昨日、1月8日は大野慶人さんの命日でした。
1959年、舞踏の生まれた瞬間に創始者、土方巽と立っていた奇跡のような、生き字引のような存在だった。
その舞台は『禁色』といって20分間、ほとんど真っ暗だったとかニワトリを絞め殺して観客が気絶したとかすでに伝説になっている。
能狂言、歌舞伎だったらあたりまえのように、人間国宝になって然るべきひとだった・・・
慶人さんをはじめて観たのは、川口隆夫さんの『大野一雄について』のときでした。本編が終わってフィナーレで、客席にいた慶人さんが花束を持って舞台へと上がった。
舞台へ上がるときに平然と二度、三度と花束を舞台に思いっきり叩きつけて観ていて唖然として、度肝を抜かれた。
一瞬でその場を支配する迫力に「本物が登場した」と、ひと目でわかった。
紛れもない本物だけがまとう雰囲気。荒々しいのだけど粗野ではなく、輪郭が濃いというか、いい加減で適当な怖さを感じた。
そのあと、ロビーで乾杯があって残っていたら、遠くに慶人さんが見えたので近づいて機を伺って、勇気を出して挨拶し話しかけた。
「何故、花束を舞台に叩きつけたのですか?」とたずねたら「だってそれはあなた、舞台にも挨拶をしなければいけないでしょう。」ウーロン茶を飲みながら、当たり前のように答えられて「はあ、なるほど。」となった。
「お酒ではないのですか?」と、おどろいて尋ねたら「アル中なので飲まないようにしてるんです。」と答えられてことばがなかった。
大野一雄舞踏研究所代表の溝端さんに聞いたら「ストレスでしょうね。」と言っていた。
あまりにも偉大な父親をもってしまったプレッシャーだったのか。
じぶんもまだあんまりわかってない若い頃は、大野一雄のそばにいるスキンヘッドのおじさんってな認識だったもんな。失礼しました。
それから、横浜のBankART studio NYKで一緒になったりして何度かお話しする機会を得た。
「わたしはね、土方さんにことばで振りつけられたから、いまもこうして自由に踊っていられるんです。かたちで振りつけられたひとたちはね、皆んな踊れなくなっています。」
そんなことを仰っていた。
80歳を超えてパンツ一丁になって、ひと前でおどる姿をみて「果たしてじぶんは80の時にあんな風におどれるだろうか・・・」自問自答したものだった。
あるアフタートークのときに「笠井さんが“舞踏”と言いはじめて、土方さんもいいじゃないか“舞踏”、舞踊は“ぶよぶよ”してる“ぶとう”ってのは固くていいね。と言ってた。」と仰っていた。
「へえ、そうなんだ・・・」とこころにメモメモ。
城崎国際アートセンターのレジデンス応募の際は、慶人さんに推薦状を書いて頂いた。
あれは一生ものの宝です。
『大野慶人』享年81歳。