2020年08月30日

悲しい話しはもうやめたい

<息子よ。この手のひらにもみこまれてゐろ。帽子のうらへ一時、消えてゐろ。>金子光晴

戦地にじぶんの子どもを送らねばならないことを考えながら子を育てる。やがてその子も戦争で死ぬことを思いながら育っていく。

そんな時代がこの国にもあった。

戦争という若いいのちを求めるもの・・・

太平洋戦争の終わりごろ、陸軍中野学校の卒業生である青年将校42名が沖縄に送りこまれ、強制的に集められた14歳から17歳の沖縄の少年たちを組織してゲリラとして戦わせた。

「10人殺したら死んでもよい」と教え込まれた少年たちは、命じられるままに敵陣を撃破し、生まれ育った村々を焼き払ったという。

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沖縄戦で捕虜になった少年兵。This image comes from the Wikipedia.

おなじく戦時中から末期にかけて、10代の女性とまだ戦場へいけない男の子たちによる軍需工場での作業などの学徒動員がはじまる。

学校の授業はすべてなくなってしまった。

戦争が激しくなるにつれて勤労期間が長くなり、1944年3月には年間を通して毎日勤労することになる。

同年11月以降、空襲で火災が広がるのを防ぐために家を壊して空間をつくる『建物疎開』もおこなわれるようになった。原爆資料館によると、建物疎開をしていた動員学徒約7,200人が原爆で犠牲になった。

日本全土では、300数万人の学徒が動員され、1万人余りの若者たちが犠牲になったといいます。

そうして有名な特攻作戦がはじまる。戦況悪化の中、起死回生を狙った不条理な戦術“特攻”。

1944年10月、フィリピン・レイテ沖海戦で、海軍の若者24人が『神風特別攻撃隊』に編成され、爆弾を抱いて敵艦へ体当たり攻撃を仕掛けた。

ここから「日本を守るためには特攻しかない」という空気ができ同調圧力がうまれ、まるで雪崩のように特攻作戦一本やりとなる。その結果、終戦までに6,418人が戦死したとされている。

特攻は、爆弾を抱えて敵艦に体当たりする航空機特攻のほか、大型魚雷に操縦席を設けた人間魚雷『回天』

モーターボートに爆弾を搭載した水上特攻艇『震洋』

爆弾を積みロケット噴射で滑空して体当たりする『桜花』などの特攻兵器も開発、投入された・・・むごいことです。

1945年4月には、戦艦『大和』を旗艦とする艦隊が沖縄決戦にむかう途上、ほぼ撃沈された。この出撃は作戦命令に“特攻”と記されていて、この大和艦隊の死者だけで3,000人を超えるという。

いっぽう満州の荒野で、押し寄せてくるソ連軍戦車に爆雷を抱いて突っ込んだ若者たちもいた・・・

いつの時代もどんな国でも、戦争によって若いいのちが犠牲になるのです。

<戸籍簿よ。早く焼けてしまえ。誰も。俺の息子を覚えているな。>金子光晴

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子犬を抱く荒木幸雄伍長17歳。荒木伍長の左から時計回りに、早川勉18歳、高橋要18歳、高橋峯好17歳、千田孝正18歳の各伍長。1945年5月26日、特攻出撃2時間前。Colour by royston leonard. This image comes from the Google.

参照・引用:2018年8月23日 毎日新聞・余録 | 2020年8月8日 朝日新聞・天声人語 | ヒロシマ平和メディアセンターWeb | 生活クラブ『生活と自治』NO.617 連載 戦果の記憶 | 産経ニュース | 講談社 オフィシャルウェブサイト | ウェブメディア『てのん 人ものがたり』
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 12:24| ブログ?