高校や大学の学園祭的雰囲気というのは嫌いではないですが、いい大人がそれを引きずってやるのはあまり好きではないです。
内容を伴わない、ただ”だらしないだけ”なものというのは、時とともに淘汰されて消え去っていくのだと思います。
やはりここでも遊びが出て来ますが、先日南禅寺へ行ってはじめて拝観しましたが、究極の遊びの極致。
果てしなく自由な雰囲気の中に”しん”と激烈に厳しい部分があり無駄が一切ない。
遊びとはすなわち無駄ですが、この両極端の引っ張りあいがあってこそ永遠に歴史に残っていくのだと思います。
京大吉田寮がいよいよ取り壊されるとかという噂を聞きますが、永遠に終わらない学園祭的で自由な雰囲気は素晴らしいと思います。
けれどゴミが散らかっていたり物が散乱していては、蔑視されても仕方がないかな。と思ったり。
今回、お世話になる吉田東通り夜市も過渡期にあるようで、学園祭的ノリが通用しなくなって来ているようです。
あまりにも統制されて理路整然としたものはお役所的でつまらないのですが、陳腐で安っぽくなってしまうのは勿体ないと思います。
手作りの良さは残しつつ、それをしっかりと支える確かな部分も必要。そのためには参加する個人個人が決して甘えることなく自覚を持って挑まなければならないのだと感じます。
過渡期の今回にわたくしが参加するのも何かの縁。
若者に「うわーい、こんなにだらしなくていいんだ〜。」と感じさせるのも先輩の役目なら「うわ、きびしくてこわっ!」と思わせるのも先生の使命だと、頑張ります。
路傍のお地蔵様の裏の顔は不動明王だったりします。
どこまでも優しい面と、てっていてきに怖ろしい面がないと嘘になってしまうのだ。そう思います。
見事な本尊、釈迦如来が安置されている南禅寺法堂の天井から睨みをきかす今尾景年画伯、畢生の大作『幡龍』