなく“浦上天主堂”という教会に罰で落ちたものなのだという思い込みが根強く残っている。『鉄割アルバトロスケット』の長崎ツアーの時にそう知りました。

そして世界有数のキリスト教国、アメリカは自らが落とした原爆の爆心地"Ground zero"がキリスト教会のお堂だったとは、口が裂けても言わない。

プルトニウム239の核分裂反応によって初期瞬間温度は摂氏500万度となり、火の玉は直径280mになった。

非人道的な戦略核兵器、原子爆弾の二度目の無差別無警告での実戦投下により死者7万3,884人、重軽傷者7万4,909人、合計14万8,793人が被爆したのだった。

nagasaki.jpg
『ナガサキのキリスト』

参照・引用:長崎原爆資料館ウェブサイト | 2020年8月6日『証言と映像でつづる原爆投下・全記録』NHKスペシャル
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 15:20| ブログ?

2021年08月10日

8月9日、長崎にて

谷口稜曄(たにぐちすみてる)さんは長崎で被爆した。

谷口さんは1945年8月9日、当時16歳の時に郵便配達のため長崎の爆心地から1.8キロの所を自転車で走っていた。

4000度ともいわれる石や鉄をも溶かす熱線と、目には見えない放射線によって背後から焼かれた。

次の瞬間、建ものを吹き飛ばし鉄骨をも曲げる秒速300メートルの爆風によって、自転車ごと4メートル近く飛ばされ道路に叩きつけられた。

しばらくして起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたように皮膚が垂れ下がっている。背中に手をやってみると、ヌルヌルと焼けただれ手に黒い物がベットリついてきた。

それまで乗っていた自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっている。近くの家はつぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていた。

谷口さんは苦しみ助けを求めている人たちを見ながら何もしてあげられなかったことを、今でも悔やんでいる。多くの被爆者は、黒焦げになり、水をもとめ死んでいった。

彼は夢遊病者のように歩いて、近くのトンネル工場にたどり着いた。台に腰を下ろし女の人に頼んで、手に下がっている皮膚を切り取ってもらう。

そして、焼け残っていたシャツを切り裂いて、機械油で手のところだけ拭いてもらった。

工場の人たちは、工場を目標に攻撃されたと思っている。また攻撃されるかわからないので、他の所に避難するように言われた。

力をふりしぼって立ち上がろうとしたが、立つことも歩くことも出来ない。元気な人に背負われて山の上に運ばれて木の陰の草むらに、背中が焼けただれているためうつぶせで寝かしてもらう。

周りに居る人たちは、家族に伝えて欲しいと自分の名前と住所をいい「水を、水を」と、水をもとめながら死んでいく。

夜になると方々が燃えていて明るいので、人間のうごきを見てアメリカ軍の飛行機が機銃掃射して来た。その流れ弾が谷口さんの横の岩に当たって、草むらに落ちる。

地獄の苦しみの中にいるじぶんたちにアメリカは、なお爆撃をしてくるのだ。

夜中に雨がシトシト降り、木の葉から落ちるしずくを飲みながら一夜を過ごした。

夜が明けてみると、谷口さんの周りはみんな死んでいて生きている人間は見当たらなかった。そこで2晩過ごし、3日目の朝、救護隊の人達に発見され27キロ離れた隣の市に送られた。

病院は満員で収容できず、小学校に収容される。

被爆してから6日目に傷から血がしたたり出るようになり、それと共に痛みがジワジワと襲ってきた。

1ヶ月以上治療らしき治療はなく、新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけ・・・

けれども谷口さんは生き延びる。

そこから2017年8月30日に88歳でがんにより亡くなるまで、壮絶な原爆後遺症との闘いの日々を送るのだった。

スクリーンショット 2020-08-06 11.08.14.png
被爆半年後の自分の写真を掲げながら演説する谷口稜曄さん。2010年5月7日、ニューヨークの国連本部にて。

参照・引用:2017年8月29日 Peace Philosophy Centrebased in Vancouver, Canada『Nagasaki A-bomb Survivor Taniguchi Sumiteru dies』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 09:47| ブログ?

2021年08月11日

長崎の被爆者、谷口すみてるさんの証言

「私は1945年8月9日、爆心地から1.8キロの所を自転車で走っていて被爆しました・・・

9月になって、大学病院が治療をしているとのことで送られました。

そこではじめて医学的な治療を受けました。まず輸血です。

でも、私の血管に輸血の血が入っていかないのです。内臓が侵されていたのでしょう。貧血が激しくて、焼けた肉が腐りはじめました。

腐ったものがドブドブと、体内から流れ、からだの下に溜まるのです。下にボロ布を敷き、それに体内から流れ出る汚物を溜めては、一日に何回も捨てなければなりませんでした。

その当時、火傷や怪我をした被爆者のからだに、ウジ虫がわいて、傷の肉を食べていました。

私には一年過ぎてから、ウジ虫がわきました。私は身うごきひとつできず、ましてや、座ることも横になることもできません。

腹這いのままで、痛みと苦しみの中で殺してくれと叫んでいました。誰一人として、私が生きられると予想する人はいませんでした。医者や看護婦さんが、毎朝来ては“今日も生きてる、今日も生きてる”とささやいておられました。

家の方では、いつ死んでも葬儀ができるよう準備していたそうです。私は死の地獄をさ迷い、滅び損ねて、生かされてきたのです。身うごきひとつできなかったので、胸が床ずれで骨まで腐りました。

いまでも、胸はえぐり取ったようになり、肋骨のあいだから、心臓がうごいているのが見えます。

1年9ヶ月たって、ようやくうごけるようになり、3年7ヶ月たって、全治しないまま病院を退院しました。その後も、入退院を繰り返し1960年まで治療をつづけてきました。

1982年頃から、ケロイドの所に腫瘍ができて手術を受けました。

その後も医学的に解明できない、石のような硬い物が出来て手術を繰り返しています。皮膚が焼け、肉が焼けているため、人間が生きていくために一番大切な皮下細胞、皮下脂肪がないため、石のようなものができるのだそうです。

『平和』がよみがえって、半世紀が過ぎました。

私は奇跡的に生き延びることができましたが、いまなお、私たち被爆者の全身には、原爆の呪うべき爪跡があります。

核兵器と人類は共存できない。

私が歩んできたようなこんな苦しみは、もう私たちだけで沢山です。世界の人類は平和に豊かに生きてほしいのです。そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつくりましょう。

人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません。

私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死んでいけません。

長崎を最後の被爆地とするため。

私を最後の被爆者とするため。

核兵器廃絶の声を全世界に。」

2010年8月8日、アメリカン大学と立命館大学の学生への谷口稜曄さんの証言を転載。

201508090101.jpg
谷口さんは、最後までじぶんのからだを原爆の証として公にさらしつづけた。photo by AP通信社「条約の 締結祈る語り部の 背中の傷は 未だに癒えず」伊藤史織、静岡県立藤枝東高校3年
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 08:34| ブログ?

2021年08月12日

繰り返された地獄2

「巨大な火の玉がまるで地球の奥深くから湧き上がってくるような光景を目撃した。

つぎに巨大な紫の炎の柱が地球から飛び出した流星のように上空へと駆けのぼるさまを、私たちは畏怖の念に打たれて見つめていた。それはまるで生きもののようだった。」

長崎への原爆投下に随行したジャーナリスト、ウィリアムローレンス記者は、原爆搭載機ボックスカーから観た光景を回想してそう語る。

「悲劇の谷、浦上は世紀の大暴風が去った三日月の下にひらく死の砂漠であった。死者のすべてが虚空をつかんだ幽霊のすがたで焼けている。火の海の塗炭の苦しみをなめたあらわれであろう。

もはやこの惨状に対してあらゆる語彙が、今日かぎり私にとっては無力となった。」

陸軍報道部の撮影に同行し原爆投下直後に長崎へと入った東潤は記している。

「長崎の爆心は浦上の天主堂のすぐ近くなので、私が行った救護所でのほとんどの被爆者がクリスチャンだったのです。その方々が起き上がれないひともみんな助け合って、起きて夕方になるとお祈りをされるんです。

それを見たときに、はじめは腹が立ちました。これほどむごいことを信者たちに与えることを許した神さまがどうしてお祈りの対象になるのかと思ったんです。

しかし、あとで考えてみるとあのひとたちの祈りは原子爆弾をつくり落としたひとも含めて、人間が犯した罪に対する謝罪の祈りだったんじゃないか。

すべてを失った人間の最後の最高の尊厳を見たのではないか。と思うようになりました。」

原爆投下直後の長崎で被爆者の救護にあたった当時、医学生だった濱清はそう振り返る。

ヒロシマが最初の原爆実戦投下された都市ならば、ナガサキは最後の原爆実戦投下された都市である。このことは人類にとって非常に重要なことなのです。

広島につづき長崎へと原子爆弾を落とされても、まだ大日本帝国は敗北を認めようとしなかった。

テニアン島では3発目の原子爆弾の投下準備が進んでいた。

3発目の投下目標は東京の皇居だった。

nagasaki4.jpg
『ナガサキのキリスト2』

参照・引用:長崎原爆資料館ウェブサイト | 2020年8月6日『証言と映像でつづる原爆投下・全記録』NHKスペシャル
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 11:55| ブログ?

2021年08月13日

原爆投下、一週間後

原子爆弾が実戦投下されて一週間が過ぎていた。

シンスケは義父・シンイチの安否を確認するため家族やみんなの反対を押し切り、単身広島へと向かうことを決心。

心配するひとたちに見送られ、朝早く洲本の家を出るとバスに揺られて岩屋へ。岩屋港から船に乗り明石へと向かった。

船中も広島に落ちたという新型爆弾のことで持ちきりだった。そしてどうやら長崎にも落ちたとの噂だった。噂は混沌として判断に苦しむが、広島が壊滅的被害を受けたことは確からしい。

しかし、じぶんの眼で確かめるまでは信じたくなかった。

大阪から広島行きの汽車を探す。ひとで混雑する駅の構内に、広島への電車が不通になっていることが、頻りにアナウンスされている。なんとか尾道まで行く汽車を探し、ぎゅうぎゅうの車内に身をこじ入れた。

途中、何度か空襲警報が鳴り止まったが何もなかった。そろそろ昼だからか車内は静かで、みんな騒ぎ疲れたかのように眠ったり黙りこくっている。

尾道で汽車を乗り換えると、一路、広島市内を目指す。

今日は小雨交じりの空で涼しいぐらいだった。噂では広島に黒い雨が降ったとか。その雨に当たると髪の毛が抜けてしまうらしい。そんなことがあるのだろうか。シンスケには、わからなかった。

汽車でいけるのは、広島駅のひとつ手前の矢賀駅までだった。そこから同じように、家族や知人の安否を確認するため市内へと入る人々とともに線路を歩く。

途中、軍のトラックが市内へと向けて何台も走って行った。

広島駅の北にある東練兵場あたりまで来たとき、眼の前に広がる光景をみて彼は絶句した。なんなんじゃ、これは!!悲鳴をあげると地面に崩れ落ちて絶叫しつづけた。

街が完全になくなっていた。

hiroshima_1945_8.jpg
爆心地『島病院』を中心に撮影された写真。左:原爆投下前、右:原爆投下後 撮影:米軍。

シンスケは、うずくまって泣きつづけた。その横を当たり前のように人々が通り過ぎていく。

しばらく放心状態でいたが、ひとしきり泣くと気分が落ち着いてきた。もしかしたら父はどこかに避難していて無事かもしれない。そんな淡い期待もこころに浮かんできた。鼻水と涙をぬぐい気を取り直して立ち上がると、再び歩きはじめた。

おせんていの前を通ると無数の死体が焼かれて煙を上げていた。同じようにあちこちで死体を焼く煙が上がっていた。シンスケは手ぬぐいで口を抑えながら、店のあった爆心地へと入っていった・・・

原爆投下一週間後のヒロシマでキダニシンスケは、いったい何を見たのか。淡路島に帰ってきた彼から親戚一同で話しを聞いた。

大人があんなに泣くのを、はじめて見た。

そう当時、5歳だったヨウコが回想する。

大黒柱を失って暗く沈むキダニ家だったが、シンイチの孫である五人姉妹は、焼け野原に咲く花のように美しく朗らかに成長していくのだった。

five_sisters.jpg
木谷家五姉妹。左から三女:春子、長女:陽子、次女:照子、五女:恒子、四女:衣子。
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 08:36| ブログ?

2021年08月14日

原爆連続投下について

アメリカ軍は、広島、長崎につづき東京に3発目の原子爆弾を投下する予定だった。

そのあとに最大で14発の原爆を連続投下する計画を立てていた。

ウラン型原子爆弾“リトルボーイ”は広島に投下、プルトニウム型原子爆弾“ファットマン”は長崎に投下された。

3番目のプルトニウム型原子爆弾“トウキョウジョー”は、長崎への原爆投下後にテニアン島で組み立てられていた。

8月10日にマンハッタン計画のリーダーの1人であったロスアラモス国立研究所のロバット・バヒェーアはプルトニウムの輸送を指示していた。しかし原爆開発計画の責任者オッペンハイマー博士はトルーマン大統領の命令がないことから、輸送を取り消した。

トルーマンは、おなじ8月10日に原爆投下計画の中止を決断して全閣僚につたえていた。

輸送がされていたら、プルトニウムはサンフランシスコ経由でテニアン島に運ばれて、8月19日か20日に東京に投下される予定だった。

テニアン島には原爆を搭載した戦略爆撃機B-29が飛び立つための世界最大のウェストフィールド空軍基地があり、原爆を効率良く製造できるように設計された、生産ライン工場と原爆部品の倉庫も建設されていた。

マンハッタン計画でプルトニウムの精製がおこなわれていた、ワシントンの製造施設から定期的にテニアン島の工場へとプルトニウムを搬送。大日本帝国が降伏するまで、原爆を製造、投下するというシステムがすでに出来上がっていたのだった。

アメリカ軍のジョン・エドウェン・ハル陸軍大将が原爆製造に関する情報を、部下に尋ねている会話のメモが公表されている。

そのなかで「投下命令がでれば、次の原爆は8月19日には投下でき、そのあとは10日ごとに1個、月に3個づつ製造できる」と部下が答えている。

アメリカ軍は原子爆弾の連続投下によって広島と長崎と東京以外に小倉、京都、横浜、新潟、札幌など、日本の都市インフラの完全破壊を計画していた。

広島と長崎だけで約21万人以上の犠牲者がでていた。けれどもまだ本土決戦にこだわる大日本帝国の軍部。

さらなる戦略核兵器原子爆弾の投下で、膨大な国民の命が危機にさらされつづけていた・・・

1945年8月10日、深夜。

国家元首、昭和天皇がポツダム宣言の受諾を決定。

あまりにも遅すぎるご聖断が、ようやく下されたのだった。

tokyo.jpg
『トウキョウの空にピカッとかく』

参照:2019年1月6日『原爆投下知られざる作戦を追う』NHK |『グローバルリスクコミュニケーション』TrendsWatcher
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 08:35| ブログ?

2021年08月15日

戦争のおわり、平和のはじまり

1945年8月15日、正午。

夏の空はどこまでも青く、晴れ渡っていた。

ラジオの前に座ってシンスケは、かつて神と言われたものの声を聞きながら不思議と涙が出ない自分を冷静に見つめていた。

ながれてくる言葉はながながとわかりにくかったが、要するに「武器を置き、敵対行為をやめるように」と国民に訴えかけていた。戦争は終わったそうじゃ。シンスケは家族にそう教えてあげた。

妻のマサコは四女のキヌコを抱きながら泣いているが、安堵の涙だとわかった。

母、フミコは怒ったような顔をしていた。サブロウとトシオはわかったのかわかっていないのかわからないが、神妙にしている。長女のヨウコがテルコとハルコの面倒を見てくれている。まだ6歳だがここ半年のあいだに急に大人びたようだった。

最近、シンスケは夜眠れない日々を過ごしていた。

3日前にヒロシマで目撃した、この世のものとは思えない光景がまだ頭から離れないのだった。

完全に廃墟になってしまっていたヒロシマの街。燃やされつづける無数の死体からあがる煙。空き地に積み上げられた数えきれないほどの骸骨と骨。火傷をした人々の群れ。

未だに路上に放置されて荼毘に付されない死体の山。噂では朝鮮人だということだった。こんな状況になり死体になってもまだ差別する人間というものは、本当にどうしようもないと思った。

腹が立って、情けなかった。同じ人間ではないか。

そもそも日本人などと威張っているが、元々は大陸から渡ってきた人がほとんどだ。

日本列島にもともといた人間は縄文人で、いまは北海道と沖縄に追いやられているのだ。そんな当たり前のことが何故わからないのだろう。いや知らないだけなのだ。

差別は無知からくることを彼は知っていた。

神戸大学をでているシンスケは戦時中も、教養と知識が豊富にあったので日本軍の論法には矛盾と嘘を感じていた。軍港があるのに空襲がほとんどない広島を知り合いの軍人たちは誇っていたが、信じずに移住したのも何かがおかしいと感じたからだった。

そのお陰でいまも、こうして生きている。

シンスケは天皇の声がまだ流れつづけているラジオの前から、そっと立ち上がり薄暗い部屋から外へと出た。長生きしよう。庭へとでて美しい青空を天高く仰ぎみながら、思った。

死んでいった人たちの分まで長生きするのだ。

そう、シンスケはこころに強く誓っていたのだった。

shinsuke.jpg
『木谷眞裕』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 08:59| ブログ?

2021年08月16日

オーバーキル

1945年8月6日広島に、8月9日長崎に原子爆弾が投下された。

そこからレスリー・グローヴス将軍の計画では、15都市への原爆の連続実戦投下が予定されていた。

3発目を用意していたアメリカ軍は、なぜそこまで連続投下にこだわったのか。

なんと、当時のアメリカ男には「爆弾は落とせば落とすほどカッコイイ」という常識があったのだという。自分のカッコつけのために、非人道的な子どもや女性への無警告無差別での原子爆弾投下を実行した男たち・・・

この無謀な命令を止められるのは、もはや大統領だけだった。

「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある。」そうトルーマンは語っている。

「日本の女性や子どもたちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことが無念だ。」

1945年8月10日、これ以上の原爆投下を中止するとトルーマンは全閣僚に伝えた。

この原爆実戦投下の責任の所在はいまだに曖昧で、トルーマンは許可はしていないといい、グローヴスはトルーマンが許可したという。

しかし色々な文献やドキュメンタリーをみた結果、どうやらグローヴスがルーズベルトから原爆開発計画を引き継いだ主導者でありアメリカ軍部という存在が黒幕なのだとわかってくる。

トルーマンはその後、無差別無警告での戦略核兵器実戦投下を正当化していく。

「日本人を殺すためではなく、アメリカ兵を救うために仕方なく日本に原爆を落としたのだ。」

このとき“命を救うために原爆をつかった”というストーリーが出来、“原爆投下=正しい”という公式が生まれた。

そして結果が出る。

トルーマンが原爆投下中止命令を出した、その4日後に昭和天皇が敗けを認めたのだった。

日本降伏のニュースにアメリカ国内には大歓声が響き渡り、トルーマンも大喜び。グローヴスとガッチリ握手。

エロス“生”への欲望とタナトス“死”への欲望という矛盾。

こと核開発においてはタナトスが勝利をしたのだと言わざるを得ない。14万人を一瞬で殺す方法は思いついても、自分1人の命を救うことも出来ない人類。

いま世界中には、およそ13,130発の核弾頭があると言われている。

地球上の生物、すべてを複数回殺しうるという『オーバーキル』状態は、いまでも変わっていない。

そして核開発競争はつづいている。

whitehouse.jpg
『ワシントンの空にピカッとかく』

参照:『原爆投下知られざる作戦を追う』NHK 2019年1月6日 | 長崎大学核兵器廃絶研究センターweb site
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 14:54| ブログ?

2021年08月17日

合宿終了

デュ社はじめての夏合宿が終わりました。

参加者はひとり。

つねにマンツーマンで指導するという合宿生にとっては贅沢な日々だった。

合宿開始前に参加者が1人、しかも大学2年生の女性だというので妻が大丈夫なのかと心配しはじめる。「じぶんが親だったら反対する。」とか「なにかあったら訴えられるで。」とか脅かしてくる。

いろいろと考えていたら不安になってきてだんだん面倒になってくる。「こんな時期だしなあ。」と弱気にもなる。中止という文字があたまをよぎる。

「湯山君に相談してみたら。」と妻に提案されてそうするか。デュ社副代表の湯山大一郎に電話して妻に言われたようなことを話したら「そんなこと言いだしてたらきりないですやん。」みたいに突っ込まれてしまう。

じぶんもそう思うタイプだが、妻の口にする常識的で一般的な意見もよくわかる。

「大学の友達誘って来るように言うて、親の許可とってるか聞いてみたらええんちゃいます。」と提案されてええこと言うやん。さっそく合宿生に連絡してテレビ電話にて話してみることにする。つながったらお母さんといっしょに画面にあらわれてちょうどいい。

対話していたらお母さんが『鉄割アルバトロスケット』のフェイスブックにて情報を知って、娘さんにすすめて申し込んでくれたそうで話しを聞いてひと安心。

「参加者が1人だけれども大丈夫か?」とも聞いてみたが「大丈夫」だとの返事。「もしも興味ありそうな友達がいれば」と伝えると「まだ大学に1日も行ってなくて友達がいない」とのことで了解です。

こんな時期。人数は少ないほうが都合がいいかもしれない。

といいほうへ考えよう。

合宿中は『ブログ?』を更新する時間も余裕もないだろうから、行くまえにすべて用意をしておく。そうして、ぎりぎりまでキラリふじみでの公演の稽古をして、淡路舞踏社へGO。

合宿前日に入って1日は用意する時間を取れたので良かった。湯山は前日まで知り合いの芸術家、山下昇平さんの個展でおどるとかで合宿初日の夜に登場予定。

前日にPCR検査の結果が届いて陰性だったので良かった。

合宿生もワクチン接種を2回終えているそうなので安心なのです。

mosya.jpg
『ある日の模写』
続きを読む
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 17:16| ブログ?

2021年08月18日

合宿回想

デュ社『舞踏?』合宿1日目。

2日目の午前中に暑さ対策として野外舞台にテントをはる作業をしようと言っていたが、なんと湯山が体調不良で合宿に参加できなくなる。

合宿初日からおおきく計算が狂う。しかしピンチはチャンスだ。といいほうへと考えよう。

まずはゆっくりと始動。あたまのなかを空っぽにして、からだのなかも空っぽにする。からだというのは空っぽな皮袋でそのなかに水がいっぱいにはいっている。そのからだをやわらかくうごかす。

そうして、うごかすのではなくうごかされる。揺らすのではなく揺らされる。まったくちからをつかわない省エネ。

午後は天気がいいので海へとあそびにいく。泳ぐつもりはなかったけれど暑いのでパンツでジャブジャブと海へとはいったら「これぞ淡路島」と爽快。海で泳ぐのが淡路島合宿の醍醐味なのです。

合宿生も稽古着のまま海へとはいっていく。はいっていったと思ったらもどってきて「スマホがポケットにはいってました〜」

あらら。スマホはブラックアウトしてしまい、チーン。けれどもスマホ依存症なところがあるようだったので、これもいい経験。スマホからしばらく離れるいい機会なのです。

海から帰ってきたら舞台をつかってからだをうごかす。

夜に、昼公演2回なので晴れていたら暑くて外でやれないので、どうするか考えていて家の中でやることをイメージする。雨戸を閉めれば暗転もできて照明をつかえばいいかもしれない。

2日目、ひとりなのでソロをつくる方向でうごきはじめる。

夕方、サンセットを見るために海へ。帰ってきて野外舞台でからだをうごかす。まわりの鳥の鳴き声や虫の鳴き声や風にうごかされる。暗くなるまでおどって終了。

夜は台風がやってきてガタガタと一晩中、風がうるさかった。

3日目、朝起きたらうしろの見切れを隠していた壁が倒れていた。雨なので一日中家の中で稽古。踊らせようとしているというか、型にはめようとしている感じがして反省。そのひとが輝くようにするのです。

後輩の真鍋淳子があらわれてあたらしい風が吹き、おおきく助けられる。

IMG_5323 2.jpg
『倒れた壁』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 09:57| ブログ?

2021年08月19日

合宿回想2

デュ社『舞踏?』合宿4日目。

朝、みんなでからだをうごかしたら海へ。

デュ社の通過儀礼『砂埋め』をおこなう。

砂の中に全身を埋めてしまうというもので、大駱駝艦がまだ伊豆で合宿していたころに砂浜でやっていた。

まるで母親の胎内にいるような気持ちになれるようで、何分もはいって出てこないひともいる。じぶんはじつは苦手で10秒と耐えられずに出てしまう。砂だらけになったら、すぐに海へはいって洗い流して終了。

夕方にも夕陽を見に海へ。

5日目、創作開始。まずは最後をつくる。こんかい家の中をつかってパフォーマンスをして最後に野外舞台に出てきてフィナーレと決めている。

6日目、終日大雨。家の中にておどりをつくる。まずは1階で雲太郎の読経と挨拶とソロにてスタート、2階へとあがって客間にて合宿生がソロ、向かいの部屋にて真鍋淳子のソロ。1階へともどって3人でおどって外へとでてフィナーレ。

7日目、昼に舞台監督の中村彩世さんが登場。

さっそく2階の照明をセッティングしてもらう。いい感じでおもしろくなりそうな予感。午後はなんとなく通し稽古をする。合宿生のおどりを観ていたら、まるで軍国少年のようにみえてきて感動する。

「そうか明日は終戦記念日。そちらの方向でいこう」と思う。淳子のおどりはいまいちだったのでいろいろと練習をする。

夜は音楽の築山建一郎も登場。

8日目、午前中に建一郎に音をつけてもらって稽古をする。15時から公演。お客さんはゼロなので予行演習といった塩梅です。やはり淳子のおどりがいまいちで心配になる。すこし反省して終了。

9日目、今日は14時から公演。お客さんが4人来る予定なのでいよいよ本番です。朝はいつものようにからだをうごかして、そのあとに『目隠し鬼』をやる。

これも古巣、大駱駝艦にて合宿のときに毎年やっていた遊びで、本気でやるとけっこう激しく怪我人が続出するのでやらなくなってしまった。こんかいデュ社合宿で復活させた。つかまえるのではなく鬼がタッチしたら終わりとルールをソフトにして遊ぶ。

眼という最大の情報器官を隠して鬼ごっこすることによって感覚が鋭敏になっておもしろいので、じぶんは大好きなのです。

盛り上がって終了、本番へとむかいます。

IMG_5326.JPG
『砂埋め中』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 11:10| ブログ?

2021年08月20日

合宿回想3

合宿本番当日。

開演14時。

しかし14時のバスを10分ほど待つので、待たせているお客さんのまえにでて雑談をする。

お盆ということもあり、雑談のあとに真言を唱えようと思っていたら、京都から来てくれた合宿生のお母さんのお友達が仁和寺ではたらいていると聞いてびっくり。仁和寺は真言宗の有名なお寺なのです。

そんなひとのまえで素人が真言を唱えるなんてすこし緊張。そのあとは今日やることの解説などをしてパフォーマンス開始、ちょいとおどったらお客さんは2階へと移動。

合宿生は、おおきな気持ちでおどれたかな。

1階に下りてきて3人でいろいろとやって最後に野外舞台へとあつまってきたら、太陽のひかりが差し込んでいい感じ。気持ちがよかった。

心配していた淳子のおどりが「なにかが憑依したみたいに凄かった」と建一郎が本番後に驚いていて、へえ。

すべて終わってほっとひといき。

合宿生が帰る準備が整うまでお客さんの相手をする。お母さんとお友達はもともと福島の出身で高校のときの同級生だとか。

家のあるのは避難区域でまずは放射能が来て住めなくなり、そのつぎに空き巣が来て家を荒らされて、養鶏場のニワトリの死骸から大量のネズミが発生して家の中がネズミのフンと死骸だらけになって、いまはイノブタが家の中をめちゃめちゃに荒らしてるとか。

復興とはほど遠いほんとうの話しを聞く。用意ができたら合宿生とはそのままお別れ。

「また会おう」

そのあとは倒れていた壁を彩世さんとばらして片付けて終了。打ち上げとか盛大にやりたいところだけれども、こんな時期なので晩ご飯をたべて「おつかれさまでした。」

ご飯を食べていたら花火が上がりはじめたので慌てて観にいく。都志の花火は防波堤から打ち上げるのを至近距離の砂浜から観るのでド迫力なのです。

頼りにしていた湯山が突然いなくなって、いろんなことに気をつかいながらだったのでへとへとに疲れ果てた。来年もしやるならば淡路舞踏社を基地にして、ほかに合宿生の宿泊所を借りてやらないと無理があるとも実感。

もうこりごりと思う瞬間もあったけれど、喉元過ぎれば熱さ忘れる。

これから1年かけてまた計画を練っていきます。

gosikisea.jpg
『海辺の雲太郎』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 09:04| ブログ?

2021年08月21日

原爆の記録

広島への原爆投下後の写真はあまり残っていません。

軍の報道班に所属していた松重美人さんが、原爆投下から3時間後の11時ごろに撮影した写真がもっとも早い時間の写真です。

松重さんは爆心地から2.7キロ離れた自宅で被爆。

家は半壊したが、不安がる妻を家に置いて勤務先の中国新聞を目指して入市をこころみる。

しかし火災がはげしく御幸橋より先へはすすめなかった。この御幸橋で1枚目の写真を撮影。

あまりのむごさにファインダーは涙でかすみシャッターを押すのをためらいつづけ、撮影するまでに30分間以上かかったと松重さんはのちに本に記しています。

398a556fb5b86338932980b27eb6aec9.jpg
松重さんが撮影した写真。This image comes from the Google.

大やけどの市民に油を塗る男性の手前に写っているセーラー服の後ろ姿は、当時13歳の女子動員学徒だった河内光子さん。

「セーラー服の背中が黒ずんでいるのはガラスが突き刺さった血のしみです」

「この左側の女性は、抱いていた子どもの名前を狂ったように叫びぐるぐる回っていました。それはむごかった・・・」そう河内さんは語る。

松重さんは、いったん帰宅して自宅と妻の様子を確認したあと、午後2時頃に自宅とその近辺を撮影した。

その後、同僚とともにふたたび新聞社に向かい爆心地に近い紙屋町で被爆した市電の内部や、広島文理大のプールを撮ろうとこころみた。

しかし、あまりにも悲惨な状況だったため撮影を躊躇し断念した。

いっぽう長崎では原爆投下の次の日に陸軍の報道部員だった山端庸介さんが、軍の命令により撮影に入っており、多くの悲惨な状況を捉えた写真が残されています。

「赤ん坊は泣きませんでした。泣くちからがなかったとじゃないでしょうかね。

もう元気にならないなとわたしも思っておったですよ。そしたら日に日にだんだんと乳もあんまりしゃぶっておったけれど、あんまりちから出してしゃぶるあれでもなかったです。

そして亡くなったんですけど、もう忘れよう忘れよう思うとです、やっぱり忘れてしまいきれんです。やっぱり兄弟、子どもはなあ、一緒やもん。どの子も可愛かこと一緒ですもん。」

そう田中キヲさんは語り、涙ぐむのでした。

image111.jpg
瀕死の赤ん坊を抱く田中キヲさん。撮影:山端庸介 This image comes from the Google.

「もう頭なんかは真っ黒に焦がれて足と頭は焦がれておりましたけれど、お腹だけが少しきれが洋服がかさなって燃えないところがあったんですよ。

そして、そのハギレとわたしが造船所に行っていたときにべっこうの髪留めをですね、わたしが母に買ってやったのがあたまに突き刺さってたんですね。

そして母ということがわかりました。もう涙も乾ききってしまったような状態じゃなかったでしょうか。恐怖感ですね。

わたしもその時は母のすがたを見ても魂の抜けたような感じでした。」

そう龍智江子さんは語るのでした。

スクリーンショット 2020-08-10 18.06.20.png
黒焦げの母の死体のそばにたつ龍智江子さん。撮影:山端庸介 This image comes from the Google.

参照・引用:『なみだのファインダー:広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録』| ヒロシマ平和メディアセンター | 2020年8月6日『証言と映像でつづる原爆投下・全記録』NHKスペシャル
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 09:40| ブログ?

2021年08月22日

東京へ、キラリふじみ入り

合宿終了し、次の日に東京へ。

必要必急の移動です。

電車に乗ったら超満員。みんなで密集しないように努力をしているのに、いつまでたっても電車は特別なのはなぜだろう。そしてもしも電車でうつらないならば、似たような状況は許されるということではないのか。

おなじように喋らないしみんなマスクしているキラリふじみ劇場では、いまだに座席をひとつ飛ばしにしている。へんだなあと不思議に思う。

自宅療養者が急増して保健所の健康観察が追いつかない状況だとか。「政府と都道府県は必要な人材をあつめて宿泊療養施設の機能を拡充するとともに、あらたな仮設病床の整備を急がなければならない。」

そう2年前から言われているのに、いっこうに改善されないのは何故だろう。

補助金の対象となるコロナ向け病床として届けているにもかかわらず、適切に患者を受けいれていない医療機関もあるという。

困ったことです。

とか、じぶんごときが困ったところでどうにもならない。じぶんにできることを精一杯にやっていこう。まずはマスクをして手を消毒します。帰宅したら手洗いうがいをしてと。

1日休んだら、キラリふじみ劇場入りです。

初日は場当たり稽古。昼から夜までの長丁場、全身メイクもしなければならないのでたいへんだぞ。

とか思っていたら巻上光一さんがミル貝を食べてあたったとかで、まだ体力が戻っていないそうで早めに終了。

食あたりはすぐに嘔吐したり下痢したりして、毒をからだの外へと出してしまえばすぐに治るそうです。けれども今回、巻上さんは次の日に具合が悪くなり熱が出たとか。そうなると長引いてしまうようで、完治するまで1週間以上かかったという。

怖ろしい・・・本番前、本番中はなまものは控えたほうがいいのだな。

劇場2日目は作品全体のプロローグとエンディングの稽古。裸になってパンツ一丁で梱包用のプチプチの中に入って待機していたら、いったい何をやってるのだろうなあ。としみじみと思った。

これでお金をもらうことを考えると笑えてきて変な仕事だなあ。とも思う。

全身を白くしたり金色にしたり銀色にしたりと変であればあるほど、変なことをすればするほど、よりお金をもらえるなりわい"舞踏"なのです。

grafFiti2021822.jpeg
『graffiti_2021_8_22』

参照・引用:2021年8月18日 読売新聞
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 10:01| ブログ?

2021年08月23日

劇場3日目、4日目

今日は劇場入りして3日目。

全体の通し稽古です。

朝、新聞を買いにいったら、いつも飼い猫“もこにゃん”の好きな猫じゃらし草を持って帰ってやる。

今日も持って帰ってやるかと、手を伸ばしたら息ができないほど腰が痛くなる。慌てて腰を伸ばして息を整える。「横着して腰を落とさずにものを取ろうとするからこんなことになるのだ。」と思うがあとのまつり。

痛みがおさまらず、明日本番なのにこれはやばいぞ。手を当てながらそろりそろりと帰宅します。おそらく腎臓が弱っているがゆえの腰痛だと思うので、なんとかせねばとまずはこんにゃく湿布で温めます。

こんにゃく湿布はこんにゃくを10分温めて、タオルでくるんで30分ほど腎臓に当てる有名な民間療法です。

「今日は休んで、明日の本番に向けて全力で安静にしたほうがいいのではないのか。」とか考える。

こんにゃく湿布をしながら、グーグルで調べたらギックリ腰は安静にせずにうごかしたほうがはやく治るとたくさん出てきたので、休まずに行くことにする。

こんにゃく湿布後はネットで出てきたギックリ腰を速攻治すとかいう体操を繰り返す。しかし痛みは相変わらず。

朝ご飯を食べたら、歩くと痛いけれど手を当てながら劇場へと向かう。

なんとか劇場へと到着。時間を30分ほど間違えていて着いたらもう稽古がはじまっている。ぺこぺこしながら持ち場につく。

そのあと今日の予定が発表されたらなんと巻上さんが来れないらしくて、じぶんたちのパートだけ通しをやらないとかで命拾いする。

演出の田上君に状態を説明。みんなに心配してもらって恐縮です。貝に当たったりギックリ腰になったりおじさん連中はたいへんだわ。

結局、巻上さんはあらわれず理由を聞いたら便秘とのこと。そんな理由で練習を休むひとは、はじめて聞いたので可笑しかった。来れないほどの便秘ってどんなのだろう。

劇場からの帰り道、涼しくて風が気持ちいい。虫が鳴いていていつのまにやらすっかりと秋の気配。

帰宅したら夜遅くなっている。

ビールをいっぱいと行きたいところだけど、腎臓を休めるためにお酒を我慢する。

graffiti2021823.jpeg
『きのうの絵をなおした』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 10:25| ブログ?

2021年08月24日

ゲネプロ、初日

本番初日。

朝、起きたら田上君からラインでメッセージが届いていた。

“雲太郎さん

夜分にすみません。腰の調子いかがでしょうか?

つむぎねの尾形直子さんがギックリ腰などの施術が行えるプロ(お仕事)らしく、希望すれば明日のゲネ前かゲネ後にむかいさんの腰を見て頂けるとのことでした。

明日の入り時間的に病院に行く暇もないので、ご遠慮なく必要があればおっしゃってください。と、白神ももこさんからのメッセージでした”

『つむねぎ』はちがうパートに出演しているボイスパフォーマーとミュージシャンの素敵なグループなのです。白神さんはもう1人の芸術監督でコンテンポラリーダンサーで振付家。

ありがとうございます。

今日はゲネプロをやったあとに本番。集合は昼なので朝には出発。しかし下り方面なので空いていて楽です。まだまだ腰は痛むので手を当てながら向かう。

劇場についたらさっそく尾形さんに施術してもらう。ひとにからだを触ってもらうのは、ほんとうに気持ちがいい。手が温かかった。

プロの方に無料でやってもらうわけにはいかない。じぶんで言えばタダで踊るようなもの。と施術してもらいながら考える。終わったら腰の痛みがだいぶんなくなっていて、これならば本番をやれそう。

緩めすぎると踊れなくなるのでと手加減をしてもらう。

おかねを払おうとしたら笑いながら「劇場からいただきます。」とのことで、ではなにか個人的にお礼をしようと考える。なにが好きなのかつむねぎのひとに聞いてみよう。

14時半からのゲネプロは巻上さんと合わせるのが久しぶりだったので時間配分がうまくいかず反省、本番へと向かいます。いちど全身のメイクを落としてシャワーを浴びてリセット。

18時からの本番は客席前列のほうによく笑うひとがいたので、そのかたをピンポイントでターゲットにして笑かします。

ちょっと時間が余ってしまったが、まあまあの出来だった。終演後、いろんなひとに良かったとほめられるが、話し半分に聞いておこう。

帰ったら夜遅くなっているので、ビールを飲みたいところだがグッと我慢。

腎臓を休ませます。

graffiti_823_2.jpeg
『graffiti20210223』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 13:39| ブログ?

2021年08月25日

キラリふじみ、千秋楽

今日は14時からなので朝はやく出発。

毎日新聞を駅で買って車内で読みます。

いちめんは前裏千家家元の千玄室さんの戦争体験の記事だった。

戦争というひとを殺すことが目的の異常な状況に身を置いた千玄室さん。愛するひとを守るためと特攻隊として死のうと決めていたが、ふしぎに生き延びて帰ってきてしまう。

出征前、父親が千利休が切腹につかった短刀を、なぜか見せてくれたというエピソードが印象的だった。帰ってきてから菩提寺である大徳寺で修業していたときのある日、雑草を抜いていたら管長にいのちを殺しているのだと教えられる逸話もこころに残った。

じぶんも淡路島の家でなんの気なしに雑草を抜いているが、いきものを殺しているのだと自覚しないといけないと気づく。ほかを生かすために死んでもらう作業。

途中のお店で尾形さんに渡すお礼の品を購入。劇場についたらまた施術をしてもらう。腰が伸びなかったのが伸びるようになる。

ありがとうございます。

本番は昨日のように笑いがないので深追いしそうになるがやめておく。よくあることです。

観にきていた妻に聞いたら声は出さないけれどニヤニヤする感じで、笑っていいのかどうかという戸惑いもあったとか。こういう時に、昨日みたいに率先する笑い上戸がいると場がゆるむのです。

出番の最後に足を捻挫しそうになってびっくり。あとで尾形さんに聞いたらマッサージのあとはそういうことがあるとか。からだがゆるむのでコントロールがきかなくなるのだな。

終演後は楽日だし盛大に打ち上げといきたいところだが、こんな時期なのでみんなで集まってマスクをして感想を言いあって解散。いつになったら居酒屋でわいわい騒ぐなんてことができるようになるのだろう。

今回、劇場のなかでもつねにマスクをしていたので誰の顔もわからなかった。誰の顔もわからずに誰とも喋らずいっしょにご飯を食べたりせず、ただ公演だけを目指す。

いつまでこんなことがつづくのだろう。と気が遠くなる。

帰りに妻と小江戸号という特急電車に乗ってガラガラの車内でほっとひと息、乾杯。

ひさしぶりのビールは苦かった。

beer.jpg
帰宅して飲んだビールはうまかった。
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 10:09| ブログ?

2021年08月26日

宇宙は遠い記憶のおんがくかい

キラリふじみ芸術監督企画『モガ惑星』

終了しました。

富士見市民会館キラリふじみの芸術監督、白神ももこさんと田上豊さんのふたりの企画でホルストの『惑星』をもとにしたおんがくかいでした。

S__93585501.jpg
田上豊さんと白神ももこさん

テキストを「こふく劇場』の永山智行さんが担当。

永山さんは宮崎の市民会館を拠点にして活躍されていて、地域の発展のためにも尽力されている。

これから淡路島の五色町都志を拠点にして活動をしていこうと思っているじぶんの、理想のようなはるかかなたを歩いているかたです。

全体のストーリーテラー的な役を、服部美千代さんというかたが演じていた。

服部さん、失敗してもいっこうにへこたれないというか、気にしてない感じのあかるいひとだった。

S__93585499.jpg
服部美千代さん 撮影:三浦麻旅子

全体をつなぐ音楽をストリングラフィという絹糸と紙コップでできたオリジナル楽器の演奏者、鈴木モモさんが担当。

この楽器を考案したのは水嶋一江さんというかたで、じぶんは水嶋さんと若い頃に出会っているので、感慨深かった。

S__93585496.jpg
鈴木モモさん 撮影:三浦麻旅子

第一パートは『火星』

白神ももこさん演出でピアノを田村緑さん、ダンスを入出杏奈さんが担当した。

田村さん、素敵なピアノを奏でるかただった。入出さんとは、独立してすぐに出演したまことクラヴの『蜜室』でご一緒した。魅力的なダンサーで売れてます。

S__93585497.jpg
田村緑さんと入出杏奈さん 撮影:三浦麻旅子

第二パートは『金星』

作曲・演出はつむねぎのリーダー、宮内康乃さんで『つむねぎ』が歌と演奏を担当。

『キラリ☆かげき団』という市民オペラ歌劇団が歌と声を担当、ピアノで田村緑さんも参加。とっても素晴らしいハーモニーを展開。

妻によるとどこから声が聞こえてくるのかわからくて、とってもおもしろかったと感想を述べていた。

S__93585495.jpg
つむねぎのみなさん 撮影:三浦麻旅子

そうして第三パートは『水星』

演出は田上豊さんで演奏を巻上公一さんが担当、舞踏を向雲太郎が担当した。

「口琴からテルミンへうつるきっかけはなにかあるんですか」とたずねたら「適当」と言っていて、そのとおり毎回ちがってスリリングだった。

おかげさまで毎回、新鮮なきもちで舞台に立つことができた。

ライブはその瞬間がいのち。

二度ととりかえしのつかない瞬間をたいせつにして、その瞬間のなかにありつづけるのです。

S__93585504.jpg
向雲太郎と巻上公一さん 撮影:三浦麻旅子
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 09:34| ブログ?

2021年08月27日

戦争のきっかけ

戦争という莫大な犠牲を強いるもの。

たくさんのいのちが失われるもの。

けれども戦争には人口淘汰の意味あいもあるようなので、人類の避けられない宿命という部分もあるのか・・・

いろいろと調べていると大日本帝国は、戦争をする宿命にあったのかもしれないと感じます。いつの頃からか富国強兵が叫ばれ、いつのまにか富国よりも強兵に力点が移りはじめる。

1931年におこった満州事変からだんだんと軍部がちからを持ちはじめ、コントロールがきかない状態になっていく。

大日本帝国が満州でやっていたことはあきらかな侵略行為だったので、国際社会から非難をあびて、どんどん孤立していく。

非難をする欧米列国も、アジアの国々を植民地にしていたのだからどっちもどっちという見方もあります。当時、アジアで植民地ではないのはタイと日本だけだった。

5.15事件がおこり2.26事件がおこり、だんだんと軍部が暴走をはじめて戦争にむけてつきすすみはじめる。怖ろしい。

1937年7月7日、小競り合いをつづけていた大日本帝国と中国とが全面戦争へと突入。

日中戦争の激化、長期化から『国家総動員法』を制定。これによって徴兵されれば戦争へといかなければならなくなった。

ヨーロッパではナチスドイツ帝国がポーランドへと侵攻、イギリスとフランスが宣戦布告してついに第二次世界大戦がはじまった。大日本帝国は中国と戦争をつづけながらアジアへと侵攻、欧米諸国が植民地にしていた国々への侵略がはじまる。

激怒したアメリカは徹底的な経済制裁で揺さぶりをかける。

1941年12月1日、追い詰められた大日本帝国は、御前会議で正式にアメリカとの戦争を決定。そうして12月7日、とうとう太平洋戦争がはじまってしまうのでした・・・

いま、日本では自民党が敵基地攻撃を口にし出して、安倍前首相もがぜん前のめりになっていた。

ちなみにGlobal Firepowerの“国別軍事力ランキング”最新版によると、日本の軍事力は世界で5位なのです。じつは自衛の範疇を大きく逸脱している日本の軍事力。しかし、それでも安心できないといって兵器を買い人員を増やして軍備を強化しつづけている。

戦後75年たって自衛ではなく攻撃を考えはじめた日本。

このままだと行きつくところは歴史上に明らか、目に見えているのです。

pekin.jpg
『ペキンの空にピカッとかく

参照:Microsoft News | 2021年9月1日 東京新聞1面『兵器ローン過去最大・米国などからの購入止まらず』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 10:40| ブログ?

2021年08月28日

悲しい話しはもうやめたい

<息子よ。この手のひらにもみこまれてゐろ。帽子のうらへ一時、消えてゐろ。>金子光晴

戦地にじぶんの子どもを送らねばならないことを考えながら子を育てる。やがてその子も戦争で死ぬことを思いながら育っていく。

そんな時代がこの国にもあった。

戦争という若いいのちを求めるもの・・・

太平洋戦争の終わりごろ、陸軍中野学校の卒業生である青年将校42名が沖縄に送りこまれ、強制的に集められた14歳から17歳の沖縄の少年たちを組織してゲリラとして戦わせた。

「10人殺したら死んでもよい」と教え込まれた少年たちは、命じられるままに敵陣を撃破し、生まれ育った村々を焼き払ったという。

Childsoldier_In_Okinawa.jpg
沖縄戦で捕虜になった少年兵。This image comes from the Wikipedia.

おなじく戦時中から末期にかけて、10代の女性とまだ戦場へいけない男の子たちによる軍需工場での作業などの学徒動員がはじまる。学校の授業はすべてなくなってしまった。

戦争が激しくなるにつれて勤労期間が長くなり、1944年3月には年間を通して毎日勤労することになる。

同年11月以降、空襲で火災が広がるのを防ぐために家を壊して空間をつくる『建物疎開』もおこなわれるようになった。原爆資料館によると、建物疎開をしていた動員学徒約7,200人が原爆で犠牲になった。

日本全土では、300数万人の学徒が動員され、1万人余りの若者たちが犠牲になったといいます。

そうして特攻作戦がはじまる。

戦況悪化の中、起死回生を狙った不条理な戦術“特攻”。1944年10月、フィリピン・レイテ沖海戦で、海軍の若者24人が『神風特別攻撃隊』に編成され、爆弾を抱いて敵艦へ体当たり攻撃を仕掛けた。

ここから「日本を守るためには特攻しかない」という空気ができ同調圧力がうまれ、まるで雪崩のように特攻作戦一本やりとなる。

その結果、終戦までに6,418人が戦死したとされている。

特攻は、爆弾を抱えて敵艦に体当たりする航空機特攻のほか、大型魚雷に操縦席を設けた人間魚雷『回天』、モーターボートに爆弾を搭載した水上特攻艇『震洋』、爆弾を積みロケット噴射で滑空して体当たりする『桜花』などの特攻兵器も開発、投入された。

いっぽう満州の荒野で、押し寄せてくるソ連軍戦車に爆雷を抱いて突っ込んだ若者たちもいた・・・

いつの時代もどんな国でも、戦争によって若いいのちが犠牲になるのです。

<戸籍簿よ。早く焼けてしまえ。誰も。俺の息子を覚えているな。>金子光晴

20161001103417.jpg
子犬を抱く荒木幸雄伍長17歳。荒木伍長の左から時計回りに、早川勉18歳、高橋要18歳、高橋峯好17歳、千田孝正18歳の各伍長。1945年5月26日、特攻出撃2時間前。Colour by royston leonard. This image comes from the Google.

参照・引用:2018年8月23日 毎日新聞・余録 | 2020年8月8日 朝日新聞・天声人語 | ヒロシマ平和メディアセンターWeb | 生活クラブ『生活と自治』NO.617 連載 戦果の記憶 | 産経ニュース | 講談社 オフィシャルウェブサイト | ウェブメディア『てのん 人ものがたり』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 10:08| ブログ?

2021年08月29日

ある日の日記

9月、10月のデュ社連続公演は中止になりました。

残念無念です・・・

キラリふじみ公演終了し、1日やすんで文化庁の申請書準備開始。第1次申請が不採択になったので2次募集へと挑戦するぞ。

なんとしてでも採択されないと、またじぶんは報酬なしになってしまう。なってしまうどころか出演者の湯山大一郎や音楽の築山建一郎や舞台監督の脇田友君や中村彩世さん、写真撮影のbozzo、演出助手の辻崎智哉への報酬をじぶんが背負わなければならない。

ウェブサイトの更新料と公演合宿の飲食費と全員の交通費、消耗品費や材料代などの経費はありがたい寄付でなんとかまかなえたが、キラリふじみの報酬がすべてみんなへの報酬の支払いに消えてしまう。

今年はじめの文化庁継続支援事業についやした約3ヶ月の労働が無報酬になり7月の公演と8月合宿も無報酬、4月からうごいていて、30分のソロに全力をかたむけたキラリふじみ公演も無報酬のピンチです。

まったく、なにをやっているのだろうなあ。

なにもかもが嫌になってくる。妻にも苦労をかけっぱなしで申し訳ない。

採択件数が申請数の約50%をキープしつづけていて、1次募集での予算が決まっていて、予算ありきで審査内容を決めていると噂がながれている。そして大切なのは、内容よりも有名であること。世間一般のあたりまえの常識か・・・

ため息ばかりでますが、無名のじぶんをこそ恨め。いや、今度こそ採択されるように入念に書類を準備するぞ。

ガタガタ言ってもしかたがない、頑張れ。

申請書作業のあとはひと休み、ひさしぶりに真言を唱えます。稽古中、本番中は余裕がなくてできなかった。こんなときだからこそ、冗談ではなく世界の平穏無事とみんなの健康をこころを込めてお祈りします。

「おんさらばたたぎゃたはんな まんなのうきゃろみ」

真言を唱えたあとは新聞を読みます。ホーキング博士の「空間が右にも左にも行けるように、時間はもともとはどちらにも進めるものだったのではないか」ということばをメモ。

おそらく時間はまっすぐに進むものではない。

たとえば、からだをうごかすたびに時間はゆがんだり遅くなったりしているのだ。

おもしろい。

graffiti_823_1.jpeg
『grffiti_823』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 15:22| ブログ?

2021年08月30日

戦争体験を聞く

郷土史研究家の前角栄喜さんは、終戦直前に上陸してくる連合国軍に銃剣で突撃するように命じられる。

結局、本土決戦にいたることなく日本は降伏をした。

「決死の思いから一転、生きてふるさとへと帰ったわたしの戦争体験はみじめのひとことに尽きます。」そう前角さんは振り返る。

前角さんは長野県の農家で生まれ、1945年2月に陸軍に召集される。

6月中旬、千葉県の寺に駐屯した。戦況は日を追うごとに悪化していて、米軍の戦闘機による機銃掃射で死にかける。

8月14日、めずらしく銃の先に剣をつけてきびしい訓練をした。夕食後に隊長が「明日未明、敵が上陸してくる。死はやむを得ない。突撃して1人でも2人でも突け。」と訓示した。

銃剣だけでどうやって戦えばいいのか。でもお国のために死ぬことが名誉と、さほど怖いとは感じなかった。隊員同士でわかれの盃をかわして横になり、こよいかぎりのいのちだと思って目を閉じると母の顔がうかんできた。

「最後におふくろと会ってから死にたい」という思いがあたまのなかをずっと駆け巡った。

8月15日は異様な雰囲気のままときが過ぎ、昼に寺の本堂に集合して玉音放送を聞いた。死から逃れたのだとわかると全身のちからが抜けると同時に悔しさが込み上げて敗北感がのこった。

終戦後も前角さんたちの部隊は9月中旬まで待機を命じられた。

陸軍内部に戦争の継続をもとめる不穏なうごきがあったからだという。部隊解散後に地元の駅に降り立ったとき、出征の際に盛大に見送ってくれたひとびとのことが脳裏をよぎった。

「村人いちどうから万歳という声援を背に胸をはり入隊したのに、負けた上に生きて帰ってきたことが情けなくてしかたがありませんでした。」

人目を避けて普段通らない畑道をあるいて帰宅。庭にいた母は前角さんを見てもとくに驚かなかったが、ちかくによってきて耳元で「よかったな」とつぶやいた。

帰宅後、同時期に出征した同級生5人が戦死したと知る。ますますはずかしくなった前角さんは、数週間家の外へと出ることができなかった。

あるとき、戦死した同級生の家に挨拶にいくように母にうながされる。重い足取りで家をたずねて同級生の母親に「生きて帰ってきて申し訳ありません。」とあたまを下げた。

すると母親は「よかった、よかった。」と笑顔で喜んでくれた。前角さんはその笑顔に救われて涙がでたという。

「誰しもふたたびの戦争を望んでいません。そのことを忘れないでください。」

そう前角さんは語るのだった。

maezumi.jpg
『前角栄喜さん、96歳、千葉市在住』

参照・引用:2021年8月18日 読売新聞
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 11:25| ブログ?

2021年08月31日

まったく目が見えないという前提

先日、車イスバスケットボールを拝見。

生身のからだだけではなく、車イスでぶつかり合うのでスピードがはやく迫力があった。

若い頃に井上雅彦さんが描いた車イスバスケットボールの漫画を読んだことがあったので、どれほどすごいアスリートたちなのかがより実感できた。ハンデがあるぶんハングリーで鬼気迫る選手たち。

気になっていたブラインドサッカーも拝見。

目が見えないのに全力で突っ込んでいくというので、どんなものだろうと興味があった。目が見えないので、ぶつかってまるで雪崩のように敵も味方も倒れたりする。車椅子バスケよりも牧歌的に感じた。

ボールには金属が入っていて音がするそうで、聴覚を研ぎ澄ます選手たち。ゴールキーパーは唯一目が見えるひとがやるので、Jリーグのかただったりする。選手たちは激突や衝突を防ぐために「ボイ」と声をかける。

スペイン語で「行く」という意味だとか。

娘がブラインドサッカーの体験を学校でしてきたことがあって、帰宅してからしばらく「ボイ、ボイ」言ってたのを思い出した。

選手は、テーピングのようなもので目を完全におおって、さらにくろいマスクのようなものをつけている。「あれならば見えないという前提は誰でも共有できるので、盲目であるとか関係ないのではないのか」と思ってふしぎに感じた。

考えだすと興味深かった。

しばらく考えて「そうか、いちばんハンデのあるひとにみんなが合わせているのだ」と気づく。

社会もそうあれば平等になるのにと思う。目が見えることが前提でつくられている社会を、目の見えないひとに合わせてつくりなおす。男性が働くことが前提でつくられている社会を、女性の立場で考えてつくりなおす。

戦争で傷ついた兵士たちの社会復帰のために考え出されたというパラスポーツ。スポーツがリハビリの役目を果たし、楽しんで熱中するうちにリハビリもできている。

思いやりに満ち溢れていて、悪意に満ちた人間といういきものの優しい側面が感じられた。

オリンピックの開会式でなんとか打ち出そうと四苦八苦していた多様性も、作為なく感じられて「人間っておもしろいなあ」と思ったのでした。

graffiti829_1.jpeg
『oshowさん風』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 16:14| ブログ?