2019年07月20日

遠く離れて

8月の足音が聞こえ始めています。

それとともに曽祖父、戸籍上は祖父・木谷真一の命日が今年も近づいて来ています。

1945年7月、広島は大きな空襲もなく穏やかな日常が流れていました。

全国的に梅雨が長引き肌寒い日が続いていた。

広島市横町の丸佐呉服店では閉店の準備が続いていて真一は、残務整理や片付けを続けていた。

丸佐呉服店は、淡路島五色町都志出身の真一の兄・木谷實平が立ち上げた呉服屋で、往時は数十人の丁稚や番頭が働く大店だった。

實平は都志の本店と大阪、北海道、広島に店を出して大成功していた。全国を飛び回る實平に代わって広島の店は真一に任せられていた。

しかし戦争で規模がどんどん縮小し、とうとう広島の店も閉めることになったのだった。

物資が極度に不足し呉服など着る人は、軍部のお偉いさんの奥方などしかいなくなっていた。

広島の店も開店休業のような状態がずっと続いていた。

家族は先日、真一の故郷である淡路島へと疎開をしていた。広島駅で別れを惜しんだが店の片付けが終われば彼も家族の待つ淡路島へと帰るのだ。

鬱陶しい雨が降り続きやりきれない気持ちになるが、家族のことを思うと少し気分が晴れた。

ここ広島は川が豊かに流れる城下町で、いまは軍都として人が沢山働いている。

物がなく貧しい毎日だが空襲がない広島では、それ以外は戦前とあまり変わらない日常が流れていた。

ふと、戦時中だということを忘れてしまうような瞬間もあった。

しかし市内では労働力の不足を補うために全国から学徒の動員が続いていた。これによって約7200人の学徒が犠牲になるのだった。

日本軍は本土および本土近海にて制空権・制海権を失い、日本近海に迫るようになった連合軍艦艇に対して特攻機による攻撃が残された手段となっていた。

同じ頃、太平洋のテニアン島のハゴイ基地では科学者たちが原子力爆弾“リトルボーイ”が、サンフランシスコから船で到着するのをいまかいまかと待っていた。

いっぽうポツダムでは米英支三国共同宣言の用意が進み、日本への無条件降伏の勧告と天皇制を戦後利用できるかの議論が続いていた。

運命の歯車はゆっくりとうごき続けていた。

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都志の家から出て来た丸佐呉服店の伝票。伝票もなにもかもすべてが8月6日に燃え尽きた。
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 07:21| ブログ?