2018年10月07日

からだ?2

人のからだを、野口体操では“柔らかい皮膚という膜に包まれた水が一杯に入った皮袋”なのだといいます。これは事実です。

人のからだは生まれた時は、90%でほぼ水。子どもで80%ぐらいで歳をとればとるほど減っていく。高齢者だと50%。0%はミイラ。

師匠の麿さんは人のからだのことを大聖堂とか大伽藍と言ったりします。空っぽなもの。麿さんの師匠、土方さんは器だといいます。やはり空っぽなもの。

その空っぽな中に色々なイメージを入れてうごかしてあげる。そう。この“うごかしてあげる”というのが大事なところで。

空っぽな柔らかいからだというものをうごかしてあげる。うごかしてもらうとも言えます。師匠は、「うごかして頂く。」といいます。

からだのまわりが実体だ。という話しがありましたが、からだのまわりがうごくから、からだもうごく。

操り人形は普段は空っぽな人がたですが、糸をつけることでうごく。誰かにうごかしてもらう。これと同じです。空っぽなからだを何かにうごかしてもらう。何かは、糸であったりイメージであったり目に見えない何かであったり。

いちばんポピュラーなのは音楽です。曲に踊らせてもらう。いちばん安易だとも言えますが。

うごくのではなく、うごかして頂く。何故そんなことをするのか?

その方が嫌味がないからだと思います。自分が自分が、という押し付けがましさがない。この自分というものをなくすというのも舞踏の大事な基本だったりします。

例えば浄瑠璃で人形が人の手によってうごかされる時、観るものは感情移入がしやすいのだと思います。そこには私が私が、という押し付けがましさが皆無だから。

同じことが能にもあてはまって、面を着けることによって過剰な表現という押し付けがましさが激減するから、引き込まれるのだと思います。

押せば引くのが人情。引けば引くほど観るものは惹きつけられるものです。しかしこの引くというのがなかなかに難しくやっぱりうごき過ぎてしまったり出し過ぎてしまったりしてしまうのです。

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人のからだの器官でふたつあるものは、ひとつは予備らしいです。次男以降は予備なのと同じ。illustration by Kumotaro Mukai.
posted by Mukai Kumotaro at 06:51| 日記