4月12日は湯山大一郎のお父さま、湯山哲守さんの命日。
じぶんは、自宅にて人間らしい最期を送ることができるか?
お母さまからいただいた手紙を読み、お父さんの最期のときのことをいろいろと知って考えさせられた。
京大の学者であった哲守さんは、もともと専門としていた物理学のことはもちろん、あと3つのことを生涯かけて追いかけて研究をされていた。根っからの研究者だったのだな。
病魔におかされてからは、持ちまえの楽観性と科学的な視点にささえられながら、明るさとユーモアとやさしさがある闘病生活を送られたそうです。
お母さまはそんな旦那さまを「根っからの明るいひと」と思っていたが、最期の日々をともに過ごされてじつは苦痛や不安はけっして誰にも見せず、ひとりで引き受けていると気づいた。
それはお父さまのプライドであり、まわりのひとへの思いやりでもあった。
急激に病状の悪化した12月8日の直後から、一番上のお姉さんが「お父さんの最期を、仕事の片手間に看取りたくない。」と介護休暇をとって献身的にお世話をしてくれたとか。
4月9日に「いよいよ僕もご臨終です。」と笑顔でみずからを診断。じぶんでそんなことがわかるものなのか・・・ひとというのは不思議です。
4月12日の午後、パリから帰国された二番目のお姉さんの「お父さん、ただいま!」という声にうなずき、ホッとした表情をうかべると同時に呼吸が荒くなった・・・
誕生日だったお姉さんのためにみんなでハッピバースデーを歌う。こんにゃく座のひとたちもよく病室で歌ったりしているけれど「歌っていいなあ。」と思うのです。
3時間後、長男の大一郎に背中をささえられて起き上がり、眼鏡をかけ、眼を大きく見開き、無言で、ひとりひとりの顔をゆっくりとみつめ、そうして息を引き取られたそうです。
享年75歳。
お母さまが数日後、ベッドの下から遺書を発見。その最後にお父さまから、子どもたちへ向けたことばがあった。
「良き友人を作ること、そしてそのひとを尊敬すること。次の格言をかみしめてほしく思います。」
『艱難は共にできるが、冨貴は共にできぬ』
合掌
お父さまとお母さまが出会われた京大まえの銘菓『ときわ木』