2018年09月01日

1995.12/7

パフォーマンス:遂行する。

太田省吾『舞台の水』を読む。

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真実について
「“真”は他の排除。“実”は他の受け容れ。拒否と排除と選択。肯定と受容から諦めへ。」か。ふーん。

舞台の水について
「劇空間においての水は、情景としてではなく、装飾としての水でもない。水そのものとしての水でなければならない。」

「蛇口は壊れていなければならない。〜水は人物の感情表現の材料や素材となってはならない。水量が多くなると水は熱をもち、水音は語りはじめ濁る。〜押しつけではない単調さが肝要。」か。ほうほう、ふむふむ。

「ドラマとは、人生の単調で退屈な部分を削ぎ落としたもの。」という根強い思い込みを疑って捨て去る。〜太田省吾

「音は音であり、人間が人間であることをそのまま受け入れて、秩序の大切さとか感情表現の素晴らしさとか、その他われわれが受け継いできた美學上の空論に対する幻想を捨てなければならない。」〜“サティの魅力的な退屈さ” ジョン・ケージ

水は水であり、音は音、光は光、そして人間はあくまでも人間であるというあたりまえの事をあたりまえに描くという太田省吾やジョン・ケージのひとつの考え方を知る。

そしてそれだけではなく、そのつまらなさも一方にはあることも知る。劇的なるものの面白さも一方にはあると思う。

「一切の要約、一切の概念化なしの肉体で“生”の時間をわしづかみにする。」

概念化なしの肉体?理解不能の肉体ということだな。はみでる精神とはぐれる肉体で“生”の時間をわしづかみにする。

月は自覚なく光り
深い闇をつくる

人生はフェアじゃないという事実。ここからアイロニーが生まれる。 アイロニー:反語(嫌味)皮肉
posted by Mukai Kumotaro at 07:22| 日記