2018年11月03日

1997年1月9日

チームSの稽古を見る。狙いはわかるし、好きな世界もよくわかるが、この人たちのやっていることに何か意味はあるのか?これをやることに意味はあるのか?

”やおい”という言葉がある。「山なしオチなし意味なし。」ということをあらわす言葉だが、やおいでもいいのか?問題意識や危機感は彼らにはないのだろうか?

だらだらとした格好だけの世界に誠意は感じられるのか?舞台を創ることの面白さ、作品を創る意味、踊りを創ることの必然性は?

「自分が知らないということをこそ知る。」だからこそ問いかけてみる。わかっているから問いかけるのではなく、わからないからこそ問いかけてみる。

「一つの問いかけは、千の答えよりも多くの起爆剤を含んでいる。」要するに疑うということ。「本当か?本当にそうなのか?」大切なのは問題意識。

シリアスな表現をしようとすると、もとになっている感情も同じだし結果もシリアス・悲劇になる。簡単で当たりまえだし想像のできる範疇でつまらない。

逆にこれを笑い飛ばして、アイロニカルやギャグやパロディーとして創る。その方がよっぽど強度を持ったものとして立ちあらわれて来るのだ。同じことをより強く表現できることもあるのです。悲劇も喜劇もどちらもあるのがこの世界だし。

死神が皆んなを踊らせようと それぞれの手をとらせ 長い列をつくらせて 先頭には大鎌と砂時計を持つ死神が立ち 竪琴を持った道化が最後尾

重々しく踊りつつ 夜明けの空から 踊りをつづけながら 暗闇の国へと向かう 雨が彼らの顔に降りそそぎ 彼らの頰から 苦難の涙を洗う

舞踏の日本的・民族的・土着的で具体的なディテールを取り払い、輪郭をはっきりさせることによってインターナショナリティ・普遍性を獲得しようと考えた。八紘一宇・アメノシタヒトツイエ作戦の成功?

舞踏にとっての絶対条件だった表層や細かなディテールを取り払った結果、からだはただの表層になってしまい身体性や物質性が薄く、どこにも存在しない単なる記号になってしまった。

何を言うとるねん?1997年1月9日の俺。

さて、今日はいつものように9時から朝食を食べて10時に劇場入り、アップをして頭からダンサー、照明、音を合わせて全体を創っていきます。16時まで6時間、集中していくぞ〜٩( ᐛ )و

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先頭は”カトリーナ”。死者をあの世へと導いていく。
posted by Mukai Kumotaro at 08:45| 日記