2020年07月30日

1945年7月

今年も、もうすぐ8月です。

それとともに曽祖父、戸籍上は祖父ですが、木谷真一の命日が近づいて来ています。

1945年7月、広島は大きな空襲もなく穏やかな日常が流れていた。

全国的に梅雨が長引き肌寒い日がつづいている

広島市横町の『丸佐呉服店』では閉店の準備がちゃくちゃくと進んでいて真一は、残務整理や片付けをつづけている。

丸佐呉服店は、淡路島の五色町都志出身である真一の兄・木谷實平(きだにじつへい)が立ち上げた呉服屋で、往時は数十人の丁稚や番頭が働く大店であった。

實平は大阪、北海道、広島に店を出して大成功していた。全国を忙しく飛びまわる實平に代わって広島の店は真一に任せられている。

しかし戦争で規模がどんどん縮小し、とうとう広島の店も閉めることになった。

物資が極度に不足し呉服など着るひとは、もう軍部のお偉いさんの奥方などしかいない。

広島の店も開店休業のような状態がずっとつづいている。

家族はすこし前に、真一の故郷である淡路島へと疎開をした。広島駅で別れを惜しんだが、店の片付けが終われば彼も家族の待つ淡路へと帰れるのだ。

鬱陶しい雨が降りつづきやりきれない気持ちになるが、家族のことを思うと少し気分が晴れた。

ここ広島は七つの川が豊かに流れる城下町で、いまは軍都として人が沢山働いている。

物がなく貧しい毎日だが空襲がない広島では、それ以外は戦前とあまり変わらない日常が流れている。

ふと、戦時中だということを忘れてしまうような瞬間もあった。

しかし市内では労働力の不足を補うために全国から学徒の動員がつづいていた。これによって8月6日に約7200人の学生たちが犠牲になるのだった。

日本軍は本土および本土近海にて制空権・制海権を失い、日本近海に迫るようになった連合軍艦艇に対して特攻機による攻撃が残された手段となっている。

同じ頃、太平洋のテニアン島のハゴイ基地では科学者たちが原子力爆弾“リトルボーイ”が、サンフランシスコから船で到着するのをいまかいまかと待っている。

いっぽうポツダムでは米英支三国共同宣言の用意がすすみ、日本への無条件降伏の勧告と天皇制を戦後利用できるかの議論がつづいていた。

運命の歯車はゆっくりとうごきつづけていたのだった。

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『燃える』

参照:バイオウェザーサービス『異常気象を追う』| ヒロシマ平和メディアセンター『学徒動員』| Wikipedia.
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 15:35| ブログ?