2019年09月25日

百の谷、雪の嶺

戌井君に借りた沢木耕太郎さんのノンフィクション『凍』を読了しました。

メキシコからの飛行機内で読もうと持って行ったけれど、サンフランシスコ空港で恩人・大根田雄一にあげてしまってそれきりでした。

このあいだ、ダンストラックの練習で千歳烏山の六階の部屋へいったら本棚にあったので借りてきました。

main-722x1024.jpg
沢木耕太郎さんのノンフィクションは、若い頃に沢山読みました。

従来の登山は大量の荷物をシェルパが持ったりヤクに載せたりしてだんだんと高度にからだを順応させながら登っていき、最終的にベースキャンプをつくってそこから頂上へのアタックをするというものだった。

荷物を運ぶのとからだの高度順応を同時におこなうもので、期間を一ヶ月以上の長時間かけて頂上へのアタックをおこなう。

この大人数の隊を組んで登山するスタイルは“極地法”や“包囲法”と呼ばれるもので一般的だったが、あるときヨーロッパで少人数で短期間に登山をする人たちがあらわれる。

これは、アルパイン方式と呼ばれて登山の常識を破るものだった。

有名なのはラインホルト・メスナー。登山の革命児と呼ばれてヒマラヤを酸素ボンベをつかわずに無酸素で登ってしまった。

ひとつひとつ時間をかけながら確実に高度を上げていく従来のスタイルとはまるで違うアルパイン方式の登山は、無酸素で頂上まで一気に駆け上がるように登るので確かにスピードは速いが、そのぶん危険性も高いのです。

メスナーも弟のギュンターをヒマラヤのナンガ・パルバットで失っている。

1624x1080x07a565f425a3d27088e683.jpg
登山家を魅了してやまない山脈、ヒマラヤ。

『凍』の主人公、山野井泰史もアルパイン方式の第一人者で世界でも有名なクライマーだった。

死を覚悟して踏み出す“絶対の頂”を次々と駆け上り、次はヒマラヤの難峰“ギャチュンカン”を目指す。

一緒にいった奥さんと登るが遭難しそうになり滑落しそうになりながら登頂に成功。

悪天候に見舞われて最悪の状態で幾夜も過ごし、雪崩に何度もあいながらなんとか二人とも生還はしたけれど山野井は右足の指をすべて失い手の指も5本失う。

奥さんの妙子さんは鼻と頰と唇が凍傷で真っ黒になり、両手両足の指を18本も失ってしまう。

けれども奥さんは末端を失うことで助かったのだという。本当に助からない人は中枢をやられて、精神に異常をきたして死んでしまうのだとか。

coyote.jpg
Coyoteでの山野井さんの特集回。

それにしても登山ってのはたいへんな行為です。本で読んでいるだけなのにしんどくなってきて、もう諦めればいいのにと何回も思った。

16時間歩くなんて当たりまえ、300メートル登るのに11時間もかけたりする。

標高7000メートル、零下30度から40度の環境で10センチぐらいの幅のところに座ってビバークというのですが、一晩を過ごす。もちろん一睡もできない。

飛行機を乗り継いで20時間横になれないだけで疲労感はもう生きているのが嫌になるぐらいにひどいですが、そのあとにまたうごき続けなくては死んでしまう。

歴史上一番過酷なビバークで、座ることもできないところで立ったまま一晩過ごした人たちがいたとか・・・あほやで。

そこまでして頂上へと登りたい。「それがそこにあったから。」といったのは、エベレスト初登頂という人類史上の謎を残したジョージ・マロリー。

10-26-1.jpg
1924年エベレスト頂上付近で消息を絶ったジョージ・マロリーとアンドルー・マーヴィン。1999年にマロリーの遺体が見つかったが持っていたとされるカメラは見つからなかった。夢枕獏さんの小説『神々の山嶺』の発端になっている。

高度7000メートルを越えると手袋を外したり、はめたりという行為がしんどくてできなくなるそうです。そんな簡単なことができなくなる状態って・・・

運良く登頂を果たしても降りる時のほうが危ない。目的を果たしてしまい気が抜けてしまう。

植村直己さんも登頂を果たしたあとに行方不明になってしまった。

主人公の二人も降りる時に遭難に近いことになり重度の凍傷になってしまう。

けれど二人はまた山を登りはじめる。

そうして山野井泰史は3年後の2005年7月19日、ポタラ峰北壁の初登頂に成功するのでした。

1_2_20170420.jpg
二人はいまも元気に登山を続けられています。
All photo by Google. 参照:Google. Wikipedia.
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 11:55| ブログ?