1945年4月23日
沖縄、伊江島の大城安信さんは親せき、家族とともに壕に避難していた。
壕の中にいると、上陸してきたアメリカ兵の外に出てくるように呼びかける声が聞こえてきた。
けれども「捕虜になればみんな殺される」と聞かされていた壕の中のひとたちは、なかなか出て行くことができなかった。真ん中に立っていた男性が「一緒に死のう」と皆んなに呼びかけ、壕の中の人々はゆっくりと集まった。
直後、男性が爆弾を爆発させ、22人が命を落とした。
母親が抱いてかばってくれた大城さんは、爆発で崩れた岩に首まで埋まったが一命を取り留め、助け出された。
4月25日。
県立第三中学校4年生だった津嘉山朝彦さんは、宮崎から来ていた特攻隊長を沖縄本島北部の国頭村にあった日本軍の無線通信基地へと案内していた。
隊長は、特攻隊の戦況を軍へ報告するために宮崎から沖縄に来ていた。
案内役の津嘉山さんが隊長のあとにつづいて坂を登っていたとき、前方約20メートルの坂の上に米兵が銃を構えて立っているのが見えた。
隊長がとっさに坂を下ろうとした途端、米兵のなげた手榴弾が爆発、津嘉山さんは岩陰に隠れた。銃弾の途切れる合間をぬって山林を駆け抜けて無我夢中で逃げた。
隊長は津嘉山さんをかばって撃たれたようだった。
背中と右足に手榴弾の破片が食い込み血まみれになってうごけなくなっていたところを、津嘉山さんは同じ集落のひとに助けられた。
6月6日。
富名腰朝輝さんは家族、親せき10人あまりで南城市玉城の自宅近くの壕に避難していた。
ある日、日本軍の兵士に出て行くよう命じられ、1ヶ月間あちこちを逃げさまよったあと糸満市真栄平あたりで岩陰に隠れていた。
父親と叔父は今後の避難場所を話し合い、富名腰さんは少し離れたところで、いとことふたりで壕を掘っていた。
30分後、耳をつんざくような大きな音と爆風があがった。
駆けつけた富名腰さんは息をのんだ。岩陰にいた家族、親せきの大半が即死状態で、芋を洗っていた姉も亡くなっていた。
母親に抱かれていた2歳の弟はまだうごいていたが、富名腰さんが抱き上げるとしばらくけいれんしたあと、息を引き取った。
重傷を負った父親も数日後に亡くなった。
6月19日。
アメリカ軍の攻撃で逃げまどう避難民たちのなかに國吉昇さんはいた。
この時、すでに海、空、そして陸上から攻撃を受けて、避難民たちは袋のねずみとなり、逃げ場がなくなって大混乱となっていた。
付近一帯の道路のうえは爆撃によって負傷者や死体でいっぱいとなり、道の脇では腹を大けがした男性が「もう逃げ場がない!」と叫んでいた。
國吉さんは「阿鼻叫喚とはこんなものか」と感じたという。
『模写による構図』
参照・引用:NHK戦争証言アーカイブス『沖縄戦の絵』NHK 沖縄放送局