マティス大回顧展の圧倒的な作品点数にも、もちろん感激した。
けれど、それよりなにより『アビィニョンの娘たち』を見たときのしびれるほどの感動は、いまでも忘れられない。
実物は高さが2メートル以上あった。
写真で見たのとはまったく比較にならない迫力に圧倒されて打ちのめされた。唯一無二の強力な野生のようなエネルギーとパワーを発していた。
これをはじめて見たひとは度肝を抜かれただろうなあ・・・
1907年、秋。
画商のアンブロワーズ・ヴォラールは、パブロ・ピカソがアトリエをかまえる『洗濯船』へと向かっていた。
今日の朝、ピカソから興奮した声で新作がやっと描けたと電話があったのだ。
彼は、晩秋のパリ、ルビック通りの坂を汗をかきながら足早にのぼっていた。洗濯船へと着くと逸る気持ちを抑えて、ギシギシとなる暗い階段を上っていく。
ピカソは明るい色調の絵で最近、売れて来つつあったがまだ無名に近かった。だがヴォラールは、ほとばしるようなその才能に惚れ込んでいた。
ドアをノックするとすぐにドアが開いてピカソのギョロ目が出迎えた。相変わらずの眼光の鋭さだが、今日は機嫌がすこぶる良いようだ。
部屋へと招き入れられたヴォラールは、挨拶もそこそこに早速新作の前へと向かった。
真っ白な布がかけられた巨大なキャンバスがそこにはあった。何か言い訳をしようとするピカソを制して彼は言った。
いいから早く見せてくれ。
ピカソは意を決したように布を引き下ろした。
これが新作『アビィニョンの売春宿』だ!
ヴォラールは息をのみ、絶句した。
いままでに彼が一度も目にしたことのないものがそこに存在していた。
理解不能、完全に狂っている。頭がおかしくなりそうだった。人がねじ曲がり立体的なのかなんなのか。特に右側の娘?なのか?一体どうなってるんだ!
理路整然と絵の解説をつづけるピカソの声を聞きながら、彼は狂ってなんかいないのだ。と思った。
圧倒的な天才をまえにひれ伏したいような感覚を覚えながら足が震えていた。
じぶんはいま猛烈に感動しているのだ。やっと気持ちが整理出来てきたヴォラールはそう思った。
少し冷静になってきたヴォラールはこの絵をどう売り出すか。計算もはじめていた。
これは事件になるぞ。そんな風にも思いはじめていた。ひょっとしたら絵画の歴史が変わるのかもしれない。
窓の外は枯葉が舞い散りはじめている。
アトリエのなかには暖房もなかったが、寒々とした部屋のなかで幾何学的に光り輝くその絵だけが異様な存在感を放っていたのだった。
『アンブロワーズ・ヴォラール』
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