どこか地方で鉄割アルバトロスケットの公演をしている。
だいぶんまえに台本が配られたので、すっかり忘れていて、まったく覚えてないのでピンチ。
一緒にでる新潟のグループの女の子に台本を借りてコピーをしにいく。「近くにコンビニとかあった?」と聞いたら「目の前にありましたよ」と言われてよし。
階段を降りて会場から出るが、さびれたその町にはお店ひとつない。
会場のまわりをぐるぐるぐるぐる探して回るけれど店はない。コピーがすぐできるようにと台本を見ると、よく使い込まれていてページごとにビニールがかけて分けられてて偉いなあと感心する。
感心するけどページがうまく開かないのでどないなっとんねん。これではコピーができない。本番の時間が刻一刻と迫るので焦る。
これから覚えるのは至難のわざ、イチかバチか覚えずにやるか。けれども戌井君の悲しそうな顔があたまに浮かんで、それではいかんと思いなおす。
だんだんこんなことあるわけない、これは夢だなと気づいてくる。
目が覚めて夢で良かった。
鉄割の夢はたいてい台本を覚えていないというもの。実際には台本は覚えて一言一句、間違えないようにしようと努力します。
努力しますが本番ではそんなことにとらわれていてはつまらないので、なにもかも放り投げて思い切って臨みます・・・
実家にいる。
妹が帰ってきて騒がしい。母親も帰ってきて家のなかを軽快に歩き回っている。姿勢も良くてええやん。
と思っていたらだんだん目がさめてきて、なんや夢か。
こちらは夢でちと惜しかった。現実には母親はだんだんと歩けなくなってきている。しかし気持ちはしっかりとしているので、もし歩けなくなっても車椅子で移動をすればいいと思う。
思うけれど、じぶんの足で歩くというのは人間のたのしみでもある。
近未来のひとたちは歩かない。足が退化して車椅子にのって生活している。
多和田葉子さんが書いた『献灯使』がそんな小説だった。
いまひとは車社会になってほとんど歩かなくなってきている。スーパーまで車でいってスーパーの中だけ歩いて、そしてまた車で帰ってくる。
歩くのは家のなかと店のなかだけ。そんなひとが現実に増えてきているのです。
そのうちにひとは、ほんとうに歩く必要がない生活を手に入れるのかもしれない。
2012年8月、遠田誠氏と世田谷トラムにて。独立して来年で10年か。