2018年10月31日

言葉について

日本語ってなんだろう?だいぶん前にテレビで日本語について考える番組を見た。いまの若い人が方言を喋らなくなっているという内容だった。恥ずかしいのだな。

いわゆるテレビの中で使われている言葉”標準語”を喋りたい。そういう気持ちなんだろう。俺は東京に来てからしばらくは関西弁を喋っていた。

高円寺の風呂屋で殴り合いになったのも原因は言葉だった。関西弁を馬鹿にされたのだと思う。

子どもの頃、淡路島に行くと東京からいとこの浩幸くんというのが来るのだけど、東京弁との戦いで影響されて喋ってしまうと気持ち悪くて恥ずかしかったのを覚えている。

テレビの影響で標準語を喋る人たちを”モノリンガル”というのだそうです。だいたい30代まで。

俺のようにどちらも喋れるのが”バイリンガル”。30代から60代。いっぽうで方言しか喋れらない人たち、70代から上の世代がいる。

いま、子どもたちとおじいさんおばあさんが話せないらしい。言葉が通じないから、コミュニケーションを取れない。そこで潜在話者と呼ばれる、間の俺たちの世代がとても大切な役目を担うのだそうです。

でもまあ、関西弁ぐらいなら問題ないけれど、山形弁だとまったくわからなかったりするらしい。ましてや他国語だったらお手上げ降参状態。

そうするとコネクター、通訳的役割が必要になって来るのだな。シズとかジゲンが相手によって、パッと言語を切り替えるのが見てると頼もしくてかっこいい。どんなに知的なことを考えていたって、相手に伝えることができなければ仕方がない。

外に出す方法がない。幼児レベルでしか言葉を発することができない。ということは要するに知能が幼児レベルだということとイコールだと思う。誰にも通じない思い。考え。

コミュニケーションってなんだろう。言葉によるコミュニケーションが全てではない。けれど大切な手段のひとつであることは確か。シティで迷子になったときはもうダメかと思ったもの。

知ってる言葉が「ありがとう。」だけ。道を聞くことも、ここが何処かも訪ねることができない。『母を訪ねて3000里』の主人公マルコになった気分だった。「あー、このまま中南米で道に迷って、最後には南米の方まで流されてさまよって。」

めちゃめちゃに歩いてたら偶然もとの劇場に戻ってきて、安堵したけど危なかった。まあ万が一、日本に帰れなくなったら大道芸で食べて行くのです。

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骸骨とバカボンのパパ。「これでいいのだ。」
posted by Mukai Kumotaro at 11:18| 日記