1923年9月1日。
その年にとれた米を納める節句で各地の神社で祭りがあり、農家では赤飯などの御馳走を用意してお祝いする日だった。
土曜日ということもあって子どもたちは、お祭りや御馳走を楽しみにして始業式もそこそこに家路をいそぎ、夏の日のくつろいだ雰囲気があった・・・
11時58分ごろ、凄まじい揺れが関東地方を襲った。
発生した地震はマグニチュード7.9と推定されていて、南関東から東海地方におよぶ地域に大規模な被害が発生。
ちょうど昼時で、各家庭で火をつかっていたので火事が多くおこった。それが能登半島付近に接近していた台風の強風にあおられて燃え広がった。
そのなかでも『陸軍被服廠跡』では、1カ所として最悪の約3万8千人が死亡した。
震災当時、隅田川の近くに広がる原っぱだった本所の被服廠跡。 激しい揺れのあと、倒壊した家から、あるいは火災から逃れようとする人たちが続々と逃げ込んできた。
本震から約3時間半がすぎた午後3時半ごろ、4万人に達していた避難者を火が取り囲む。逃げ場を失い、大混乱におちいる人々。そこに、家々のさまざまなものを巻き上げながら進む『火災旋風』が起こった。
被服廠跡に悲劇をもたらした火災旋風とは、中に火の粉を抱えこんだ竜巻だった。
竜巻というのは、自然界の中でももっとも烈しい現象のひとつで、それに伴う風速は100mを越すこともあるという。しかし、その発生は年に10回くらいであって、そう頻度の高いものではないとか。
そんな珍しい現象がどうしてあの時、被服廠跡に発生したのか?世界の災害史上にも、まったく例を見ないような異様な惨劇。その真の原因は究明できなかったようです。
被服廠跡の広大な敷地は一面、遺体で覆い尽くされ、山のように積み重なったところもあった。焼け方がひどく、見ただけでは性別が分からない遺体も多かったという。
火災による被害は全犠牲者10万5,385人中、約9割の9万1,781人を占めたともいわれている。
あらゆるものを焼き尽くした火災が鎮火するのは、9月3日の午前10時ごろなのでした。
本所被服廠跡の悲劇が起こるまえの写真。「合掌」
参照・引用:2005年11月27日 神奈川新聞 |『被服廠跡に生じた火災旋風の研究』気象研究所物理気象研究部・相馬 清二 | 2013年3月19日 朝日新聞デジタル