昨日は、アウシュビッツへと参りました。
まずは“ズルチ”をゲットするため、ホテルで教えてもらったところへ。しかしそれらしき両替所がなくてウロウロ。
ATMがあったのでチャレンジ。EURとPNLと書いてあってなんだろう。不安ながらもPNLでお金を借ります。帰ってホテルで聞いたらそれがズルチだというので良かった。
その後、タクシーでバスステーションへ向かいます。
売場で12:00の切符を買おうとしたら売り切れだからバスの中で買えと言われます。そういえば地下にも売り場があると書いてあったので下へ。
行列に並び、では12:30はどうだろうと自分の番が来たので聞きます。そしたら15:00までないと言われてピンチ。待ち合わせの14:00に間に合わないぞ。
慌ててもう一度一階へと戻ってバス停へ行って、直接乗車にチャレンジしてみたらギリギリ乗れて良かった。
そこから一路、アウシュビッツへと向かいます。1時間半かけて到着。降りると観光客が沢山います。日本人がなんとなく集まって通訳の方がやってきてツアースタート。
ほんとうに収容所がそのまま残されていた。ポーランドが管理しているがドイツの援助とサポートで成り立っているとか。
日本に置き換えたら原爆資料館の設立にアメリカが協力してるようなものか。罪滅ぼし。
収容所内へと足を踏み入れるが、実際にあったこととは思えないのはヒロシマ、ナガサキと同じだった。いまは想像をするしかない。
鉄条網がいたるところに残っていてそこに電流を流す碍子なんかもそのまま。ここでぎりぎりの命のやりとりが行われていたのです。
逃げることは不可能だった。photo by Google.
常に死と隣り合わせの、生き残るための凄惨なあれこれが毎日毎日繰り広げられていた。
大量の遺品に圧倒されながらその頃へと想像を巡らせる。人の命が粗末に扱われる戦争というものの恐ろしさを等身大で考えさせられた。
ポーランド人の収容された方たちの写真がずらっと並んでいるところが、鬼気迫るものがあった。皆んな殺されてもうこの世にはいない人たちの顔、顔、顔・・・
アウシュビッツには、まずはポーランド人が収容された。だいたい2年以内に亡くなっている。photo by Google.
沢山の観光客がぞろぞろと列をなしてガス室に入っていく様は、服装が違うだけでそのままの光景が70年前にも繰り広げられたのだと思った。
その人たちは二度と帰って来なかった。
“この場所が永遠に絶望と叫びと人類に対する警告であるように。
ここではヨーロッパ各地からきた150万人の老若男女、子どもや赤ちゃんがナチスによって殺害された。”〜アウシュビッツ-ビルケナウ1940–1945
子どもや赤ちゃんは母親と共に労働力外としてガス室へ。photo by Google.
ものいわず、静まり返る収容所で誰ひとり話す人もなく暗く沈んだ雰囲気のまま解散。荷物を持ってとぼとぼと帰ります。
帰りは、なんとバスが満席で1時間半立ちっぱなしだった。しかしアウシュビッツの刑罰の“立ち刑”に比べれば大したことはない。
立ち刑は1メートル四方の穴に四人のひとを入れて、何日も立ったままにすする刑罰。よくそんなことを考える。
人間の真の姿が露呈する戦争という異常なもの。嫌だなあ。
駅近くのホテルを何件か回って、手頃なところへチェックイン。
平和を噛み締めながら酔っ払って眠りました。
銃殺される収容者。その死体を片付けるのも収容者の役目だった。photo by Google.
参照:Wikipedia.