2020年02月19日

もっと自由に

子どもたちとのワークショップが終わりました。

残念なような寂しいような「ホッ」としたような複雑な心境です。

不安なのは毎回だった。

どうなるのかまったく想像を超えてくるので、頭が真っ白になることも毎回。

そのまま子どもたちと遊んでいればいいのだけれど「それでいいのか?」という大人の視線を感じるのでそうもいかなかった。

「なんとかしなければ・・・」

そこをどう受け止めるか。の度量が子どもたちと遊ぶときには必要になってくる。どこまで遊ばせるのか。どこまでも一緒に遊びたい。自分も遊ぶ。率先して遊べ。皆んなで遊ぼう。

何かをやらなければならない。何かしらの成果のようなものが必要だとかいうこころは、子どもにとってはまったく必要のない大人の都合。

けれど、大人の世界ではそういうことが求められる。

呼んでくれた岡田先生が率先して遊ぶようになって嬉しかったけれど、他の先生とは意思疎通をしていないし目標を共有していなかったのが惜しかったな。

次回からの課題です。

教師も全員が理想とする目標を共有していれば、もっと気を使わずに伸び伸びとさせることも出来たし自分も楽だったかもしれない。

昨日はまずは一人で踊って、ペアでからだをつかってお話しをする。そしてチームに分かれて踊りをつくって発表して、最後に皆んなでからだをつかってお話しする。

という流れにしようと思っていたけれど、行きの車中で東洋に「最初に皆んなでからだうごかしたりしますか?」と聞かれて「そうだよなあ。そのほうがいいか」と思う。

最初は皆んなでからだをうごかして、最後は皆んなでからだをつかって対話をしよう。

今回は音楽家の熊坂路得子さんが入ってくれたので、何をやっても良い感じになって有り難かった。

ルツコさんのアコーディオンの音色が子どもたちの踊りを包んでくれて、とてもとても素敵な瞬間に満ち溢れた。

最後に全員でからだで対話するというのをやりたかったが、時間切れになってしまって残念。

けれども予定は未定、計画通りになんかならないのが子どもとの時間の魅力。

休憩のあと全員が好き勝手に遊んでいるのが良かった。大人も子どもも皆んな好きなことをしていて、昨日で一番いい瞬間だったように思う。

「これでは休み時間と同じだな。」と思って止めようとするけれど「まるで休み時間のように自由に遊んでいて、それを止めてまでやるようなことなどあるのか?」と自問自答する。

意味のないことをするのが舞踏。

先日の2回目のテルプシコールの撮影でも感じたけれど、舞踏家というのはほんとうに役立たず。人間のクズのような存在です。

でもそれでいい。

もっと役立たずにもっと適当にもっといい加減に、どうでもいい何でもいい「これでいいのだ」とこころを遊ばせて、からだを遊ばせて魂を遊ばせるのです。

そうして意味から永遠に逃れ続ける。

率先して社会にとってまったく役に立たない存在になる。それでこそ逆に社会での存在意義が出てくる。

そんな風に思うのです。

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ルツさんのアコーディオンで何の変哲もない体育館がパリの街角のようになっていた。
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 07:03| ブログ?