人間国宝の狂言師、野村万蔵氏が亡くなった。
去年の秋に万蔵氏に会った記者の話では、80歳に手がとどくひととは思えないほどに、声につやがあり、はだのいろつやもよかったという。
戦後、国の内外で狂言の地位を飛躍的に高めたひとである。惜しいひとを失った。
「少年時代にひっぱたかれて覚えた芸はわすれない」とご本人もいっているが、けいこをつけるときの父、万斎のしごきはすさまじいものだったらしい。どなる、はり倒す、むちで打つ。扇やキセルを飛ばす。
ついには雪の庭にけおとすこともあった。
泣き叫んでも、家に入れてもらえない。母親もかばってくれない。雪の庭にでてきて「さあ、父さんに謝って、もういっぺんけいこをしておもらい」というだけだ。
へとへとに疲れてせんべいぶとんにもぐりこむ毎日だった。
舞台でとちって楽屋にもどると「コノヤロー」となぐられる。げんこつを逃れて便所にかけこむと、父親は便所まで追いかけてきた、というから尋常ではない。
しごかれて、なにくそと思うていどではまだなまぬるい。なにくそを超えて、もう無我夢中になるところに本ものの修行があるのだと万蔵氏は回想している。
むろん、万之丞、万作ら4人の子をきびしく仕込んだ。しかし父親にたたかれたほどはたたかなかった。
「まずかったかな。」
成人した息子たちの舞台をみてそういったことがあるそうだ。
70歳のとき、観客が怖くなった。といって高尾山へ精神修行にでかけたという。芸の修行に終わりがないことを実践したひとでもあった。
「師匠のまねだけしているようでは、その芸は死ぬ」という名言も残している。
むかし、父親の万斎が「死ぬまでに、河を渡って起きたいな」といった。
「どこの河ですか」「太平洋という河さ。」
この稀有壮大の血は子も受け継いだ。万蔵氏は15年前、狂言師としてはじめてアメリカにまねかれ、以降、何回も太平洋という河をわたった。
最初に羽田をたったときのあいさつがいかにもこのひとらしい。
「やがて元気に帰ってきべえ(帰米)」
たき、すぐうごくからむずい。