2018年10月23日

宗教

遠藤周作さんの小説『沈黙』を読了しました。

ポルトガル・イエズス会の高名な司祭、フェレイラ教父が日本の長崎へ布教に赴き捕まって通称”穴吊り”という拷問を受けて棄教したとの報告がポルトガルまで届く。

稀にみる神学的才能に恵まれた不屈の人。若い司祭たちの恩師でもあった。その人がいかなる拷問をされたとしても神と教会を捨てて異教徒に屈服したとは信じられなかった。

遠い東の果ての島まで行き、ことの真相をその目で確かめたいと三人の司祭が日本へと潜入する。

主人公の祭司、ロドリゴは次々と起こる困難の中で自問自答し続けます。「神はいるのか、いないのか?居るのならば何故、黙っているのか?」

読み進めるとだんだん『沈黙』というタイトルは決して黙っている神のことだけを指すのではなく、捕まったロドリゴが「転べ。」「棄教せよ。」といくら説得されても黙っていることも指しているのだとわかってきます。

自分の信じるものを踏みにじらせる日本人考案の拷問“踏み絵”。踏むだけにとどまらず、唾を吐きかけ詰らせる。その拷問を経験することによって、辱めと侮蔑に耐える顔が人間の表情の中で最も高貴であることに主人公は気づきます。

自問自答し苦悩する彼を余所に番人と罪人が笑いながら話しをしていたり、祭司の果てしない悩みとニホンの限りない長閑さとの対比が鮮烈で目眩を覚えるほどです。

フェレイラを転ばせた拷問”穴吊り”をとうとう受ける時、深夜の入れられた悪臭漂う穴の中で、彼はいびきを聞く。もうすぐ死を迎える自分とは関係なく他人は眠りこけ無関心である。「なんという滑稽。」と豚のように眠りこける人間たちを馬鹿にして嗤い出してしまう。そして怒り出してしまう。自分の神聖な殉教の場をいびきで汚されたくないと。

しかしそのあと、そのイビキが棄教しない自分の為に穴吊りという拷問にかけられる信徒たちの呻き声だと知らされて。。

最後に彼は気づきます。あの人は決して沈黙していたのではなかった。答えは自らの中にずーっとあったのだと。

キチジローという弱虫がいたりして、要約なんてできないほど奥深くて、”信じる”とは”信仰”とは何なんだろうと考えさせられる小説です。自ら切支丹である遠藤周作さんの格調高い文章と相まって凄まじい物語りが胸に迫りますよ。

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ちなみにわたくしは仏教徒です。真言宗なのでチベット密教とは近いのかな。
posted by Mukai Kumotaro at 14:35| 日記