2019年07月29日

生きる意味?

昨日はポーランドからドイツへとバスで移動でした。

クラコフからベルリンまで約8時間かけて走ります。道中もアウシュビッツのことをひとり考えます。

差別されて強制収容所へとやってきた人々は先ずは、身ぐるみを剥がされて役に立つものと立たないものに選別される。

例えば入口の階段を一人で登れるかどうかで選別される。

価値なし。と選別されたものはガス室へと送られる。

選別を逃れたものはあらゆる側面からまた差別を受ける。ここから絶望と地獄の日々が始まる。

よく使われる手ですが、ヒエラルキーを作って仲間うちの弱いものいじめを利用する。不満を弱いものに向けさせる。理不尽な連帯責任で厳罰に処して罪を犯させないようにする。

全員がギスギスして誰も信じられなくて、希望がなくて笑いのない世界。

そんな中、地平線に沈む夕陽に感動したりすることが何よりの生きる糧になる。

夏は強烈に暑く、冬はべらぼうに寒い。しかし冬の方が過酷だったみたいでわざと冬に訪れる人も多いとか。

確かに先日は良く晴れて爽やかで、そのぶん恐ろしさや不気味さが消されていたようなところがあった。

ホロコーストやアウシュビッツのことはよく映画になっています。

収容所の所長の息子とユダヤ人の子どもが仲良くなる映画があった。ふざけて服を交換したら所長の息子がガス室に送られてしまう。

事実がわかり所長は嘆き悲しむがあとの祭り。

『蝶の舌』という映画も鮮烈に覚えています。理科の先生と生徒の映画で楽しく日常を送っていたが、先生がユダヤ人でだんだんと迫害されてとうとう強制連行をされる。

ラストシーンでユダヤ人たちに石を投げたり罵声を浴びせている人々に混じって、子どもが泣きながら「蝶の舌!」と叫ぶ。

強制連行される先生との二人だけの思い出、二人だけの記憶のキーワード。

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原題:La lengua de las mariposas 1999/スペイン 監督:ホセ・ルイス・クエルダ、スペインだったのか。photo by Google.

ニューメキシコのロスアラモス研究所では、ヒロシマやナガサキへの原爆投下後も研究が続いていた。

ある時、若い研究員が事故で被爆し即死した。この事件で人為的には容易に制御できない核というものの危険や恐怖をアメリカ人はやっと感じる。

要は想像力なのです。

自分の息子が同じ目に合わないと、どれほど罪深いことをしていたのかわからない。

身近な人が亡くならないと、自分が何を作っていたのか?実感を持って感じられない。

そういえば、アウシュビッツは匂いが凄まじいという噂を何処かで聞いたのだけどまったくそんなことはなかった。

ガラス張りで無味無臭で少し残念。隅っこに穴を作って嗅ぎたい人だけ嗅げるようにすれば、より体験が立体的で強いものになりそう。

とか考えてたらバス停に止まって人が沢山乗ってきて満員に。これであと6時間は大変だぞ。

しかし、ビルケナウ絶滅収容所へと送られる貨車の中は、超満員で息もできないぐらいに詰め込まれていた。それに比べれば天国なのです。

そして行きは途中で休憩があったので今日は、パーキングで昼食を買おうと思っていたら帰りは止まらないようです。

仕方ない。一食抜くぐらいは、収容所にいるのに比べれば大したことない。シベリアもそうでしたが一番苦しいのは飢餓だそうです。

1日ひとつのパンも手に入らない。横取り搾取、泥棒が横行してその少ない食べものを巡って醜くて汚い争いが起こる。

ほんとうに嫌だなあ。ありとあらゆる人間の業が凝縮される戦争というもの。

二度と起こらないように、全力を尽くしたいものです。

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大好きだった先生に石を投げなければならない。その時に少年は、贖罪の意味を込めて思い出の言葉を口にする。photo by Google. 参照:Wikipedia. Google.
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 08:00| ブログ?