2020年08月11日

長崎の被爆者、谷口すみてるさんの証言

「私は1945年8月9日、爆心地から1.8キロの所を自転車で走っていて被爆しました・・・

9月になって、大学病院が治療をしているとのことで送られました。

そこではじめて医学的な治療を受けました。まず輸血です。

でも、私の血管に輸血の血液が入っていかないのです。内臓が侵されていたのでしょう。貧血が激しくて、焼けた肉が腐りはじめました。

腐ったものがドブドブと、体内から流れ、からだの下に溜まるのです。下にボロ布を敷き、それに体内から流れ出る汚物を溜めては、一日に何回も捨てなければなりませんでした。

その当時、火傷や怪我をした被爆者のからだに、ウジ虫がわいて、傷の肉を食べていました。

私には一年過ぎてから、ウジ虫がわきました。私は身うごきひとつできず、ましてや、座ることも横になることもできません。

腹這いのままで、痛みと苦しみの中で殺してくれと叫んでいました。誰一人として、私が生きられると予想する人はいませんでした。医者や看護婦さんが、毎朝来ては"今日も生きてる、今日も生きてる"とささやいておられました。

家の方では、何時死んでも葬儀ができるよう準備していたそうです。私は死の地獄をさ迷い、滅び損ねて、生かされてきたのです。身うごきひとつできなかったので、胸が床ずれで骨まで腐りました。

いまでも、胸はえぐり取ったようになり、肋骨の間から、心臓がうごいているのが見えます。

1年9ヶ月たって、ようやくうごけるようになり、3年7ヶ月たって、全治しないまま病院を退院しました。その後も、入退院を繰り返し、1960年まで治療をつづけてきました。

1982年頃から、ケロイドの所に腫瘍ができて手術を受けました。

その後も医学的にも解明できない、石のような硬い物が出来て手術を繰り返しています。皮膚が焼け、肉が焼けているため、人間が生きていくために一番大切な皮下細胞、皮下脂肪がないため、石のようなものができるのだそうです。

『平和』がよみがえって、半世紀が過ぎました。

私は奇跡的に生き延びることができましたが、いまなお、私たち被爆者の全身には、原爆の呪うべき爪跡があります。

核兵器と人類は共存できない。

私が歩んできたようなこんな苦しみは、もう私たちだけで沢山です。世界の人類は平和に豊かに生きてほしいのです。そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつくりましょう。

人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません。

私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死んでいけません。

長崎を最後の被爆地とするため。

私を最後の被爆者とするため。

核兵器廃絶の声を全世界に。」

2010年8月8日、アメリカン大学と立命館大学の学生への谷口稜曄さんの証言を転載。

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谷口さんは、最後までじぶんのからだを原爆の証として公にさらしつづけた。photo by AP通信社「条約の 締結祈る語り部の 背中の傷は 未だに癒えず」伊藤史織、静岡県立藤枝東高校3年
posted by Mukai Kumotaro & Duex Shrine at 08:32| ブログ?